
雪舟等楊(せっしゅう・とうよう)は、1420年に現在の岡山県総社市で生まれ、1506年頃に亡くなった。
80年以上に及ぶその長い人生の中で、山水画、人物画、花鳥画など数多くの作品を描き、日本における水墨画の頂点に位置する存在の一人である。
彼は、幼い頃近くの寺に入り、10歳頃は京都の相国寺(しょうこくじ)に移り、禅の修行をしながら、周文(しゅうぶん)から水墨画を学んだ。そのことは、雪舟の水墨画のベースが、相国寺の画僧、如拙(じょせつ)から周文へと続く水墨画の伝統に基づいていることを示している。(参照:如拙 周文 水墨山水画の発展)
1454年頃京都を離れ、山口に設けた雲谷庵(うんこくあん)を中心に活動を行い、1467年には明の時代の中国大陸に渡る。
そこで約3年間、各地を回って風景などのスケッチをすると同時に、南宋の画家、夏珪(かけい)や、明の浙派(せっぱ)の画家、李在(りざい)たちの水墨画から多くを学んだ。
この留学が雪舟の画風に与えたインパクトの大きさは、以下の3枚の作品を見比べると、はっきりと感じられる。



左にあるのは、周文の「水色巒光図(すいしょく・らんこう・ず)」。
画面の下に配置された松から後景の高い山へと垂直に上っていく構図が取られているが、中景や山の上に多くの余白が残され、ぼんやりと霞んだ様子が、高い山並みまでおぼろげに包み込みんでいる。
山水全体は穏やかで柔らかな印象となり、「幽玄」ともいえる抒情性を醸し出している。
右にあるのは、明の李在の「山水図(さんすい・ず)」。
中央の垂直線の構図は「水色巒光図」と類似しているが、前景と後景の距離感がはっきりと感じられ、深い奥行きが作り出されている。
そのためもあり、中景に靄がかかってはいるが、一部に留まり、余白は少なく、画面全体に論理的な空間把握がなされている。
山や木々の形は力強い筆さばきで濃い墨を使って描かれ、事物の骨格ががっしりとし、力強いエネルギーを解き放っている。
中央にあるのが、雪舟の「四季山水画」の「夏」の景。(東京国立博物館所蔵)
雪舟が明に滞在している間に描いた作品で、「日本禅人等楊(とうよう)」と記され、日本人の作であることが明記されている。
この作品を周文と李在の間に置くと、二人の作品のどちらにも似ているが、そのどちらでもない。
雪舟の画面には奥行きがあまりなく、空間が比較的平面的である点は、周文に近い。
がっしりとした骨格の太い墨の線が使われ、力強いエネルギーが感じられる点では、李在を思わせる。
相国寺の水墨画の伝統を習得した雪舟が、中国大陸で何を学んだのか、3枚の山水画を並ることではっきりと見えてくる。
ところで、在明中に描かれた「四季山水画」は、絹に描かれた大きな水墨画で、四季が揃っている。




余白に多くを語らせるのではなく、明確に描かれた山水が画面の中に凝縮され、木にも山にも岩にも躍動感が感じられ、全体に力強いエネルギー感がみなぎっている。
各部分が明確に描かれているため、空間を満たす大気の雰囲気があまりなく、「四季」といいながら、季節感がそれほど感じられない。
深い山の中に小さな家が見え、騒々しい俗世から遠く離れた静謐な世界を描いているようでありながら、抒情性や「幽玄」とは違う世界が目の間に展開している。
雪舟は数多くの「四季」山水を描いているが、以上のことは、どれにも共通する。四季を描くのだが、雪舟が求めたものは、「季節を超えたところにある何か」だったのかもしれない。
中国の山水画はしばしば「瀟湘八景(しょうしょう・はっけい)」を画題とした。
それは、湖南省にある瀟湘(しょうしょう)という地域を対象にして、夜の雨、秋に雁が舞い降りてくる姿、日暮れの河に降る雪、夕焼けに染まる漁村などを描いた風景画で、季節の要素が入っていることはあるが、四季すべてを一度に描くことはない。
それに対して、日本では平安時代から四季に対する感受性が研ぎ澄まされ、大和絵でも四季の変化が1枚の絵画の中に描かれることが多かった。
雪舟は、明に滞在中、中国大陸風の風景を描きながら、他方では、日本の絵画の伝統に従い、四季折々の情景を一つのテーマとして取り上げたのだった。
そのことは、「四季山水画」という題名にもはっきりと現れている。
その二つの文化の折衷の中で、中国から帰国しあ時期の雪舟の水墨山水画が示すのは、抒情性よりも、力強い生命のエネルギー感。雪舟独自の魅力が、そこに秘められている。
その時期の雪舟は、四季の風物を描きながら、時が移りゆく変化の奥にある「造化の真」を捉えようとした。「流行」を超えた、あるいは「流行」の根底にある、「不易」。
山川草木、具体的な存在は全て時の変化と共に変わっていく。生まれ、成長し、死を迎える。
その儚さの必然的な流れに「あはれ」を感じ、美を見出す。それが『古今和歌集』や『源氏物語』から続く日本的美意識だった。
そこに禅的な「無」の概念が重なり、中世においては「幽玄」が美意識の核となった。
そうした伝統から離れ、中国で水墨画を学んだ雪舟は、移り変わる自然の様相を目にしながら、「悠久(ゆうきゅう)の時」を捉えようとしたのではないか。
そして、「季節を超えたところにある何か」を、山水の根底に流れる生命の力強いエネルギー感として表現したのであろう。
自然には途絶えることのない生命が流れ、命があるからこそ山水が創造され、季節の変化がある。それこそが「造化の真」に他ならないと、雪舟は考えたことだろう。
約3年に及んだ明滞在を終えて1469年に帰国した雪舟は、大分を拠点に活動し、国内の様々な地を訪れ、さらには山口の雲谷庵を再興するなどして、活発な創作活動を行った。
そうした中で、1488年頃に描かれた「秋冬山水図」の冬景は、雪舟を代表する1枚である。

雪に覆われた冬景色の中で、最初に目を打つのは、中景からすっと上方に伸びる垂直の墨の線。中国の水墨画では、断崖の輪郭線を強調するためにしばしば用いられたというが、その垂直線は、下に広がる山並みと松の木のごつごつと角張った輪郭線と見事な対照をなし、この景色が今まさに生成しつつあると思わせるほど、自然の生命力を感じさせる。
そのことによって、広大な空間の中で、松の木も、岩も、断崖も、家でさえもが高い質感を持ち、この光景を見る者は、舟から降り楼閣に向かう石段を上っていく人物の後に従い、冬景色の中に引き込まれていく。
この風景が実際に存在するある場所を写生したものでないことは、最初に指摘した垂直の線によってはっきりと示されている。自然の中にこんな線は存在しない。それにもかかわらず、雪舟のこの水墨画は、実際の風景以上に真に迫って私たちを魅了する。
その力の源泉が、冬景色の根底にある「造化の真」。私たちはそれを、雪舟の墨の芸術に溢れるエネルギーとして感じ取る。そして、「美」を感じる。
面白いことに、晩年の雪舟は、角張った線がものの形を作り出す画法とは正反対の画法、最初の師である周文の、穏やかで柔らかな抒情を醸し出す画法に戻ることもあった。
その典型的な例を、1495年に描かれた「破墨山水図(はぼく・さんすい・ず)」に見ることができる。

「破墨」と題されているが、水墨画の画法としては「溌墨(はつぼく)」といえる。
「溌」は「ふり注ぐ」ことを意味し、「溌墨」とは、画面の上に勢いよく墨を降り注ぎ、そこに浮かび上がる墨の形を山や岩などに見立てる画法を言う。

直線はなく、墨の濃淡と滲みからなるおぼろげな映像からは、周文の「水色巒光図」に通じる余韻と抒情性が感じられる。再び、「幽玄」という言葉を使ってもいいだろう。
鴨長明によれば、「幽玄」とは、「言葉に表れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし。」(『無名抄』)
実際にところ、「破墨山水図」にどのような風景が描かれているのか? よほど水墨山水画に親しんだ人間でなければ、「姿に見えぬ景色」でしかない。
一応解説を付けておくと、遠景にあるのは、高くおぼろげな山並み。そのすぐ下の濃淡のある墨の塊は、樹木の生えた丘。そこから崖が下に伸び、崖下には酒の旗を掲げた酒場がある。近景は水辺の風景で、小さな舟が一艘浮かんでいる。
興味深いことに、こうして情景を一つ一つ同定できず、墨の染みや滲みが何なのかわからないとしても、私たちはこの水墨画に深い抒情性を感じ、美しいと思う。
「秋冬山水図」冬景のダイナミックで力強いエネルギー感から発する美とは正反対の、静謐で落ち着いた美。
どちらの美も雪舟の水墨山水画の美であり、優劣を付ける必要は、もちろんない。
ところで、「破墨山水図」は、現在の山口県周防で水墨画を学んだ弟子の宗淵(そうえん)が神奈川県相模に帰る時、雪舟が水墨画の極意を伝えるために描き、自らの意図をも書き付けたものだった。
絵の上に書かれた「自序」には、「中国では自然が師だった。画家の中には師となるべき人はいず、二人の有名な画家から、色の使い方と墨の使い方を学んだだけだった。中国に渡ってみて、如拙や周文の水墨画が本当に立派なものであることが、本当によくわかった。」といった内容が記されている。

この言葉には、多少の誇張があるかもしれない。
「溌墨」を使って描かれた別の絵(「山水図」)には、扇型の枠の中の雪舟という署名がなされ、枠の外には、玉澗(ぎょくかん)の名前が記されている。
玉澗は、南宋から元の時代に活動した中国の水墨画家であり、雪舟の「山水画」は玉澗を水墨画を手本として描かれたことが、明確に示されている。
そのことは、如拙や周文を中心にした相国寺の伝統と、中国に留学した三年間に目にし学んだことが、どちらも、雪舟の水墨画の重要な柱であることを明かしている。

その両者が雪舟の中で見事に融合し、消化された成果の一つが、1488年頃に制作された「四季山水図」だろう。幅約40cm,全長16m弱という長大な絵巻物で、しばしば「山水長巻」と呼ばれる。
絵巻物は、「源氏物語絵巻」に代表されるように、大和絵の画風で描かれたものであり、水墨画を使った絵巻物はまれだった。そこからも、雪舟の意図が見てくる。
「山水長巻」で描かれた風景は、春から始まり、夏、秋を過ぎ、冬の景色で終わる。そして、時には薄い色彩もほどこされながら、季節の変化のリズムに合わせて生活する人々の姿も描き出されていく。
最初に注目したいことは、中国滞在中に描いた「四季山水図」ではあまり明確ではなかった季節感が、はっきりと感じられること。
力強い墨の線で「造化の真」に迫ると同時に、春夏秋冬の情感を感じさせ、しっとりとした穏やかさを発している場面も多くある。
次の二つの場面を並べて見ると、穏やかさと荒々しいエネルギーが共存していることがはっきりとわかる。


秋、市場に人々が集う場面では、建物や人物の服などは中国風だが、自然の様相はどちらかと言えば日本風に描かれている。所々に薄い色彩が使われ、雰囲気を和らげていることも見逃せない。

冬景色を描いた場面では、深々とした静寂さが伝わってくる。

「山水長巻」の絵巻を辿っていくと、周文から出発した雪舟が、中国において荒々しい自然の光景をスケッチし、「造化の真」に迫る水墨画の画法を吸収・消化し、その後、再び周文的な要素を取り入れ、彼独自の水墨山水画の世界を創造していったことを実感することができる。
最後に、最晩年の作品、「天野橋立図(あまのはしだて・ず)」を見ていこう。


日本の絵画の伝統である「名所絵」と水墨画を合わせたもので、日本三景の一つである天橋立を俯瞰的に眺めた構図が確認できる。
画面中景の水辺には、右から左へと雨橋立が伸び、その先端の対岸には、智恩寺(ちおん・じ)がある。寺の多宝塔は1501年に完成したもの。
画面上方の岸辺には家々や寺社が林立し、その背後には、堂々とした巨大な山並みと、1507年に焼失した成相寺(なりあい・じ)の伽藍が描かれている。
こうした地形や建物の配置は、この山水画をリアルに感じさせる効果を持ち、しばしば、雪舟が実際にこの地に足を運び、写生したものだと言われたりもする。
しかし、天橋立をこのように俯瞰できる場所はどこにもなく、実写ではありえない。つまり、この光景は、雪舟が心に抱いた情景を墨と筆によって表現したものなのだ。
水墨山水画は決して写生、つまり現実の風景を前にして、白い紙や絹の上に描き移したものではなく、画家の思い描く観念の世界の表現に他ならない。
宇佐見圭司によれば、山水画の場とは、「個人がものに対して持つ関係ではなく、先験的な、形而上的な、モデルとして存在している。(中略)山水画の場にあっては、中国の哲人が悟りをひらく理想境」なのだと言う。
それに続けて、柄谷行人は、山水画においては、「画家は「もの」を見るのではなく、ある先験的な概念を見るのである」と論じた。(『日本近代文学史の起源』)
「天野橋立図」も、現実の風景を素材にしながら、雪舟という一人の画家が、彼の中にある雨橋立の観念的な像を形にしたものなのだ。
そして、私たちはこの水墨山水画を前にして、力強い生命のエネルギーと同時に、心に滲みる「幽玄」を感じ、雪舟の美の世界に浸ることになる。
雪舟が目指した美とは、日本的な季節感の抒情性と「造化の真」を秘めた水墨山水画なのだと考えると、彼の絵の持つ独自性が見えてくる。
「雪舟 水墨山水画 四季の情感と「造化の真」」への1件のフィードバック