
「シメール詩篇」に収められたソネット「デルフィカ」は、ネルヴァルの文学技法と思考を知るための、最良の詩だといえる。
技法を一言で言えば、本歌取り。
知を共有する人々であれば誰もが知っている言葉や事柄を取り上げ、それを変形することで、彼自身の言葉を作り出し、彼の思考を表現する。
思考の内容に関しては、再生や回帰。
しかし、再生を歌うとしても、その実現を待つのが、彼の姿勢である。
象徴的に言えば、ネルヴァルは生と死の間にある煉獄(limbes)にいる。
「デルフィカ(Delfica)」に関して言えば、ゲーテの「ミニョンの唄」とヴェルギリウスの『牧歌』第4巻を主な本歌とし、その題名によって、アポロンに仕えるデルポイの巫女(sibylle de Delphes)の神託が詩となっていることを示している。
では、ネルヴァルの「デルフィカ」の中で発せられる神託はどのようなものだろうか。
まず、ゲーテの「ミニョンの唄」に基づく、2つの四行詩を見ていこう。
Delfica
La connais-tu, Dafné, cette ancienne romance
Au pied du sycomore, ou sous les lauriers blancs,
Sous l’olivier, le myrthe, ou les saules tremblants
Cette chanson d’amour… qui toujours recommence !
デルフィカ
汝は知るか、ダフネよ、あの古い愛の唄を。
大楓の足元、あるいは白い月桂樹の下、
オリーヴ、ミルト、あるいは震える柳の下、
あの愛の歌が。。。絶えることなく再び始まる!
この詩の出だしに、「汝は知るか(Connais-tu)」とある。
この表現がゲーテの「ミニョンの唄」に基づいていることは、ネルヴァルの時代の詩の読者であれば、誰でも知っていたに違いない。
つまり、ネルヴァルは本歌取りをしているということになる。
実際、ゲーテの詩は、「Kennst du (君知るや)」で始まる。
あなたはあの国をご存じですか(kennst du)、そこではレモンの花が咲き
http://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S6282.htm
暗い葉陰では 金色のオレンジが輝いています
穏やかな風が 青い空から吹き
ミルテはひそやかに、月桂樹は堂々と立っています
あなたはそこをよくご存知ですか?
そこへ!そこへと
私はあなたと一緒に行きたいのです、私が愛する人よ!

この詩は、ゲーテの『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』の中で、ドイツにいる少女ミニョンが、故郷のイタリアを懐かしみ、望郷の念に駆られて歌う歌として紹介された。
ネルヴァルは、「知っているか?(Connais-tu)」という冒頭の表現だけではなく、植物への言及もマネている。
ゲーテは、レモン(Zitronen, Citron)、ミルト(Myrte)、月桂樹(Lorbeer, Laurier)に言及する。
ネルヴァルは、ミルトと月桂樹でゲーテの詩を参照。
それ以外に、大楓(sycomore)、オリーヴ(olivier)、柳(saule)を付け加える。
他方、レモンは、第2の4行詩節の中で言及することになる。
こうして、参照元が読者にわかるように詩句を組み立てながら、その枠組みの中に新しい要素を注入する。
「ミニョンの唄」で知っているかと問いかけられる内容は、イタリアを思わせる数々の要素だった。
それに対して、ダフネに問いかけられるのは、「愛の唄(chanson d’amour)」。その歌は古くからあり、常に甦ってくる。
ここで重要なのは、古い歌が郷愁を誘うことではない。
その歌が、常に再び始められること、つまり永劫回帰することが重要となる。
そのことは、Romance – recommenceという韻によって、歌と再び始められることが結び付けられていることからも、強調される。
ネルヴァルの作品では、しばしば死後の再生や失われた時の回帰が取り上げられる。
それは、大きな視野から見ると、神秘主義的なテーマということができる。
合理的な理性では、死の後の復活もありえないし、過ぎ去った時間が戻ってくることもない。それらは反理性であり、神秘に属する事象だと言える。
「デルフィカ」では、そのテーマが、非常に簡潔な形で、愛の唄として表現されている。
本歌取りとは、すでに存在している歌の一部を含みながら新たな歌を詠み,本歌を連想させて歌にふくらみをもたせ、表現効果の重層化を意図する修辞法。
ネルヴァルが「本歌取り」という修辞法を知っていたわけではない。しかし、先行する詩の一部を取り込み、新しい要素を付け加えるという技法を用いたことは確かであり、「本歌取り」と同様の効果を狙ったと考えてもいいだろう。

「ミニョンの唄」には出てこないもう一つの要素は、ダフネ(DafnéあるいはDaphné)というニンフ。
ダフネはアポロンに愛されるが、求愛を拒否して、逃げ回る。しかし、河の近くまで追い詰められ、父である河の神に頼み、月桂樹へと姿を変えてもらう。
悲しんだアポロンは、枝で月桂冠を作り、永遠に身につけたという神話が残っている。
デルポイの巫女の題名を持つ詩が、ダフネへの呼びかけを含むとしたら、巫女の神託がアポロンによるものであることを暗示していると考えてもいいだろう。
月桂樹を通して、ゲーテの詩とギリシア神話が繋げられ、望郷の本歌から、再生と回帰の神託へと、転換が図られるのである。
第2の4行詩も「ミニョンの唄」を本歌としている。
そして、冒頭から、微妙な変形を行う。
« Connais-tu »を« Reconnais-tu »とし、最初の動詞に再び反復を意味する« re »を付けることで、「知っているか」から「知っているものを再認するか」に、質問をずらすのである。
そのことで、動詞の目的語として提示される神殿、レモン、洞窟は、すでに知っているものであることが示される。
問いは、それらを思い出すのか、ということにある。
Reconnais-tu le Temple au péristyle immense,
Et les citrons amers où s’imprimaient tes dents ?
Et la grotte, fatale aux hôtes imprudents,
Où du dragon vaincu dort l’antique semence.
汝、思い出すや、巨大な列柱の「神殿」を、
汝の歯が刻まれた苦いレモンを、
そして、あの洞窟を。不用意な客達には致命的なその洞窟には、
打ち負かされた竜の、古い種が眠っている。

レモンはすでに出てきたが、それ以外にも、列柱や洞窟と竜は、「ミニョンの唄」を参照する要素である。
また、家が「神殿」へと変えられ、現実的な次元から神話的次元への移行が行われる。
あなたはあの家をご存じですか、柱の上に丸い屋根が乗り
大広間は輝き お部屋はきらめいています
そして大理石の像が立っていて 私を見てたずねます
「皆はお前に何をした、哀れな子よ」と
あなたはそこをよくご存知ですか?
そこへ!そこへと
私はあなたと一緒に行きたいのです、私をお守りくださる人よ!
洞穴には古い血族の竜たちが住んでいます
岩は切り立ち その上を高波が越えている
あなたはそこをよくご存知ですか?
そこへ!そこへと
私たちの道は続いています、おお父上、さあ参りましょう!
http://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S6282.htm

竜の存在は、それ自体ですでに超現実的であるが、ネルヴァルはそこに「歯(dent)」という要素を付け加え、竜からギリシア神話のカドモスを連想させる。
その目的は、再び、「再生」を暗示するため。
カドモスは、牛を女神アテナに捧げるため、家臣たちに命じて、泉に水を汲みに行かせる。しかし、その泉は竜によって守られており、家臣たちは殺されてしまう。
怒ったカドモスは、泉の竜を退治する。
その後、女神アテナに竜の歯を大地に巻くように言われ、その勧めに従う。すると、大地から武装した兵士たちが生まれる。
彼等はお互いに殺し合うが、5人だけは生き残り、カドモスが都市国家テーバイを建設するのを助ける。
これはテーバイ建設の神話だが、竜の歯から兵士が生まれるという部分は、死と再生の物語に基づいている。
ネルヴァルは、種あるいは精液(semence)という言葉によって、再生という概念を暗示している。
さらに、強大な(immence)と韻を踏ませることで、暗示をさらに協力にする。
ここで終われば、第1の4行詩と同様に再生と回帰を歌うことになるが、ネルヴァルは彼のもう一つの思想を込め、以下に続く3行詩2つの予告をする。
それは、眠る(dormir)という概念。
竜の歯から何かが再生するのではなく、種子はまだ眠っている。
再生や回帰が歌われるようでいながら、それはまだ実現せず、待機の状態に留まっている。
これこそ、ネルヴァルの思想の大きな特色である。
彼は死と再生の間にある感情を抱いている。
こうした中間状態の姿勢は、フランス革命とナポレオンの時代が終わったが、次の偉大な時代はまだ到来していないという時代精神と対応している。
歴史家のミシュレも、ヴィクトル・ユゴーも、一つの時代が終わり、次の時代はまた来ていないと述べている。
そうした中で、ネルヴァルも、二つの時代の間に落ち込み、再生を待つ精神的な姿勢を、自然に取るようになったのだろう。
ネルヴァルの作品世界の中では、レモンに歯の跡を刻むという行為は、辛抱できずにじりじりしている感情を示している。
「オクタヴィ」の中は、主人公たちはイタリアの港で船を待つ間、3日間足止めされる。4日目にやっと乗船できた時、イギリス人の女性は速度の遅さにじりじりして、「象牙色の歯をレモンの皮に刻み込んでいた。」
この挿話を知っていると、「デルフィカ」におけるレモンと歯形の刻印が、回帰あるいは再生を待ち焦がれている際の感情を密かに明かしていると考えることもできる。

14行あるソネットの中の最初の8行は、ゲーテの「ミニョンの唄」を読者に連想させながら、望郷ではなく、再生と回帰の予兆を巫女ダフネに問いかけるものだった。
続く3行詩になると、本歌は古代ローマの大詩人ヴェルギリウスの『牧歌』第4巻の一節へと移っていく。
Ils reviendront ces dieux que tu pleures toujours !
Le temps va ramener l’ordre des anciens jours ;
La terre a tressailli d’un souffle prophétique …
いつか戻ってくるだろう、お前がいつも涙を流している神々が!
時が、古代の日々の秩序を、再びもたらすことになる。
大地が、予言の息吹で震えた。
戻る(revenir)、再びもたらす(ramener)という二つの動詞は、回帰を示し、神々の支配していたかつての黄金時代が甦る予告が行われる。
この部分は、大詩人ヴェルギリウスの『牧歌』第4巻の冒頭を本歌としている。
クマエの歌の最後の時代が今訪れようとしている。
https://www.kitashirakawa.jp/taro/?p=5854
Ultima Cumaei venit jam carminis aetas
新たな世紀の大いなる秩序(ordo)が生まれる。
今やウィルゴも戻ってくる。(Jam redit et Virgo)サトゥルヌスの王国もよみがえる。
今や新しき子孫が高い天より遣わされる。
汚れなきルキナよ、あなたはただ生まれてくる子を助けたまえ。
その子によって、まず鉄の種族が絶え、そして全世界に黄金の種族が立ち上がる。
あなたの兄アポロンは、今や支配者になっている。

クマエ(cumes)というのは、イタリアに始めて作られた古代ギリシアの都市。そこに住む巫女(sibylle)は有名であり、ここでは、アポロンの神託として、黄金時代の再来を伝えている。
ネルヴァルは、ヴェルギリウスから「回帰」という思想を借用するだけではなく、秩序(ordo/ordre)という言葉も取り上げ、自分の詩句に埋め込む。
さらに、予言の(prophétique)という言葉を最後に置くことで、この詩句が巫女(sibylle)の宣告であるという印象を強めることに成功している。
一神教であるキリスト教の時代が終わり、多神教の神々が再び戻ってくる。
その預言が大地を震わせたと、詩句は語る。
では、その預言は実現するのだろうか。
詩人は、神々の回帰に関して、動詞を単純過去形(ils reviendront)にした後、過去の秩序に関しては近接未来形(le temps va ramener)とすることで、実現可能性を強める。
しかも、大地の揺れを示す動詞は複合過去形(La terre a tresailli)におかれ、すでに完了していることが示されている。
そうした状況の中、期待は高まる。
Cependant la sibylle au visage latin
Est endormie encor sous l’arc de Constantin :
— Et rien n’a dérangé le sévère portique.
しかし、ラテンの顔の巫女は
まだ眠っている、コンスタンティヌス大帝の凱旋門の下で。
ーー何も、厳格な柱廊を乱すことはなかった。
2番目の3行詩の冒頭に置かれた「しかし(cependant)」という言葉が、予言という超現実のレベルから、現実のレベルへと意識を引き戻す。
全ては何も変わらず、キリスト教が異教(古代の神々)に勝利した象徴であるコンスタンティヌス1世の凱旋門の下で、これまでと同様の秩序が保たれたままである。

コンスタンティヌス1世は、始めてキリスト教徒になったローマの皇帝。
4世紀初頭、皇帝がローマ帝国内での宗教の自由を認め、これまで迫害されてきたキリスト教は公認された。その後、彼に続く皇帝たちがキリスト教を国教化し、伝統的なローマの神々や太陽信仰など他の宗教を禁じるに至った。
ラテンの顔をした巫女とは、太陽神アポロンの神託を行うクマエの巫女と考えられる。
その巫女は、大地が預言で震えたにもかかわらず、まだ目覚めてはいない。
従って、古代の神々が戻ってくるとの預言は、実現されない。
神殿の柱廊(portique)は、無傷のままである。

では、復活や再生の願いがかなわないまま、失望だけが残るのだろうか。
この疑問が、ネルヴァル理解にとって重要なポイントになる。
洞窟の中で、打ち負かされた竜は、種となって眠っていた(dort)。それは決して最終的な死を意味するのではなく、再生の起源を含んでいる。
それと同じように、巫女も凱旋門の下で眠っている(endormi)。
その眠りの後には覚醒が続く。
ネルヴァルの最も基本的な姿勢は、覚醒を「待つ」という姿である。
待機こそ、ネルヴァルをネルヴァルたらしめる心の持ち方に他ならない。

「デルフィカ」は、すでに存在している知に基づきながら、それを変形する。日本的な用語で言えば、本歌取りの手法。
そうして作られた14行の詩句という限られた枠組みの中で、再生、復活、回帰の可能性とそれを待つ姿勢が、凝縮して表現されている。
その意味で、ジェラール・ド・ネルヴァルの文学を理解する上での、最良のソネットだと言ってもいいだろう。