ピカソ 常に新しい絵画を求めた画家

パブロ・ピカソ(1881-1973)は常に新しい美を追究し、次々に絵画の様式を刷新した、20世紀を代表する画家として知られている。

実際、彼の画風は、スペインにおける「修行時代」を経て、パリに進出してからもめまぐるしく変化した。「青の時代」「バラ色の時代」「キュビスムの時代(セザンヌ的、分析的、総合的)」「新古典主義の時代」「シュルレアリスムの時代」「ゲルニカの時代」「ヴァロリスの時代」「晩年」といった区分けがなされることが多い。

ところが、この分類で気になることがある。
キュビスム、新古典主義、シュルレアリスムは絵画の様式だが、それ以外の、青の時代とバラ色の時代は色彩、ゲルニカの時代は戦争の惨禍という絵画のテーマ、ヴァロリスは地名、晩年は人生の最後の期間であり、様式とは関係がない。
そこで、こんな疑問が生じる。本当にピカソは次々と作風を変化させたのだろうか?

その疑問を考えるために、彼のキャリアの最初から最後までの何枚かの絵画を、先入観なしで見てみよう。

はっきりとした違いが見られるのは、最初の3枚と4枚目の間。
最初の3枚は具象的で、何が描かれているのかわかる。絵画として不自然なところはなく、2番目は青い色が、3番目はバラ色が特徴的であるが、どの絵画も人間の感情を見事に表現している。
それらの間に本質的な違いがないことは、色彩を取り去るとよくわかる。

バルセロナ時代の「科学と慈愛」も、青の時代の「生」も、バラ色の時代の「旅芸人たち」も、人間という存在の様々なあり方を、現実的なタッチで描き出している。

こうした画風は、ピカソの天才的な才能と、絵画の教師であった父から徹底的に教えられた技術をベースにしている。
8歳の時に初めて描いたとされる「ピカドール」や、14歳の時に描いた「素足の少女」を見ると、ピカソがいかに早熟だったかがわかる。

このままの画風で描き続けたとしても、ピカソは一流の画家の一人として認められたに違いない。


ところが彼は、1907年、「アビニョンの娘たち」を描いた。不自然で、何かわからない絵の始まり。

5人の女性の裸体らしいものが認識できるが、体の形も、腕や胴体が幾何学的な形でしか捉えられていないし、それぞれの関係もおかしい。右側の2人の顔はアフリカの仮面のように見える。しかも、目も鼻も胴体も、別の視点から見られた面が、一つの次元の上で繋げられている。

これほど「変な絵」がなぜ描かれたのか?
その一つの理由は、ピカソがアフリカやオセアニアの彫刻や仮面を見たこと、もう一つの理由は、セザンヌの絵画の影響だと考えられる。

1906年頃、ピカソは、パリの人類博物館などで、プリミティブな美に衝撃を受けた。
その美は、写実的で自然に見える伝統的な美とはまったく異質なものであり、人間の根源的な感情が単純化した造形で表現されている。

私たちは普通、具象的なものがリアルであり、自然だと感じる。その方がわかりやすく、感情も伝わり、理解しやすいと考えている。
「青の時代」の絵画の人気が高いのは、青という寒色と描かれた対象とがマッチし、感情が直感的に伝わってくるからに違いない。

しかし、ピカソは自然主義的な表現に留まらず、より根源的な人間存在の在り方を、プリミティブな像から学んだのだった。その表現は、非具象的で、すぐに感情移入できるリアルなものではない。

そうした表現が、「アビニョンの娘たち」に取り入れられたのだった。

他方、セザンヌからピカソが学んだのは、対象を分解し、そこから得た色彩と形態を用い、複数の視点から見られた次元を統一し、調和ある絵画とする技法だった。(ポール・セザンヌ 色で持続する生命を捉えた画家

しばしばセザンヌの言葉として、「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という画法が語られ、それがキュビスムの原則と言われる。しかし、彼は決して幾何学的な形態だけで事物を捉えることを提示したのではなかった。
「自然は平面においてよりも深さにおいて存在するのであり、深さを表現するためには、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青を入れねばならない。」と述べるセザンヌは、色こそが深さを表現する要素であることを強調した。

ピカソも、セザンヌに倣って、描く対象の色と形を分析し、彼の眼が捉えた姿に再構成した。
しかも、その再構成において、セザンヌにはまだ残っていた具象性、つまり何が描かれているかわかる形態から遠ざかり、非具象的な方向に向かった。

「2人の人物のいる風景」や「マンドリンを持つ少女」と見ると、セザンヌ以上に非具象性が強くなっていることがわかる。つまり、「何を描いているのかわからない」と言われそうな絵に近づいている。

ピカソには、描く対象がこのように見えたのだろう。つまり、描き出された映像は、ピカソの目に映った姿であり、彼が対象をこのように見たことを意味している。

しかし、そのことは、決してピカソの絵画が抽象絵画であることを意味しない。
抽象絵画の代表であるカンディンスキーの「横線」からは、何がモデルなのか、あるいはモデルがあるのかどうかなど、全く分からない。線と形と色が、現実の何かを連想させることはない。

そうした抽象絵画と比較すると、ピカソの絵は、何をモデルにしたものなのか、推測することができる。モデルとなった人物や物がピカソの目を通して色と形にばらばらに分解されたとしても、構成されたものにはモデルの痕跡がある。
「2人の人物のいる風景」には2人の人間の姿が確認できるし、「マンドリンを持つ少女」はその題名の通りの映像が見える。

問題は、分解した要素をどのように再構成するかであり、ピカソはヴァラエティーに富んだ様式を試みた。
例えば、新古典主義の時代といわれる1917年に描かれた「椅子に座るオルガの肖像」は、伝統的な絵画に近い具象的な様式が用いられている。オルガの写真と比べると、同じ女性であることがはっきりとわかる。
それに対して、1939年の「紺の帽子の女」になると、人間と推測できるが、人間とはいえない姿が目に入る。

ピカソの再構成は、この二つを極として、様々な様式で行われた。

彼は必ず現実のモデルから出発し、再構成の過程で様々な様式を用いた。抽象絵画と違い、現実の存在から始まることを実感するために、3人の女性のモデルと、彼女たちを描いた2枚の異なる絵を見ていこう

ドラ・マール、ジャックリーヌ・ロック、マリー・テレーズ・ウォルターの写真。

次に、彼女たちをモデルにした一枚目の絵。どの絵が誰を描いたものかわかるだろうか?

(1)マリー・テレーズ・ウォルター
(2)ドラ・マール
(3)ジャックリーヌ・ロック

絵画を見る場合、モデル探しをすることに意味はないが、それぞれの絵からなんとなくモデルとのつながりが感じられる。
そのことは、ピカソが現実に存在するモデルから出発し、これらの絵画では、原型がなにかしらとどまる描き方をしていることを示している。

次に、彼女たちを描いた別の作品を見ていこう。

この3枚からモデルを探し出すことは不可能であり、A、B、Cが、ドラ、ジャクリーヌ、マリー・テレーズの順番だと言われても、原型の面影はどこにもない。

さらに興味深いことに、ドラ・マールを描いた(2)と(A)は、ともに1937年に制作された作品であり、ピカソは同じモデルを同じ時期に取り上げながら、別の様式を用いていることがわかる。

1946年にフランソワーズ・ジローを描いた「花の女」では、再構成の様式がさらに現実のモデルから離れ、女性から出発したものであることさえわからない。

しばしばピカソは、絵画様式を常に刷新し、新しい美を追究したと言われるが、女性を対象にした何枚かの絵画を見るだけで、様々な様式を使い分けていることが明らかになる。

「アヴィニョンの娘たち」から始まった非具象的様式は、1973年の死に至るまでほぼ共通していた。その中で、ピカソは、様々な表現様式を試み、常に変化することで「新しさ」を追究したのだった。


19世紀の後半から、詩人のボードレールやランボーたちによって、美の基準として「新しさ」が掲げられた。
「私たちが望むこと、(中略)/ 未知なるものの底で、「新たなもの」を見出すのだ!」(ボードレール「旅」)
「詩人たちに要求しよう、’新しいもの’を。ー 思考も形態もだ。」(ランボー、1971年5月15日の手紙)

20世紀に入ると、「新しい」こと自体が価値を持つようになる。
ピカソが常に新しい様式を試みたのも、新しさを常に追い求める世界観、芸術観に対応したものだったと考えられる。

こうした「新しさ」の探求は、絵画が現実から自立した「もう一つの現実」として捉えられることを前提にしている。
文学であれば、辞書に掲載された言葉を使いながら、辞書を再現するのではなく、言葉の新しい組み合わせを行い、新しい内容を表現する。
絵画においても、現実のモデルを素材としながら、その姿を再現をするのではなく、画家の目を通して色や形を取りだし、創作時の画家の感性に応じて、組み合わせを変え、異なった作品=「もう一つの現実」を作り上げる。

ピカソは、「画家とモデル」という同じテーマでも、異なる様式に基づく異なる表現を試みた。

これら一枚一枚の絵画は、ピカソにとっての「窓」になる。

外を見るときに窓から眺めるように、私は自分の絵で窓を作る。(クリスチャン・セルヴォス「ピカソとの対話」)

窓の外にある物は、見る人間と関係なく存在するかもしれない。しかし、その人が見る時には、必ず窓を通す。
その窓は、それぞれの家で違っている。従って、窓を通して見たものは、窓ごとに違って見える。
ピカソの窓から見える物と、他の画家の窓から見える物は、同じ姿には見えない。
その違いから新しさが生まれ、それぞれの姿の価値になる。

ピカソは、彼が絵画のモデルに対して行うことを、絵を見る人々にも求めたと考えられる。
「アヴィニョンの娘たち」を見る一人一人が、自分の目でその絵画を分解し、自分なりの見方をすればいい。絵画の見方も解釈も、一つの決まったものはなく、広く開かれている。
その意味で、絵画の最後の仕上げをするのは、画家ではなく、観客なのだ。

私たちは、ピカソの絵を前にして「わからない。」とつぶやくのではなく、その絵を素材として自分なりの理解をすればいい。
ピカソがモデルに対して享受した自由を、私たちも行使することができる。それが20世紀の芸術の鑑賞法であることを、ピカソの絵画は教えてくれる。

一枚一枚の絵画をどのように鑑賞し、解釈するか、自分で決めればいい。
「ゲルニカ」は、スペイン北部にある町ゲルニカをナチスが爆撃したことに対するピカソの憎悪の表現であり、彼の代表作と言われている。

「生きる喜び」は、「ゲルニカ」ほど高い評価を与えられてはいない。

ピカソが創造した二つの窓を通して何を見るかは、私たち一人一人の目に委ねられている。

時と場所と見る人の精神状態が、仕上げをするだけだ。(サバルテス「親友ピカソ」)

これこそが、何かよくわからないけれど魅力的なピカソの絵画が、私たちに伝えることに他ならない。
ピカソの絵画の鑑賞は、そこから始まる。

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