ヴェルレーヌ  「ああ!主よ、私はどうしたのでしょう?」 Verlaine « Ah! Seigneur, qu’ai-je? » 『叡智』 Sagesse 選ばれてあることの恍惚と不安と

『叡智(Sagesse)』2部の最後に置かれた「その4 神が私に言われた(Mon Dieu m’a dit)」は9つの詩篇に分かれ、罪人(pécheur)である「私(je)」と神(Dieu)の間で交わされる対話によって構成されている。

「私」は、五感の官能に恍惚とする人間であり、神を愛することに値する人間ではない(indigne)と自覚し、神を愛することに恐れを感じ、ためらう。

他方、神は、「私(神)を愛せ(Il faut m’aimer)」と諭し続ける。そして、「私(Je)」が教会でミサを受け、心の平穏を味わうことが可能だと告げる。

その神の言葉を受けて、「私」は「ああ! 主よ、私はどうしたのでしょう? 」に至り、一見矛盾する心情を吐露することになる。

VIII

Ah ! Seigneur, qu’ai-je ? Hélas ! me voici tout en larmes
D’une joie extraordinaire: votre voix
Me fait comme du bien et du mal à la fois,
Et le mal et le bien, tout a les mêmes charmes.



ああ! 主よ、私はどうしたのでしょう? ああ! 私は涙にくれています、
尋常ではない喜びの涙に。あなたの御声が、
私に、善きことでもあり悪しきことでもあるようなことを、なしてくださいます。
悪と善と、全ては同じ魅力を持っています。

                   朗読は6分35秒から

普通であれば、神の慈悲を受けることができると告げられれば、喜びに溢れるだろう。しかし、「私(Je)」は、普通ではない喜びの涙(larmes d’une joie extraordinaire)を流しながら、喜び(comme du bien)のようなものと同時に苦痛のようなもの(comme du mal)も感じる。
神の声(la voix)は、「私」にとって、善(le bien)であると同時に悪(le mal)でもある。

そこには複雑な心境が隠されている。
「私」は、自分のような罪人(pécheur)が神を愛してもいいのかと自問してきた。その疑いの裏には、神を愛すことは神から愛されることでもあり、自分のような者が神の愛に値するのかという、へりくだった感情が横たわっている。

こうした感情は、キリスト教の信者ではない人間にはわかり難いものだし、信者の中でも意見が分かれるだろう。
ヴェルレーヌの信仰を肯定する人たちがいる一方で、キリスト教的ではないと言う人たちがいる。
ここではそうしたキリスト教としての正当性の問題には入らず、詩句を通して伝えられる「私」の思いを辿っていくことにする。

「私」は神の声に促され、神を愛する道を歩み出す決意をする。その時、嬉し涙を流しながらも、不安や恐れの感情も湧き上がってくる。

第2詩節では、神の声が戦場へ向かうように促す進軍ラッパに喩えられる。

Je ris, je pleure, et c’est comme un appel aux armes
D’un clairon pour des champs de bataille où je vois
Des anges bleus et blancs portés sur des pavois,
Et ce clairon m’enlève en de fières alarmes.

私は笑い、涙します。それ(あなたの御声)は、進軍の呼びかけのようです、
戦場へ向かうように促すラッパの。その戦場で私の目に入るのは、
青や白の天使たちが盾に乗った姿です。
進軍ラッパの音が、私を引き上げていきます、堂々とした不安へと。

キリスト教の信者でないと、信仰と戦いを結び付けることに違和感を抱くかもしれない。
しかし、キリスト教においては、信仰は戦いを勝ち抜いて得るものという思想がしばしば見られる。

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠の命を獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前で立派な告白をしました。(テモテへの第1の手紙 6:12 )

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
(エフェソの信徒への手紙 6:11)

天使が進軍ラッパを吹いたり、戦さの場で盾の上に乗る武将の姿も、キリスト教の図象ではよく見られる。

こうした表現やメンタリティは、それぞれ宗教によっても、国民性によっても違う。ヴェルレーヌの詩句を通して、自分の持つ感覚と異なる宗教観を知ることも、読書の楽しみとなる。

天使の色として白だけではなく、青が使われるのは、ランボーの詩「母音(Voyelles)」からの連想だろうか?
母音 Oの色が青(bleu)だと規定された後で、次の詩句が語られる。

O, suprême Clairon plein de strideurs étranges,
Silences traversés des Mondes et des Anges…
 
O、奇妙で甲高い響きに満ちた最後のラッパの音、
静けさを通り抜ける数々の世界と天使たち。。。

(参考:ランボー「母音」 ボードレールを超えて  

ヴェルレーヌの詩句に戻れば、戦いへと促すラッパの音が「私」を高揚させ(m’enlève)、「私」は堂々とした不安(de fières alarmes)の状態に置かれる。

「堂々」と「不安」とは矛盾する概念であり、ここでは、矛盾する語句を連結することで特別な効果を作り出すオクシモロンと呼ばれる修辞法が使われている。
その表現は、これまで繰り返されてきた「善と悪」や「笑いと涙」と対応し、「私」の複雑な感情を表現している。

続く第3詩節の冒頭で、矛盾する気持ちがもう一度明確に示される。
その詩句は、堀口大學によって「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と訳され、太宰治が初めて出版した小説集『晩年』の最初に置かれた「葉」の冒頭でエピグラフとして引用したために、現在の日本でも比較的よく知られている。

J’ai l’extase et j’ai la terreur d’être choisi,
Je suis indigne, mais je sais votre clémence.
Ah! Quel effort, mais quelle ardeur! Et me voici

Plein d’une humble prière, encore qu’un trouble immense
Brouille l’espoir que votre voix me révéla, 
Et j’aspire en tremblant.

私は、選ばれたことに恍惚となり、恐れてもいます。
私はそれに相応しくはありません。しかし、あなたの寛容さを知っています。
ああ、なんという努力、しかし、なんという熱意! 私はここにおります、

慎ましい祈りに満ちて。ただし、この上なく巨大な困惑が、
希望を乱してもいます。あなたの御声が私に明してくださった希望をです。
私は、震えながら、熱望しています。

堀口大學が「不安」と訳したterreurという言葉は、19世紀後半のフランス語辞典では、「大きな悪(un grand mal)や大きな危険によって魂の中に引き起こされる深い動揺」と定義されている。

ヴェルレーヌは、そのterreur(深い動揺、不安、恐怖)が、extase(忘我的恍惚)と同時に、神によって「選ばれる(être choisi)」という意識によって導かれるとする。

この「選ばれる」という点に関しても、ヴェルレーヌのキリスト教信仰に対する疑問が呈される。
選ばれた民という思想は、エジプトからの脱出やバビロニアでの捕囚といったユダヤ民族の苦難を経たユダヤ民族だけが神に選ばれ、メシア(救世主)によって救われるという、ユダヤ教の教えの骨格をなす。
それに対して、キリスト教では、選民思想を引き継ぐ考え方もあれば、否定する考え方もあり、どちらの立場を取るかによってヴェルレーヌの信仰に対する理解も違ってくる。

ここでは、自分の持つ宗教観を通して詩を解釈するのではなく、単にヴェルレーヌの詩句を辿っていくことにしよう。

「私」は神に選ばれるのに相応しい人間ではない(indigne)とわかっているけれど、それでも神の寛大さ(votre clémence)のおかげで「私」は選ばれた。
それは恍惚となるほどの喜びをもたらすが、他方では、自分のような人間が選ばれていいのだろうかという謙虚な気持ちから来る畏れや不安も生まれる。
希望(espoir)を持つと同時に、大きな困惑(un trouble immense)も感じ続け、不安定な状態の中にいる。
そして、その二重性があるからこそ、「私」は慎ましい祈り(une humble prière)を続けている。

ヴェルレーヌは、そうした「私」の姿勢が神に受け入れられることを、詩句の構成によってはっきりと示している。
というのは、この詩はほぼ12音節の詩句で構成されているのだが、最後の詩句は6音節で切断され、次の6音節の詩句は、次の詩(9)の神の言葉になるからである。

Et j’aspire en tremblant. (6)


IX

— Pauvre âme, c’est cela ! (6)

私は、震えながら、熱望しています。

9            

  ーー哀れな魂よ、それでよい!

震えながら(tremblant)が恐れ(terreur)を、熱望する(j’aspire)が恍惚(extase)と対応する。
最後まで、「私」は二つの感情が混ざり合った中に置かれている。
つまり、自分が罪人であるという自覚を持ち、神の慈悲に値する人間ではないと思うからこそ、畏れを持ちながら慎ましい祈りを続ける。

その二重性の中で神を愛そうと努める姿に対して、神は「まさにそれだ(c’est cela)」と肯定する。

この詩を書いた1874年9月頃、ヴェルレーヌが1873年7月にランボーに対して発砲し、裁判で有罪を言い渡され、ベルギーのモンスの監獄で収監されていた。
そして、その間に、なんらかの神秘的な体験をし、徐々にキリスト教の信仰を取り戻していったと考えられている。

この詩の最後で、「私」の言葉と神の言葉が12音節の詩句によって語られることは、ヴェルレーヌがこの時期にいかに神による承認を求めていたかを示す印と考えることもできる。
「哀れな魂よ、それでよい!」という神の言葉は、詩人の内心の声でもある。


一般的には、神に向かい手を合わせ、神を愛することは誰にでもできるし、許されると思われるだろう。
それに対して、ヴェルレーヌは、神から« Il faut m’aimer. »(私を愛すように)と促されても、なかなかそうすることができない。
その理由は、神を愛することは、神の慈悲を受けることでもあり、自分が神を愛するに値するかという疑問は、神からの慈悲を受けるのに相応しい人間かという問いでもあるから。

ごく自然に神に祈りを捧げる人間にとって、ヴェルレーヌの抱えるジレンマは馬鹿らしく思われるかもしれない。あるいは、神を愛さなければ慈悲が受けられないと考えてしまうと、人間と神の間の取引のようにみなされてしまうかもしれない。
ただし、そのような理解をしてしまうと、ヴェルレーヌの詩句を読むのではなく、読者が自分の思いを詩句に投影することになってしまう。

ヴェルレーヌの心の中心を占めるのは、「自分はろくでもない人間(Je suis indigne)」という自己認識であり、そんな人間でも神の慈悲を得て苦悩が和らぎ、心の平安を得られるだろうかという不安。
希望と、だめかもしれないという恐れの間で、揺れ続ける。だからこそ、祈りを捧げる。
その結果、祈りが慎ましくあっても、真剣で、真摯なものになる。

二つの極で揺れ動く気持ちに共感できると、弱く惨めな自分を嘆きながら、それでも希望を持ち続けたいと念じるヴェルレーヌの切実な祈りに、心を動かされるだろう。

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