ポール・クローデル 「日本の魂を一瞥する」  Paul Claudel « Un regard sur l’âme japonaise » 日本の2つの美について

ポール・クローデルは1921年から1927年まで日本にフランス大使として滞在し、日本の芸術、文学、文化について様々な考察を行った。
その中でも、1923年7月に日光で行った講演「日本の魂を一瞥する(Un regard sur l’âme japonaise)」は、日本文化についてとても興味深い内容を含んでいる。

この講演で語られた日本の2つの美については、すでにこのブログで扱ったことがある。
クローデルと日本の美 Paul Claudel et la beauté japonaise

今回は、同じ箇所について、もう少し別の視点からアプローチしてみたい。


日本の美に関して、最初に言及されるのは、華やかな美。クローデルは日光の生徒たちに次のように語り掛ける。

C’est ce sentiment de révérence pieuse, de communion avec l’ensemble des créatures dans une bienveillance attendrie, qui fait la vertu secrète de votre art. Il est frappant de voir combien dans l’appréciation des œuvres qu’il a produites, notre goût est resté longtemps loin du vôtre.

ものを敬う敬虔な気持ち、暖かい善意の中で存在する全てのものと心を通わせるという気持ち、そうした気持ちが、あなた方(日本人)の芸術の秘密の力を形作っています。あなた方の芸術が生み出した作品の評価に関して、長い間、私たち(フランス人)の趣味があなた方の趣味とどれほどの距離があったかを知ると、びっくりしてしまいます。

クローデルが最初に指摘するのは、日本人は「ものを敬う気持ち(révérence)」を持ち、その気持ちは、存在するすべてのものが「交感(communion)」しているところから来ている、ということ。

ヨーロッパ的な思考では、人間と物との間には完全な断絶があり、さらに人間も一人一人が独立し、自立した存在であるために、他者との間には距離がある。そのため、「交感」が起こりにくい。
その違いが、日本的な感受性とヨーロッパ的な感受性の違いになって現れ、それぞれ別の「好み(goût)」を持つことにつながる。

次に、19世紀後半から20世紀前半にかけてヨーロッパで起こった日本趣味がどのようなものに向かったのか、浮世絵を例に説明される。

Notre préférence allait vers les gravures et peintures de l’École Ukiyoyé, que vous considérez plutôt comme le témoigne d’une époque de décadence, mais pour lesquelles vous m’excuserez d’avoir conservé personnellement tout mon ancien enthousiasme : vers une représentation violente, pompeuse, théâtrale, colorée, spirituelle, pittoresque, infiniment diverse et animée du spectacle de tous les jours. C’est l’homme dans son décor familier et dans ses occupations quotidiennes qui tient la plus grande place.

私たちの好みは、浮世絵の流派の版画や絵画に向かってきました。あなた方が、デカダンスの時代の証拠とみなすものです。そして、個人的に私は、それらに対してかつてと同じ熱狂をずっと保ってきたことを、お許しいただければと思います。つまり、私たちの好みが向かった表現は、激しく、豪華で、劇的、色彩豊かで、精神性に富み、絵画的で、無限の多様性があり、日々目にする光景で息づいているものです。最も大きな位置を占めているのは、身近な光景や日常的な仕事の中にいる人間です。

「私のかつての熱狂(mon ancien enthousiasme)」が向かったのは、ロダンの弟子であり愛人でもあったクローデルの姉カミーユ・クローデル(1864-1943)から、ポールが教えられた日本趣味(ジャポニスム、japonisme)だった。
彼は姉の影響で日本への興味を抱き、職業として外国大使を目指したのも、日本に来る夢を叶えるためだったと言われている。

浮世絵を「デカダンスの時代(époque de décadence)」の作品というのは、江戸時代の享楽的な文化を頭に置いているからだろう。実際、浮世絵の多くは、二大悪所と言われた芝居小屋と吉原を対象とした役者絵や美女図だった。

クローデルはそうした系統の美に対する変わらぬ愛好を告白した上で、その特色として、「激しさ(violent)」、「豪華さ(pompeux)」などなどを挙げていく。
こうした美は、ヴェルサイユ宮殿に代表されるような華やかさを感じさせ、ヨーロッパ的な感性にも馴染みやすいものだといえる。

次に、もう一つの日本的な美への言及がなされる。

Votre goût au contraire va vers les images anciennes, où l’homme a presque disparu ou n’est plus représenté que par quelques effigies monastiques qui participent presque de l’immobilité des arbres et des pierres. Une carpe, un singe suspendu à une branche, des fleurs, un paysage dont un pinceau magistral a établi en quelques indications aussi décisives que de l’écriture les étages superposés, voilà ce que nous montrent la plupart du temps ces kakémonos sans prix que leurs heureux possesseurs vont chercher au fond des siècles et déroulent devant nous avec des précautions infinies.

反対に、あなた方の好みは古い絵画に向かいます。そこでは、人間はほとんど消え去っているか、描かれるとしても数人の僧侶だけですし、その姿は全く動かない木や石のようです。一匹の鯉、枝にぶら下がる猿、花々、一つの風景、その風景は、一本の太い筆が習字の文字と同じようにいくつかの決定的な輪郭を示す線によって幾層にも重なる情景を描き出したものですが、そうしたものこそ、値段のつかないほど貴重な掛け物が、しばしば私たちに見せてくれるものです。持ち主たちは、非常に古い時代まで遡る掛け物を、非常に注意深く私たちの前に広げてくれます。

クローデルがここで言及する美については、水墨画を思い描くのが一番だろう。
水墨画は13世紀に日本にもたらされたとされ、初期には主に絵仏師や禅僧がその担い手だった。その後、室町時代になり、雪舟を代表とする画家たちの傑作が制作された。

雪舟の「四季山水図(山水長巻)」を見れば、絵画の中心が人間ではなくなり、人間が描かれるにしても自然の情景の一部となり、植物や鉱物と変わりがないことがすぐに理解できる。

周文の「竹斎読書図」からは、習字の文字の勢いや濃淡が水墨画にも使われていることを感じ取ることができる。

どっしりとした太い線が基礎的な輪郭を描き出し、その上に墨の特質を活かした濃淡明暗が加えられ、情景が何層にも重ねられたような風景。
この水墨画は、「太い筆(un pinceau magistral)」が、習字の「文字(écriture)」の濃い部分と同じように、「決定的な何本かの線( en quelques indications (…) décisives )」でしっかりと描き出すという、クローデルによる画法の説明を理解する助けになるだろう。(ちなみに、indicationは、基礎的な輪郭を指示する部分を意味すると考えたい。)

Et parfois, nous autres barbares qui avons toujours besoin d’être surpris et amusés, notre premier sentiment est celui de la déception. Nous manquons de cette sympathie intime — et, si je peux dire, de cette humidité de l’âme qui lui permettrait de s’unir affectueusement à ce déroulement de la jeune pousse qui commence à respirer, à ce puissant coup de queue du poisson, qui des ténèbres de la vase remonte dans les zones de la lumière aquatique.

私たち(フランス人)は粗野で、常に驚かせてもらい、楽しませてもらうことを必要としているために、時として、私たちの最初の感情は失望の感情です。私たちに欠けているのは、内的な共感、——— こう言ってよければ、魂の潤いです。もしもその潤いがあれば、魂が、息づき始める若い芽の生長や、沼の中の暗闇から水面の光の層へと上がってくる魚の尾の力強い動きに、深い愛情を持って一体化することができるのでしょう。

クローデルが自分たちを「粗野(barbares)」だと言うのは、華やかな美を前にした時には、「驚き(surpris)」「楽しむ(amusé)」ことができるが、水墨画のようなシックな美を前にすると、「失望(déception)」することが多々あるからだと考えられる。
言い換えると、ワビやサビを感じることができる感受性を高く評価していることになる。

そして、何でもないものに美を感じ取る感性が働く理由を、彼自身の言葉で説明する。
まず、「内的な共感(sympathie intime)」。
ものを外から眺めるのではなく、ものの内部に入り込み、共感する。
それができるためには、「魂(âme)」に「潤い、湿り気(humidité)」が必要だとする。
その水分があれば、魂は、「新芽(jeune pousse)」が成長する「展開(déroulement)」や、魚が「尾(queue)」で力強く水を「打つ(coup)」動きと、「愛情を持って(affectueusement)」、「一体化する(s’unir)」ことができる。
「内的な共感」とは、こうした魂の動きに他ならない。

「湿気(humidité)」という言葉で「水」の要素を強調することは、クローデルが日本文化の本質を的確に見抜いていたことを示す証拠と考えていいだろう。
日本の起源を表現した神話の中で、世界の始まりにおいて、国土は若くしてまだ固まらず、水に浮くクラゲのような状態で、葦が燃え上がるように神々が生えだしてくる。全ての始まりは、葦の生い茂る沼地を思わせる。
そこから、神が生まれ、人間が生まれ、動物や植物が発生する。それら個々の存在は、最初は一つの全体であり、分離してからも内的な繋がりを保っている。
人間は自然とともに、自然の中に生きている。そうした感覚が、日本的な感性の中には、今でも残っている。
そうした感性を、クローデルは日本の美術や文学から徐々に学んでいったのだろう。

Peu à peu seulement nous nous apercevons que cette souplesse délectable, cette justesse, ce suspens exquis dans le mouvement par exemple qui prend et enveloppe ce singe depuis le bout des ongles jusqu’à l’extrémité de la queue (ce n’est pas le singe qui est en mouvement, c’est le mouvement qui est singe), ce choix savant et naïf des moyens, cette patience de la contemplation jointe à la rapidité foudroyante de la main, cette suppression résolue et pudique des éléments inutiles et étrangers, mais cela c’est la vie elle-même, ce n’est plus de l’art, c’est la vie elle-même que nous surprenons à son travail, plus divine sous cette forme anonyme. Voici ce pauvre petit bout d’existence qui grâce à l’humble et pieux artiste est devenu vivant pour toujours.

本当に少しずつではあるが、私たちも気づいていきます。その愛すべき柔軟さ、的確さ、動きの中の素晴らしい宙づり、例えば、猿の爪の先から尾の先端まで捉え包み込む動きの宙づり状態(実際には、猿が動くのではなく、動きが猿なのです。)、様々な画法の博識で素直な選択、恐ろしいほど素早い手の動きと結びついた忍耐強い瞑想、無益で外的な要素の断固としていながらも慎み深い削除、それらは生命そのものなのです。もやは技術ではありません。生命そのものを、私たちは、それが働いている時に、いきなり捉えるのです。それは、匿名の形であるために、ますます神聖なものになっています。このちっぽけな存在の一端が、慎ましく敬虔な芸術家のおかげで、永遠に命あるものとなったのです。

クローデルが簡素な美から学んだ内容が列挙されるのだが、抽象的な名詞表現が多用されているために、日本の読者にはわかりにくいかもしれない。

日本語では動詞を多く使い、具体的な表現がなされ、こう言ってよければ、読者から「内的な共感」を得られるような語り方がなされることが多い。
それに対して、フランス語の書き言葉では、名詞表現で抽象的に論が進められ、読者は理解するために努力することが求められる。「内的な共感」が前提ではなく、「知的な訓練」といったらいいだろうか。

そこで、長谷川等伯「古木猿猴図」を見ながら、クローデルの列挙する内容を考えてみよう。

「柔軟さ(souplesse)」「的確さ(justesse)」「動きの中の素晴らしい宙づり(suspens exquis dans le mouvement)」、これらの要素は、この水墨画からすぐに感じ取ることができるだろう。

その上で、クローデルは、いかにもフランス的な思考で、これは「猿が動いている(le singe qui est en mouvement)」のではなく、「動きが猿なのだ(le mouvement qui est singe)」と記す。つまり、この絵は、猿が動いている姿を描いているのではなく、猿を通して動きそのものを捉えていると考えられる。

その「表現方法(moyens)」の「選択(choix)」に関しては、何か特別なものが選ばれるのではなく、「博識(savant)」でありながら「素直( naïf )」。
博識というのは、水墨画の伝統の中で猿は重要なテーマであり、画家はそのことをよく心得ていることを指すのだろう。
その一方で、それをそのまま取り上げるという点では、素直といえる。
例えば、有名な牧谿(もっけい)の「猿侯図」を思い出すといいだろう。

こうした素晴らしい水墨画は、「忍耐強い瞑想(la patience de la contemplation)」と「恐ろしいほど素早い手の動き(la rapidité foudroyante de la main)」、つまり筆の動きが組み合わされ、「無益で外的な要素(éléments inutiles et étrangers)」は全て「そぎ落とされて(suppression)」いる。
水墨画は、事物の外的な姿をそのまま描くのではなく、「造化の真」を捉えると言われるが、クローデルはその理解に達したのだといえる。

そして、彼は「造化の真」の本質を「生命(vie)」だと見なす。
猿の姿は動きを捉えるためだと見なしたように、描かれている全てが「生命」そのものの表現だというのである。

最後の部分で、「匿名(anonyme)」ということに言及される。それは、クローデルの考察が名前のある有名な水墨画を頭に置いたものではなく、床の間に掛けられた古い掛け軸の絵画を対象したものであるところから来ているのだろう。
匿名であるからこそ、ますます神聖なものに感じられると、彼は付け加える。

日本の美術に関するクローデルの考察は、儚さが永遠性をになうという、日本的な感性の特色に言及するところで終わる。

Et de même que vos grands seigneurs d’autrefois préféraient aux vases d’or et de cristal une simple écuelle de terre mais à quoi le potier avait su communiquer le moelleux de la chair et l’éclat de la rosée, ainsi pour exprimer l’éternel ces grands artistes, qui souvent étaient des prêtres, n’ont pas peint seulement des symboles et des dieux, mais précisément ce qu’il y a de plus fragile et de plus éphémère, de plus frais encore du frisson de la source ineffable, un oiseau, un papillon, moins : une fleur qui va s’ouvrir, une feuille qui va se détacher. C’est tout cela à quoi par un seul point de leur pinceau magique ils ont prescrit de subsister. La chose est là devant nous, vivante et immortelle, indestructible désormais dans son existence passagère.

あなた方のかつての君主たちは、黄金やクリスタルの花瓶よりも、質素な土器の鉢を好みました。陶芸家たちはそれに皮膚の柔らかな感触と露の輝きを伝えることができたのです。それと同じように、永遠を表現するため、偉大な芸術家たちは、しばしば僧侶でしたが、象徴的な物や神々の姿を描くだけではなく、か弱いもの、儚いもの、言い表せないほど素晴らし泉の震えで未だに新鮮なもの、一羽の鳥、一匹の蝶を描きました。さらには、今にも開こうとする一本の花、枝から離れ落ちようとする1枚の葉もです。それらすべてに対して、芸術家たちは魔法の筆でたった一つの点を加え、それらが永続するように命じました。事物はそこ、私たちの目の前にあり、生き生きとし、不死です。過ぎゆく生の中で、不滅のものとなるのです。

クローデルが賞賛する陶器を「質素な土器の鉢(une simple écuelle de terre)」と無骨な日本語にしてしまったので分かり難いかもしれないが、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)の 赤楽茶碗『雪峯』のような作品を見ると、その素晴らしさは一目瞭然だろう。

この茶碗には、「か弱さ(fragile)」「儚さ(éphémère)」、「素晴らしい泉(source ineffable)」からひっそりと流れ出す水の「揺らぎ(frisson)」を思わせる「新鮮さ(frais)」といった要素が感じられる。
それと同時に、その美しさが永遠であることも伝わってくる。
失われる時間と永遠が同時に表現されているのだ。

日本の芸術では、そうした美を、身近な何でもないものを素材として生み出してきた。
クローデルの感性は、そうした美の対象として、一羽の鳥や蝶というだけではなく、今まさに開こうとする花や、枝からまい落ちそうな葉という、小さなものの一瞬を捉えるところまで来ている。

目の前にある何でも無いものが、芸術家の筆や手によって、永遠の美への変化する。生は時間の流れに従って過ぎ去るが、しかし、そこには永遠もある。
そうした日本的な感性に基づく美を理解するためには、『方丈記』の最初の一節を思い出すといい。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

川の水は絶えず流れていってしまい、留まることはない。しかし、その流れが絶えることはない。
この一節では、しばしば、生の儚さばかりが強調されるが、しかし、永遠もしっかりと意識に留められている。

クローデルの「過ぎゆく生の中で、不滅のものとなる(indestructible désormais dans son existence passagère)」という表現は、まさに日本的な心性を捉えている、と言ってもいいのではないだろうか


外国人が新鮮な目で日本の文化や生活様式を体験し、様々な感想や意見を発することがよくある。
そうした中でも、ポール・クローデルの考察は、幅広く深い教養と知識を持ち、自分たちを「粗野」と言うほどの謙虚な心持ちで行われたために、日本人にとっても学ぶものが多いものになっている。
ここまで読んできた日本の美術に関する考察が、そのことを証明している。

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