中原中也 冬の長門峡 法悦的境地の景色

1936(昭和11)年11月10日、中原中也は最愛の息子文也を亡くし、深い深い悲しみの中で詩を綴り続けた。

死の直後には、「月の光」のように、癒しがたい悲しみをヴェルレーヌの詩句に似せた音楽的な詩句で歌うこともあった。(参照:中原中也 月の光 癒しがたい悲しみを生きる
翌年になると、苦悩を直接的に吐露し、1937(昭和12)年3月末に書かれたと推定される「春日狂想」では、「愛するものが死んだ時には、/自殺しなけあなりません。//愛するものが死んだ時には、/それより他に、方法がない。」などと公言することもあった。

「冬の長門峡」は、それらの日付に挟まれた1936年12月12日頃に書かれたと推測されている。
その時期、中也は「愛するものが死んだ時」の苦しみに苛まれていたが、しかし、故郷である山口県を流れる阿武川上流の美しい峡谷、長門峡(ちょうもんきょう)を背景にしたこの詩は、穏やかで静かな悲しみが世界を包み込み、大変に美しい。

冬の長門峡

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。

ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。

吉岡秀隆による「冬の長門峡」の朗読


「冬の長門峡」の直前、中也はまず「文也の一生」という思い出を小文に綴り、そこから湧いたインスピレーションに誘われるかのようにして、「夏の夜の博覧会はかなしからず」という詩を書いたと考えられている。

ここではまずその連想を辿り、心に重くのしかかる悲しみや苦しみが、ある想いの中でふと和らぎ、冬の寒い夕暮れ時に暖かな日の光の射す光景が浮かんでくるまでの、心の内を探ってみよう。

「文也の一生」は、文也が生まれた時の状況から始まり、最後は、夏に上野動物園で動物を見たことや、万国博覧会で飛行機に乗ったことに至り、突然終わりになる。

 昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによって帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待っていたりしも生れぬので小生一人上京。10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みずのえという日なりき。その午後1時、山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生まる。生まれてより全国天気1ヶ月余もづづく。
(中略)
 春暖き日坊やと二人で小沢を番衆会館に訪ね、金魚を買ってやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。6月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。7月淳夫君他へ下宿す。8月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。8月初め神楽坂に三人にてゆく。7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

「生まれてより全国天気1ヶ月余もづづく」と記しているところから、中也がいかに長男の誕生を喜び、愛していたかが痛いように伝わってくる。
そして、成長するにつれ、色々な所につれていくのをどれほど楽しみにしていたのかもわかる。

1936(昭和11)年7月24日の日記を見ると、中也は、2歳にもならない文也に、詩人としての後継者の姿を見ていたことがわかる。

『遺言的記事』 —— 文也も詩が好きになればいいが。二代がかりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには色々と書き込みがあるし、何かと便利だ。──── 迷いは俺がサンザやったんだ。俺の蔵書は少ないけれど、俺は今日迄に五六千冊は読んでいる。色んなものを読んだのだ。しかし、それが役立ったとしても、それを読んだだけの時間をもっとノンビリ呼吸していたら、もっと得をしたかも知れぬのだ。中学を中位の成績で出て、あとは極くよい本だけを読むこと。ただし詩集だけは、どんなつまらないものでも読む素質があればあまり害はなく、利得は十分にあること。もっともそれは程々にすべし。ヴェルレーヌ、ヴァルモール、ラフォルグ、ネルヴァル、デゥベル、コルビエール等は、何べんも読むべし。独・英に大したものなし。全部読まぬともよし。(注:固有名詞は現在の表記に変更)

詩人として自分の後を託そうとしていた長男の死。その出来事は、中也にとって、自らの死以上に激しい衝撃を与えたに違いない。

文也の死の後、中也は12月28日に忌明けまで一歩も家の外に出ず、毎日僧侶に読経してもらい、自らも「般若心経」を読んでいたという。そうする中、12月22日、息子の一生を振り返る一文を書き、上野で行われた万国博覧会の思い出まで来た時、突然インスピレーションが湧いたのだろう。
散文の筆を止め、「夏の夜の博覧会はかなしからずや」と題された詩を書き始める。

I
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちょと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
(中略)

II
その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なお明るく、昼の明(あかり)ありぬ、
われら三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光(とうこう)また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦(ボタン)を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!

展覧会で飛行機に取ったところまでは、散文が改行され、詩の形を取ったのとそれほど変わりがない。しかし、最後の部分で、まったく違う展開が付け加えられる。

散文では、「飛行機にのる。坊や喜びぬ。」それだけで終わる。
ところが、詩になると、飛行機の上からの眺めが「坊や」の目を通して描かれる。目を上げると、空は「紺青(こんじょう)の色」。眼下に広がる夕方の町にきらめく街灯の光は、「貝釦(かいボタン)の色」。

最後の詩節では、4行の最初に「その時よ、」という言葉が反復され、最後に「紺青の空!」と感嘆の声が聞こえ、魂の飛翔がはっきりと感じられる。
坊やの死の悲しみに打ちひしがれていた中也の魂が、思い出を辿り、展覧会場に設置された遊覧飛行機の上の坊やと共に地上を離れ、一気に「紺青の空」へと舞い上がる。

散文から詩への移行は、まさに、この飛翔感に導かれたものだったのではないか。そして、その感覚が、「夏の夜の博覧会はかなしからずや」から「冬の長門峡」への移行を促すことになる。


中也の詩の大きな特徴は、詩句が歌うこと。その歌は、七五調の口調と言葉の反復によって生み出されることが多い。
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」では、語彙の畳かける反復によって、感情の高まりを生み出す。
まず、第1部の「夏の夜の(5)、博覧会は(7)、哀しからずや(7)」の反復がある。その反復は音楽的ではあるが、それほど感情の高揚はない。
しかし、第2部の最後に置かれた「その時よ(5)」の4度の反復になると、気持ちの高まりがはっきりと感じられ、非常に抒情的な詩句になっている。
しかも、最後の詩節では、「坊や見てありぬ(8)」も2度反復される。
そのことによって、文也の見る対象が、「釦」から「紺青の空」へと変化し、視線が上がる。と同時に、感情が高揚する。

詩人の魂は、この抒情的な詩句によって高揚し、死を悲しむ父親の沈んだ気持ちが、一瞬の間だけではあっても、空へと飛翔する。
そして、まさにその時、冬の長門峡での思い出が蘇り、ふと心の温もりを感じたに違いない。

全てが息を潜め、死に絶えているような冬景色。そんな寒々しいはずの世界の中でも、川の水は流れ、ミカンのような太陽が空に浮かぶ。そして、「われ」は静かに熱燗の杯を傾ける。

その移行は決して、中也が意図的に行おうとした「自力」によるものではなく、「他力」によって自然に起こったことだった。昭和11(1936)年に発表された「詩壇への抱負」には、次のように記されている。

 今までの詩(新体詩)は熱つぽいと思ふ。それはつまり様々の技法論が盛んで、分析的な気持が強かつたからであると思ふ。私は今度はじめてさういふ気持を味はつた。つまり子供の時のやうな気持に帰つた。つまり水が低きにつく如く、花がひそやかであるが如き気持がなければ、詩は駄目だと思つた。さういふ気持になるには、己を空むなしうせねばならない。
 あまりに自我の強い芸術は、無意識、つまり法悦的境地を欠くから、感覚の性質たちが如何によくとも、人をジツクリと楽ませることが出来ない。
 以上のことは、自身気付いたばかりのことであるから、云ふのがくすぐつたいが、自分の今迄を顧みても、最初詩の概念が分つたと思つたが、しかし書く時には、気分が失はれる。そこで、色々と分析的な努力をもしてみたが、やはり駄目で、すつかり自信を失つた気持であるやうな場合もあつた。それが、今度偶然にも、自分の無力をすつかり感じ、その時から、次第に、詩といふものゝ真義も分つて来るやうに思へ出した。(「都新聞」 第17645号、昭和11年12月22日発行)

文也の死は、「自分の無力」を思い知る出来事だった。それを自覚した詩人の成果が、「冬の長門峡」という美しい詩に他ならない。
「己を空むなしう」するとき、中也は知らず知らずのうちに「法悦的境地」、別の言葉で言えば「忘我的恍惚」の状態に入り、ある一瞬だけかもしれないが、深い深い悲しみと苦しみが、「紺青の空」や「密柑(みかん)の如き夕陽」によって象徴される魂の穏やかな安らぎに、場所を譲ったのだった。

そして中也は、言葉の反復によって、音楽性豊かな詩句を綴っていく。
「寒い日なりき」ではなく、「寒い寒い日なりき」。
水は、「流れてありにけり」から、「流れ流れてありにけり」へと変わることで、さらに力強い動きになる。
詩句の語尾は、「あにけ」「なき」「あぬ」「なか」「あにけ」「こぼれた」と、「り」を中心とした音が何度も何度も繰り返し現れる。
そして最後に、「あき」から「なき」へと変化し、「り」のハーモニーが締めくくられる。
ここには、フォーレの「レクイエム」第4曲「ピエ・イェズ」を思わせるといっていいほど、苦悩した魂が静寂の中で安らぐ穏やかな音楽性が感じられる。

もしかすると、中也の実際の経験では、長門峡に一人で行ったのではないかもしれない。
友人の安原喜引は、昭和7年3月に中也に誘われて、長門峡を訪れた思い出を次のように記している。

 長門峡では俄雨に襲われた。岩を噛む清流は忽ち滔々たる濁流となった。私達は岩陰にあるたった一軒の休み茶屋の縁に腰を下ろし、耳を聾する流れの音を聞きながら静かに酒を汲んだ。彼は少しづつではあるが絶えず物語った。やがて真っ赤な夕陽が雨上がりの雲の割れ目からこの谷間の景色を血の様に染めた。詩人は己を育てたこの土地の中に身を置いて今しきりに何事かを反芻するものの如くであった。(『中原中也の手紙』)

もちろん、安原の語る想い出だけではなく、中也は何度も長門峡を訪れたことだろう。もしかすると、詩の中でのように一人だったことがあるかもしれない。
とにかく、詩の背景となる長門峡の季節は「冬」、そして「われ」は一人だ。

その状況は、「夏の夜の博覧会はかなしからずや」とは対照的で、最愛の幼い子供を失った中也の心象風景だといえる。
夏やら冬へ、妻と子供と「われら三人(みたり)」でいる上野から、「われのほか別に/客とてもなかりけり」の長門峡への移動。
その突然の移動を引き起こしたのは、坊やの見上げる「紺青の空」がもたらした魂の飛翔感あるいは恍惚感に違いない。

「われ」はたった一人、寒い寒い日にこの世に取り残されている。しかし、水は「恰も魂あるものの如く」流れ、外を見れば、夕闇に、ミカンのようにこじんまりとした太陽が、茶屋の欄干の向こうから穏やかで優しい光を投げかけている。
そうした中で、「われは(3)料亭に(5)ありぬ(3)/酒酌みて(5)ありぬ(3)」と、心の中で静かに歌う。

ここには、決して空に舞い上がるような飛翔感はないが、冬の枯れ果てた風景の中に温かな命の温もりが感じられる。その温かさは、中原中也が、文也の楽しげな姿を思い出の中で感じた、まさにその時の感覚から生まれたに違いない。
「冬の長門峡」が醸し出す静かな美は、悲しみの中にある魂がふとした瞬間に感じる慰めに由来するのだと考えていいだろう。

詩の最後の部分に置かれた感嘆詞「ああ!」は、深い悲しみを伝えながら、読者を冬の長門峡の美しい景色の中へと導き、いつまでもいつまでも余韻を響かせる。



もしかすると、「冬の長門峡」の中を流れる川には、「一つのメルヘン」の中を「さらさらと、さらさらと流れて」いた水が、流れ込んでいるのかもしれない。
(参照:中原中也 一つのメルヘン 生=美の原型

そんな風に考えてみると、中原中也の詩の世界に、もう一歩入っていくことになる。



参考:フォーレ「レクイエム」第4曲「ピエ・イェズ」

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