シャルル・ボードレール 新しい美の創造  3/5 今という永遠の瞬間を捉える

ボードレールは詩人であるだけではなく、美術、文学、音楽等に関しての評論活動を行った。それら全ての根底にあるのは「美」の探求。
その点は『1846年のサロン』から1867年8月の死に至るまで、常に共通していた。

しかし、1857年の『悪の華』の有罪判決の後、1861年に出版される第2版の構想を練る時期を中心に、ある変化が見られた。
「現代生活の英雄性」という美学を中心にしながらも、後年になると、力点が「今という永遠の瞬間」に置かれるようになったのだった。

「今という永遠の瞬間」というのはボードレールではなく、私の表現だが、その言葉を理解することで、ボードレールが1860年前後に提示した「モデルニテ(現代性)」の美学を理解することができる。

その美学は、その時期に発表された様々な批評活動を通して言語化されていった。
a. 美術批評ー「1859年のサロン」「現代生活の画家」など。
b. 音楽批評ー ワグナー論
c. 文学批評ー『人工楽園』、ポー、ユゴー、フロベール論など。https://bohemegalante.com/2022/08/20/baudelaire-creation-beau-2/

ここでは、それぞれの批評を個別に取り上げるのではなく、美と忘我的恍惚(エクスターズ)の関係を中心にして、「新しい美」を生み出すいくつかのアプローチを検討していくこととする。

忘我的恍惚(エクスターズ)と美

私たちは、何が美しいか厳密に決めることができるだろうか?

なんとなくではあるが、美しいものとは何かが決まっていて、例えば、平等院鳳凰堂やパリのノートルダム寺院は誰もが美しく感じると思っている。
ヨーロッパでは、19世紀半ば以前、古典主義的な世界観、美意識、価値観が支配的だった時代には、美しいものとそうでないものは決まっていたといえる。
古代ギリシア・ローマの規範を復活させたルネサンスの美意識がその基準であり、美の理想を目指して芸術家たちは創作を続けたのだった。

その一方で判断が分かれることもある。
私には、現代のかなり奇抜な服が美しいとは思えないが、しかし多くの人々に美しいと感じられているために、人気があるのだろう。
そのように考えると、鳳凰堂やパリのノートルダム寺院を美しいと感じない人がいてもいいし、美の基準は人それぞれでいいということになる。
そして、それが現在主流の考え方だろう。

ボードレールは、「美は奇妙なもの」とか「美は人を驚かせる」という刺戟的なフレーズを使い、古典主義的な美の基準を揺るがせようとした。
彼が詩で取り上げるのは、美の対極にあると見なされてきた醜いものや悪を連想させるもの。それらを描いて美を現出させる。
そのように考えると、美の基準は一人一人の感性によって違うという現代的な美の概念を最初に提示したのはボードレールだともいえる。

そうした中でも、「美とは何か?」ということは問題になるはずである。
その疑問に答えるために、ボードレールは、スタンダールに倣って、「美は人を幸福にする。」と言う。
その言葉をもとに、美について考えてみよう。

私たちは、美味しい物を食べている時、幸せを感じる。美味しい物を夢中になって食べる。その時には、我を忘れている。ただ、美味しいだけだ。
好きな音楽を聴いている時、曲に没頭していると、時間を忘れてしまう。それがこの上もなく幸せな時間に思われる。
絵画を見ている時も、映画を見ている時も、本を読んでいる時も、熱中していると、時間はあっという間に過ぎてしまう。
好きな人と、あるいは友人たちとでも、楽しい時間を過ごすのは幸せな時間だし、もうこんな時間!と驚くことがあったりする。

こうした時、時計で時間を計れば、何分とか何時間とか測定できる。しかしそこで示される時間は、機械的な基準で測る抽象的な数字でしかない。

他方、熱中している時はそうした時間で測られるものではなく、我を忘れて、何も考えない。自分がここにいて、相手がそこにいて、物があってといった、客観的な状況も考えない。幸せだとも思わない。ただ、その時を生きている。
幸せだと感じるのは、熱中している時ではなく、それを振り返った時。その時、自己意識が戻り、自分は幸せだと意識する。

こうした「忘我」状態が、「美」を出現させるとボードレールは考える。
我を忘れるほど楽しいその瞬間、私という存在も私を楽しませてくれる存在も、意識に上ることはなく、全てを忘れて熱中している。
あえてその状態を表現すれば、私と対象が一つになり、世界全体が一体化している。日本的に言えば、無の状態と言ってもいいかもしれない。
その状態が持続している間は、時間も空間も自己意識もない。持続が途切れた時、幸せとか、美味しかった、楽しかったとか意識される。

従って、「美は人を幸福にする」を言い換えると、「忘我へと人を導くものが美」、あるいは、「美は人を忘我にする」という定義を導きだすことができる。

この考え方に基づいて考えると、美しいものとは何か予め決まっているのではなく、我を忘れるほど幸福だと感じさせてくれるものであれば、どんなものでも、その人にとっての美の対象になる。
忘我的恍惚、つまりエクスターズが美の源泉にあるといってもいい。

忘我的恍惚(エクスターズ)への道

(1)官能によるエクスターズ

官能的な刺戟によって快感が最高潮に達し、エクスタシーの状態が発生することはある。

風紀を乱すという理由で断罪された『悪の華』初版の6編の詩は、当時としてはエロチシズムが過剰に表現されたものであり、それらの詩句の内には官能を強く刺激するものが含まれていた。

その6編の詩の中の一つ「宝石」は、「愛しい人は裸だった。私の心を熟知している/彼女が身に付けていたのは、響きのいい宝石だけ。」から始まる。
その後、肉体の各部分が、手、足、股、腰、腹、胸と数え上げられ、最後には、「私には見えてくるようだ、新しい構図で、アンティオペーの腰が若者の胴体と結合するのが。彼女の胴のくびれが骨盤を高く突き出させていた」という詩句が連ねられる。

ギリシア神話の中で、アンティオペーはゼウスに愛され、ゼウスは半人半獣の姿をしたサテュロスに変身して、彼女のもとを訪れる。
この挿話は西洋絵画で人気を博し、ルネサンス時代の巨匠コレッジョを始め多くの画家が、そのテーマの絵画を描いている。
ドラクロワの「女とオウム」にはサチュロスは登場しないが、裸婦像はアンティオペーであり、この絵画が「宝石」にインスピレーションを与えたと考えられている。

「宝石」と同じように、ボードレールの詩句にはしばしば官能的な表現が見られ、エロチックの要素が当時の読者たちの五感を刺激したことがあっただろう。

(ただし、21世紀の読者にとって、その刺激が19世紀と同様の効果を持つことはない。現在の私たちは、刺激の質も強度もまったく異なる時代を生きている。)

(2)薬物(ハシシ)によるエクスターズ ー 『人工楽園』

1860年に出版された『人工楽園』の中で、ボードレールは、大麻の一つであるハシシについての考察、そしてイギリスの作家トマス・ド・クインシーの『アヘン吸引者の告白』の翻訳を通して、麻薬によって引き起こされるエクスターズの効果を詳細に記述し、忘我的恍惚を芸術創造の原理の中心に据える美学を構築した。

ただし、最初に注意しておくと、麻薬による恍惚は「人工的」であり、真の芸術家は麻薬を必要としないというのが、ボードレールの主張である。
真の芸術家にとって麻薬の役割をするのはイマジネーション。その点については「1859年のサロン」における想像力論の中で見ていくことにする。

ハシシに関しては、1840年代、狂気による幻覚を探るため、精神科の医師たちが自分たちで大麻を試してみたことが知られている。
最初のきっかけを作ったのは、精神科医のモロー・ド・トゥール。彼は、中近東に旅行中、ハシシの引き起こす幻覚症状が狂気や夢の映像と類似していることを体験し、ハシシを使った精神錯乱の研究を始めた。

その後、モロー・ド・トゥールも参加して、サン・ルイ島にあるピモダン館で、ハシシを体験する会が行われた。その館には、インド行きの船から逃れてパリに戻ってきたボードレールも住んでいた。
「ハシシ吸引クラブ」の参加者には、ボードレールの他、ゴーティエ、ネルヴァル、アレクサンドル・デュマ、バルザック、フロベールなどの文学者、ドラクロワ、ドーミエといった画家もいた。

ボードレールはこうした体験をもとにして、1851年にワインやハシシによる幻覚作用に関する考察を発表し、1860年にはそこからさらに発展し、「人工楽園の美学」とも呼びうる美学を作り出す。

ハシシによって陶酔が引き起こされると、現実感覚が分解され、幻覚が始まる。

 実際、陶酔のこの期間に、全ての感覚において、鋭さが高度に達し、新しい繊細さが明確になる。臭覚、視覚、聴覚、触覚が、その進展に加わる。目は、無限を見つめる。耳は、この上もなく大きな騒音の中で、ほとんど聞こえない音に気づく。幻覚が始まるのはその時だ。外部の物質が、ゆっくりと、継続的に、独特の外観をまとうようになる。デフォルメし、形を変える。次に、曖昧さ、誤認、思考の入れ替わりが起こる。音が色をまとい、色が音楽を含むようになる。

一言で言えば、現実がデフォルメされ、目に映る映像が歪み、音が強烈になったり乱れたりする。
「音が色をまとい、色が音楽を含む」ということは、五感が連動し合う「共感覚」の世界が成立することを意味している。

こうした世界観は、後の時代のムンクやシュールレアリスムの絵画を先取りしていると言ってもいいだろう。

次に、幻覚の出現する際の状況が、さらに一歩踏み込んで分析される。そこで最も重要なのは、見ている者と見られている物が一体化し、「主体と客体の区別が消え去る」ことにある。

(前略)あなたは、外部の物体を見つめているうちにあなた自身の存在を忘れ、しばらくすると見ている物体と混ざり合ってしまう、ということが起こる。あなたの目は、風によってバランスよく折り曲げられた木をじっと見つめる。数秒後、詩人の頭の中ではごく自然な比較でしかないようなことが、あなたの頭の中で一つの現実になる。最初、あなたはその木に、あなたの情熱、欲望、あるいは憂鬱な感情を投げかける。すると、木のうめき声や揺れが、あなたのうめき声や揺れになる。間もなく、あなたは木になる。同じように、大空の彼方で羽ばたく鳥は、最初、人間的な事物を超えて飛びたいという不滅の欲望を表現している。しかし、すでにあなたは鳥そのものだ。

見ている主体が対象と一体化するとは、別の視点から見れば、我を忘れて見とれることでもある。その時は何も考えず、自分の存在を意識することはない。
ボードレール的に言えば、「あなたは木になり」、「あなたは鳥そのものだ」。もちろん、その瞬間に、そう意識することはない。
後から分析すると、あなたの情熱や感情や欲望を対象に投げかけるとか、対象にそうしたものを見たとか言うことができるかもしれないが、その時には「忘我」の状態でいる。

このように、『人工楽園』においてボードレールは、ハシシやアヘンの幻覚が忘我的恍惚感を生み出すことを示し、美学の原理として提示したのだった。

(3)イマジネーション ー 「1859年のサロン」

人工楽園を発生させるハシシなどの薬物は、言葉通り人工的なものだった。ハシシを吸引すれば誰にでも楽園が発生する。それは芸術家の創造物ではない。

それに対して、真の芸術家が使用するべき、ハシシに代わるものがある。それは何か?
答えは、「イマジネーション」。

それぞれの芸術家は、自らの「気質」に応じて、自らの中に備わるイマジネーションを働かせ、独自の世界を作り上げる。イマジネーションを単に想像力というよりも、「創造的想像力」と言った方がボードレールの意図に近いだろう。

彼は、「1859年のサロン」の中で、イマジネーションを「諸機能の女王」と呼び、イマジネーションは「分析」(A)と「総合」(B)を行うと定義付ける。

(A)「分析」
イマジネーションの「分析」的な働きは、次のように定義される。

想像力こそが、人間に、色彩、輪郭、音、香りの精神的な意味を教えた。それは、世界の始まりにおいて、類似と隠喩を創造した。

私たちは五感を通して、色や形(視覚)、音(聴覚)、香り(臭覚)等を捉える。
そして、イマジネーションは、分析的に把握された諸感覚の「精神的な意味」を教えるという。
つまり、感覚は物知的、肉体的な次元に留まるにしても、その刺激は人間の内部にある感情を引き起こす。
例えば、色彩の精神的な意味とは、次のように考えられる。

その絵画には一つの特別な色調があり、絵画のどこかの部分に配置されている。そして、その色調が鍵となり、他の色調を束ねている。誰でも知っていることだが、黄色、オレンジ、赤は、喜び、豊富さ、栄光、愛の観念を思わせ、それらの表現となる。

視覚で捉える色が、喜びといった感情、さらには、より抽象的な栄光や愛といった「精神的な意味」を持つ。

その上で、イマジネーションは、「類似」と「隠喩」を作り出す。
「類似(アナロジー)」は物同士が似ていること、「隠喩(メタファー)」は、そこにある物がない物を連想させること。
そのように考えると、類似と隠喩は、物と物の関係を作り出すという点で類似した働きをしていることがわかる。

従って、イマジネーションは、五感を通して受け取る感覚の「精神的な意味」を解明し、それらの類似関係や隠喩関係を分析する能力であるといえる。

(B)「総合」

イマジネーションは創造物全体を分解する。そして、魂の最も深いところでしか見つけることができない規則に従って集められ、配置された材料を使い、新しい世界を創造する。イマジネーションは新しいという感覚を作り出す。

ここで最も重要なのは、作り出されるものが、「新しい」世界、「新しさ」の感覚であること。

イマジネーションは世界を分析し、分解した後、そこでばらばらにされた材料を使い、それらを「総合」する。

例えば、画家はリンゴを見て、色や形、そしてそれらの精神的な意味を分析し、画布の上にリンゴを描く。

その作業はある規則に従って行われるが、その規則の原則は、画家の「魂の最深部」にある。つまり、「総合」する際に最も重要な鍵は、画家の魂の中にあることになる。

その結果、一つのものを描いたとしても、その絵はモデルとなったリンゴの単なるコピーではなく、全く新しいものになる。
ボードレールは、そのことを強調するために、「新しい世界」を作ると言うだけではなく、「新しいという感覚」を創造するのだとして、「新しい」という言葉を反復する。

こうした創造の過程は、「1846年のサロン」においても、すでに展開されていた。
その際には、「辞書」の比喩が使われた。辞書をそのまま再現しても芸術作品にはならない。創造者は、辞書の言葉を用い、自分の内部にある「超自然ななイメージに従って言葉を並び替え、作品を制作する。
そこでは、分解と総合という点で、1859年と同様の考えに基づいていた。

1859年のボードレールが13年前とは違う点は、「新しさ」を強調することである。
モデルを再現するのではなく、モデルから素材を取り出して制作した作品は、モデルから独立し、新しいものとなり、新しいという感覚を生み出す。

この意識の違いは、ロマン主義を含めたそれまでの芸術観と、ボードレールから始まる新しい時代の芸術観の根本的な違いである

(C) 「分析」と「総合」が創造する「新しい世界」
イマジネーションによって創造された新しい世界について、ボードレールは、写実主義の画家の絵画と対比させることによって明らかにしようとした。

写実主義の画家の言葉。

「私が描きたいのは、そこに存在するか、あるいは存在するかもしれないとされる事物だ。私の存在はないものと仮定している。」

新しい世界を創造しするイマジネーションの画家の言葉。

「私は、精神の光で事物を照らし、その反射を他の人々の精神の上に投げかけたい。」

一方の画家は、自分は存在しない、つまり自分の視点はないものとして、世界を客観的に描くと主張する。
もう一方の画家は、自分の精神の光が照らす世界像を描き出し、その光を絵画を見る者にも投げかけたいと望む。
一方の絵画は現実の再現(コピー)であり、もう一方は現実から独立した独自の世界になる。

よい絵画は、それを生み出した夢に忠実であり、夢と対等なものとして、一つの世界のように制作されなければならない。

「イマジネーション」を「天然のハシシ」として作り出された創造物は、まず第一に、「夢」に忠実である。
その夢とは、イマジネーションの「分析」機能と「総合」機能によって生み出された「コレスポンダンス」の世界と言い換えてもいい。諸感覚が対応し共鳴する共感覚の世界。

その世界は、「一つの世界」として存在する。
つまり、現実世界に従属するコピーではなく、現実と同等の価値を持つ一つの独自の世界だとみなされる。
1枚の絵画、一編の詩は、一つ一つがそれ自体で自立した一つの世界なのだ。

「1859年のサロン」ではあまり言及されないが、新しい世界を生み出す際にも、その世界を受容する際にも、エクスターズが発生し、美の源泉であることが前提となっている。
イマジネーションとエクスターズの関係は、ハシシの場合と同じであることを頭に留めておきたい。

19世紀後半から始まる芸術観や世界観は、ボードレールによって提示されたイマジネーションを核とする創造原理に源を発していると考えてもいいだろう。
現実と再現という二重化した世界観が終わり、作品そのものが一つの現実となる一元的な世界観が、芸術の世界では主流になっていく。

今という永遠の瞬間の美

コンスタンタン・ギースを取り上げた「現代生活の画家」と題された美術批評でも、美の二つの側面、つまり一時的な様相と永遠な様相に言及され、それらの関係が次のように語られる。

美を構成する要素の一つは、永遠で不変なもの。その数量を決定することは極度に難しい。もう一つの要素は相対的で、状況に依存し、もしこう言ってよければ、代わる代わるに、あるいは一体化し、時代、流行、道徳、情熱になることがあるだろう。第二の要素、つまり、神聖な菓子を包んでいる、楽しく、心地よく、食欲を誘うものがなければ、第一の要素は消化が悪く、人に評価されず、人間の性質に適合も適応もしないだろう。(中略)
こうした芸術の二重性は、人間の二重性の避けがたい結果である。永遠に存続する部分は芸術の魂であり、変化する要素はその肉体だと考えるといい。

こうした二重性の説明は、「1846年のサロン」で示された、「あらゆる美は、潜在的な全ての現象と同じように、永遠なものと束の間のもの、絶対的なものと個別的なものを内蔵している」という定義を、より詳細にしているにすぎない。

「現代生活の画家」の中でより注目したいのは、この原則に基づいた上で、現実から自立した「新しい世界」の特色として、「今・現在」に焦点が当てられることである。

過去は、幻の刺戟を保ちながらも、生命の光や動きを取り戻すだろう。そして、自らを現在にするだろう。

過去は、記憶として人間の意識の中にしか存在しない「幻」とも考えられる。
現在は、生きているからこそ、時間の経過とともに変化し、移ろっていく。
その現在の中に、英雄的な永遠の美を有する過去が甦ることになれば、束の間と永遠が同時に生成することになる。
「過去が自らを現在にする」、つまり過去が現在になるとは、そうした意味だと考えていい。

そして、ボードレールは、現在の美を捉える場所として、悪や醜の充満する都市の雑踏を提示する。

現代生活の画家として彼が高く評価するコンスタンタン・ギースは、雑踏の中を過ぎ去る女性たちの姿を捕らえた。
エドガー・ポーも「群衆の男」という小説で、思い出が今に蘇る様を描き出し、ボードレール自身も散文詩「群衆」でポーに続いた。

  多人数と孤独。活動的で肥沃な詩人にとって、その二つは、同等で交換可能な言葉だ。自分の孤独を人々で満たすことができない者は、忙しい群衆の中で一人でいることもできない。
  詩人は、その比類なき特権を享受する。思いのままに、自分自身であることも、他人であることもできる。さまよえる魂たちが肉体を探すように、詩人は、望む時に、ある人の中に入り込む。彼にとっては、全てが空なのだ。閉ざされているように思える場所があるとしたら、彼の眼に、訪れる価値がないように見えるからだ。
  思慮深く孤独な散歩者は、この群衆全体との一体化から、独特な酔いを引き出す。彼は、群衆と容易に結び付き、熱を帯びた歓喜を知る。(「群衆」)

孤独な散歩者が、過ぎ去る人々の群の中に入り込み、群衆と一体化する。その時に「独特な酔い」が生じるとしたら、それは、散歩者の自己が消失し、群衆の無の中に溶け込むからだ。つまりその酔いとは、忘我的陶酔(エクスターズ)に他ならない。

韻文詩「通り過ぎた女(ひと)へ」では、群衆の中ですれ違った女性を美として描き出し、今の瞬間に力点が置かれる。

一瞬の閃光 。。。次に、夜!ーー 逃げ去る美よ、
その視線が、突然、私を甦らせた。
私はもうあなたを、永遠の中でしか見ないのだろうか?

あちらで、ここからとても遠いところで! 遅すぎる! 決して会えない、たぶん!
なぜなら、私はあなたがどこに逃げていくのか知らない。あなたは私がどこに行くのか知らない。
ああ、あなたを私は愛したかもしれない、あなたはそれを知っていた!

閃光の瞬く一瞬。その瞬間に過去、現在、未来が凝縮され、永遠が垣間見られる。
イマジネーションが作動して作り出された「新しい世界」。そこを通り過ぎた女(ひと)は、束の間の存在でありながら、時間を超えた永遠の存在でもある。

彼女の姿を浮かび上がらせる詩句には、生き生きとした息づかいを伝える感嘆詞が数多く用いられ、美に打たれた詩人から湧き上がるエクスターズを表現している。
そして、読者はそれらの詩句によってエクスターズへと導かれ、ボードレールが感じた美を体感する。

その「今という永遠の瞬間」に生成する美こそが、ボードエールが「モデルニテ(現代性)」と名付けた美学の目指す「新しい美」に他ならない。

その美は人間をエクスターズに導き、コレスポンダンスの世界に招き入れる。
ボードレールは、1860年にパリで行われたワグナーの音楽会についての批評の中で、「タンホイザー」の序曲を聴いた瞬間、「地上から持ち挙げられた」ように感じたという。体がというよりも、魂が天上に飛翔したのだろう。

ワグナーの音楽によってエクスターズに導かれたボードレールは、コレスポンダンスを体感する。

音が色を暗示することができないとか、色彩がメロディーを思いつかせることができないとか、音と色がなんらかの考えを表現するのに相応しくないとかいうのであれば、本当にびっくりしてしまう。事物は常に相互的な類似(アナロジー)によって表現されてきた。神が世界を、複雑で分割不可能な全体として存在するようにと言葉にした時以来そうなのだ。

     自然は一つの神殿。生きた柱が、
     時として、混乱した言葉を発する。
     その中で、人間は象徴の森を通る。
     彼を親しげに見つめる森を。

     長いこだまが遠くで溶け合うように、
     夜のように、光のように、広大な
     暗く深い統一体の中で、
     香りと色と音が応え合う。
                     「リヒャルト・ワグナーとパリの”タンホイザー”」

ワーグナーの音楽についての批評の中で、自らの韻文詩「コレスポンダンス」の一部を引用していることからも、ボードレールの熱狂ぶりが伝わってくる。


ボードレールにとって、美は常にエクスターズとコレスポンダンスと連動し、人を高揚させる。
1857年の『悪の華』裁判の結果を受け、彼は第2版に向けての構想を練ると同時に、散文詩という詩のジャンルの確立を試み、さらには様々な批評活動によって自らの美学を新しい時代に向けて練り上げていったのだった。

その美学の中核となるのは、「今・現在」という時(=現代社会)を捉え、想像力を作動させることで創造した「束の間でありながら永遠の美」の世界が、現実世界と同等の現実性を持つこと。

その美学を通して、芸術作品は、現実の模倣であることをやめ、それ自体で自立した存在と見なされる芸術観が成立していくことになった。
20世紀から現在にまで至る芸術観、世界観は、その遺伝子を受け継いでいる。

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