ヴェルレーヌ 「空は、屋根の彼方で」 Paul Verlaine « Le ciel est, par-dessus le toit » 『叡智』 Sagesse 祈りのリフレイン

1873年7月10日、ヴェルレーヌはランボーとの波乱に満ちた生活の果てに、ブリュッセルにおいて、立ち去ろうとする恋人をピストルで打つという事件を起こす。
その結果、裁判で判決が出るまで、プティ・カルム監獄に収容された。

後に『叡智(Sagesse)』(1881)に収められることになる「空は、屋根の彼方で(Le ciel est, par-dessus le toit)」は、その監獄の中で書かれた詩であり、漠然とはしているが、何かしら祈りの気持ちが感じられる。

詩の全体は、8音節と4音節の組み合わせからなる4行詩の詩節が4つの短いものであり、しかも反復が多くあり、音の数も映像の展開も非常に限られている。
そのことが、「空は屋根の彼方で」を祈りの言葉のようにし、肉体は監獄に閉じ込められる一方、魂は彼方に解き放たれていく感覚を作り出している。

Le ciel est, par-dessus le toit,
Si bleu, si calme !
Un arbre, par-dessus le toit,
Berce sa palme.

空は、屋根の彼方で、
なんと青く、なんと穏やかなことか!
一本の木が、屋根の彼方で、
葉を揺する。

プティ・カルム監獄に閉じ込められ、裁判の判決が決定するまで、不安な日々を過ごすヴェルレーヌ。
鉄格子のはまった窓から見えるのは、高い建物の屋根の上に広がる空と、近くの公園のポプラの木。
青く(bleu)、穏やかな(calme)空(le ciel)や、葉(palme)を揺する(berce)一本の木(un arbre)。普段であれば何でもないそうした風景が、独房に閉じ込められた身には、特別なものに感じられる。

8/4 // 8/4の音節で構成されるこの詩節の中で、1行目と3行目の後半に5音節を使い par-dessus le toitという表現が繰り返される。
そのことによって、3/5という奇数のリズムも反復され、主語となる空(le ciel)と木(un arbre)が、この詩句の描き出す風景画の中で、はっきりと浮かび上がってくる。

音色の面からは、数多くの母音反復(アソナンス)と子音反復(アリテラシオン)が耳に心地よく響く。
e – ciel, est, berce
a – par, calme, arbre, palme
i – ciel, si
l – le, ciel, bleu, calme, palme,
r – par, arbre, berce
s – dessus, si, sa
m – calme, palme

第1詩節で描かれるのは空と木の視覚的映像だが、第2詩節では聴覚の響きが付け加えられる。

La cloche, dans le ciel qu’on voit,
Doucement tinte.
Un oiseau sur l’arbre qu’on voit
Chante sa plainte.

教会の鐘が、見上げる空で、
静かに鳴り響く。
一羽の鳥が、見上げる木の上で、
嘆きの歌を歌う。

鐘楼(la cloche)も鳥(un oiseau)も囚人には見えないが、鐘の響く(tinte)音や鳥が歌う(chante)声は聞こえる。

ここでも第1、第3詩行は、3/5のリズムが使われ、後半の5音節では詩句の反復が見られる。しかし、qu’on voitの前にあるものは、最初がdans le ciel(空)、後ろがsur l’arbre(木)と、ヴァリエーションが付け加えられている。

前に来るla cloche(教会の鐘)には定冠詞、後ろのun oiseau(一羽の鳥)には不定冠詞が付けられているところは、第一詩節のle ciel(空)ー un arbre(一本の木)の反復。

今回新しく出てきたclocheは、lの子音反復で、la, le, ciel, l’arbre, plainteと響き合い、oiseauは、[wa]の音で、韻を構成するvoitの音と響き合う。
そして、clocheとoiseauは、oの母音反復で響き合う。

このようにして、見える物(鐘、鳥)が、響き歌う。そのリズムと音色のヴァリエーションによって、詩句の奏でる音楽が読者の耳に届けられる。

ヴェルレーヌが「詩法(L’Art poétique)」の中で述べるように、「何よりも先に、音楽を(De la musique avant toute chose)」や「さらに、そして常に、音楽を!(De la musique encore et toujours !)」こそが、彼の詩の命なのだ。
(参照:ヴェルレーヌ「詩法」 何よりも先に音楽を

ヴェルレールにとって、およそ2年前から続いたランボーとの日々は、思い返すと、「地獄の季節」のように感じられたかもしれない。
それに対して、今、監獄の窓から入って来る音のある情景は、穏やかで心安らぐもの。
par dessus le toit、le ciel qu’on voit、l’arbre qu’on voitの反復は、心の平安を祈願する祈りのリフレインのようでもある。


第3詩節では、街のざわめきが監獄の中にまで届き、言外に、今の自分の状況との対比が浮き彫りにされる。そしてそれが、第4詩節での自問のきっかけとなる。

Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là,
Simple et tranquille.
Cette paisible rumeur-là
Vient de la ville.

– Qu’as-tu fait, ô toi que voilà
Pleurant sans cesse,
Dis, qu’as-tu fait, toi que voilà,
De ta jeunesse ?

神様、神様、生活があるのは、あそこです。
質素で、穏やかな生活が。
この平和なざわめきが、
やって来くるのは、あの街からです。

ー 何をしてしまったのだ、おお、ここにいるお前は、
絶えず泣き続け、
言ってみろ、どうしてしまったのだ、ここにいるお前は、
お前の青春を ?

Mon Dieuという表現は、神に向けてではなく、思わず発してしまう「神様!」という呼びかけかもしれないし、驚きや強い感情を表す間投詞とも考えられる。

その驚きは、外から聞こえてくる平穏なざわめき(paisible rumeur)が、監獄に閉じ込められた今の自分の状況とあまりにもかけ離れたものであることを自覚させたからに違いない。

人間らしい生活(la vie)は、ここにはなく、あちら(là)にある。あちらは、質素(simple)で、穏やかで(tranquille)で、平和(paisible)だ。
後に書かれた「私の監獄(mes prisons)」という思い出の記によれば、この時、ヴェルレーヌの耳には、ブリュッセルの街で行われている祭りの穏やかなざわめき(des rumeurs lointaines, adoucies, de fête)が遠くから聞こえていたらしい。

その外の世界が、監獄の中にいる自分を振り返らせる。
1870年に愛する女性マチルド・モテと結婚しながら、次の年にはランボーに心奪われ、1872年の夏になると家族を捨て、ランボーと共にベルギーを経由してイギリスに渡る。しかしその生活も感情のもつれから破綻し、最後は1873年7月の発砲事件に至る。
投獄はそうした混乱した生活の結末なのだ。

 「何をしてしまったのだ(Qu’as-tu fait )」、あるいは「お前の青春をどうしてしまったのだ( Qu’as-tu fait de ta jeunesse )」という自問は、これまでの行いを改悛する最初の一歩。
その後悔を、涙を流し続けている(Pleurant sans cesse)姿が象徴する。

もしかすると、青春(jeunesse)に関する詩句には、ランボーを暗示する意図が含まれていたかもしれない。
ランボーは、1872年の« Chanson de la plus haute tour(最も高い塔の歌)»の最初を次の詩句で始めていた。

Oisive jeunesse
À tout asservie,
Par délicatesse
J’ai perdu ma vie.
Ah ! Que le temps vienne
Où les cœurs s’éprennent.

何もしない青春
あらゆる物に従属している、
繊細な心遣いのため
ぼくは人生を失った。
ああ! 時よ来い
心と心が夢中になる時よ。

ランボーにとっては、平穏に過ぎていく青春(jeunesse)は、全てに屈従する(asservie à tout)ものであり、そうしているうちに人生が失われてしまった(j’ai perdu ma vie)と感じられた。
彼は、複数の心が夢中になる時(le temps où les cœurs s’éprennent)が来るように、叫びを上げる。

そのランボーに従った結果が、ヴェルレーヌにとっては投獄なのだ。
だからこそ、ヴェルレーヌは、「お前の青春(ta jeunesse)をどうしてしまったのだ」と自問する。

その問いの裏には、「何もしない青春(Oisive jeunesse)」であれば、外から聞こえる平穏なざわめきに満たされた質素で穏やかな生活(la vie simple et tranquille)を送れたはずであり、それでよかったのではないかという思いが潜んでいる。
Mon Dieuは、そのギャップを発見した時の驚きに他ならない。

そのように考えると、最初の詩節で反復される「屋根の彼方で(par dessus le toit)」は、ヴェルレーヌが眼差しを天に向けたことを暗示していたともいえる。
この時から、彼の心は神に向かい始め、徐々にキリスト教の信仰を取り戻す道へと向かっていくことになる。
そうした中で、« Qu’as-tu fait ? (…) toi que voilà »の反復は、微かに感じ始めた神に向けられた祈りのリフレインでもあっただろう。


「空は、屋根の彼方で」は、日常的に使われる単語が、非常に単純な構文に従って組み上げられている。その意味では、韻文詩でありながら、散文的ともいえる。
行分けをせず、少し語順を変えてみるだけで、そのことがよくわかる。

Le ciel est si bleu (et) si calme par-dessus le toit. Un arbre berce sa palme par-dessus le toit, La cloche tinte doucement dans le ciel qu’on voit. Un oiseau chante sa plainte sur l’arbre qu’on voit.
(Je me dis 🙂 « Mon Dieu, mon Dieu, là, la vie est simple et tranquille. Cette paisible rumeur-là vient de la ville.– ô toi que voilà, pleurant sans cesse, qu’as-tu fait ? Dis, toi que voilà, qu’as-tu fait de ta jeunesse ? »

この散文からでも、語句や表現の反復、母音や子音の反復により、十分に音楽性が感じられ、ステファン・マラルメが主張するように、散文も韻文と同様の詩的効果を持ちうる。
ヴェルレーヌはそうした散文を、詩法に則った韻文にすることで、さらにリズム感を高め、音楽性を豊かにした。

その詩句が、同じマラルメの表現を使えば、「魂の重要な状態(les mouvements graves de l’âme)」を「暗示する(suggérer)」。
「空は、屋根の彼方で」は、独房に閉じ込められたヴェルレーヌの魂が、監獄の建物の屋根のはるか上方に飛翔し、そこから過去の行いについて自問し、悔い改める第一歩を踏み出す瞬間を捉えた詩なのだ。


詩の内容をしっかりと理解した上で朗読を聞くと、ヴェルレーヌの魂の動きが直に伝わってくるように感じる。


« Le ciel est, par dessus le toit »を使って、小学生に詩の読み方を教えているビデオがyoutubeにアップされている。(ビデオの題名で、toitの綴りにアクサンの間違いがある。)
詩の解釈というよりも、小学校におけるフランス語の授業を知る上で興味深い。

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