
19世紀のフランスにおいて、女性が詩人として生きることは決して容易なことではなかった。
そうした時代にあって、批評家サント・ブーヴをはじめ、ボードレールやヴェルレーヌたちがこぞって賞賛した女性詩人がいる。それが、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(Marceline Desbordes-Valmore: 1786 – 1859)だ。
日本でも、中原中也が昭和12年(1937年)、彼女の魅力を次のような言葉で紹介している。
ヴァルモオル夫人の詩は、身を切るような鋭い感受性から生まれた叫びや呻(うめ)きである。彼女には、詩の技術というものがほとんどなく、教養も十分ではなかった。しかし、音楽やリズムに対しては優れた感覚を持っており、読む人の心をつかむ表現力も備えていた。
この中也の言葉は、それまでフランスで語られてきた彼女への批評を集大成したようなものだが、要するに「豊かな音楽性と素直な表現で、聴く者の心をダイレクトに打つ」ということだろう。
その真骨頂とも言える実例として、今回は彼女の代表作 « Les roses de Saadi »(サアディのバラ)を取り上げたい。フランス語の詩句が持つえもいわれぬ音楽性を味わいながら、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールが紡ぎ出した詩の世界を、少しのぞいてみることにしよう。
Les roses de Saadi
J’ai voulu ce matin te rapporter des roses ;
Mais j’en avais tant pris dans mes ceintures closes
Que les nœuds trop serrés n’ont pu les contenir.
Les nœuds ont éclaté. Les roses envolées
Dans le vent, à la mer s’en sont toutes allées.
Elles ont suivi l’eau pour ne plus revenir ;
La vague en a paru rouge et comme enflammée.
Ce soir, ma robe encore en est tout embaumée…
Respires-en sur moi l’odorant souvenir.
まず、9行の詩句で構成される詩の全体像を見ておこう。
詩句はすべて12音節で書かれており、基本的には6音節めと7音節めの間(6/6)に「セジュール(césure:音節の切れ目)」が置かれている。
その音節の区切りは意味の区切りと一致しているため、リズムに従って読んでいくだけで、意味も自然と頭に入ってくるように作られている。
その一方で、あえてリズムと意味の対応をずらしている箇所もあり、その「ずれ」によって特定の意味を際立たせる効果も生んでいる。
音色(響き)の面では、詩句の語尾で韻が踏まれている。
つまり、roses – closes で [o] が、contenir – revenir – souvenir で [i] が、そして envolées – allées – enflammée – embaumée で [e] の音が響き合っている。
さらに面白いのは、この [o] と [i] の響きが、タイトルである「roses」の[ o ]と「Saadi」の[ i ]をそれぞれ受けている点で、ここにも詩人の音色に対するこだわりが垣間見える。
第1詩節
J’ai voulu ce matin (6) / / te rapporter des roses (6) ;
Mais j’en avais tant pris (6) / / dans mes ceintures closes (6)
Que les nœuds trop serrés (6) / / n’ont pu les contenir. (6)
私は今朝、あなたにバラを届けようと思いました。
でも、あまりにたくさん摘んで、ドレスのきゅっと閉じた帯に挟んだものですから、
あまりにきつく結びすぎたリボンでは、とても収めきれなくなってしまったのです。

ceinture(帯)やnœud(リボン・結び目)という言葉は、19世紀前半から半ばにかけての女性のドレスの実態をよく反映している。
当時、女性のウエストには、柔らかい布やリボン製の「サッシュ(飾り帯)」が巻かれることが多かった。また、ドレスの着脱やウエストの調整にはボタンではなく、「紐やリボンを結ぶ」という方法が主流だった。
マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールは、自分が身に付けているドレスを思い描きながら、愛する人に届けようと朝に摘んだバラを大切に抱え込む。その気持ちの強さを、close(閉じた)、serré(きつく締まった)という言葉で表現している。
しかし、その愛情があまりにも強すぎた(trop)ために、せっかく摘んだバラを衣服の中に収めきれなくなってしまう。
このわずか3行の詩句(第1詩節)だけで、中原中也が述べた「身を切るような鋭い感受性から生まれた叫びや呻(うめ)き」の予兆を聞き取ることができる。
その愛情は、roses(バラ)の中心にある [ o ] の音の反復という詩の技法(=アソナンス:母音韻)によって、音楽的にも響いてくる。
実際、この [ o ] の音は、roses – closes という「平韻(連続する2行で同じ脚韻を踏むルール)」だけでなく、rapporter や trop にも含まれている。さらに、鼻母音の [ ɔ̃ ] を含む n’ont や contenir とも美しく共鳴し合う。
そして、もう一つ注目したい音がある。それが、タイトルである Saadi に含まれる [ i ] の音だ。
第1詩節において、この [ i ] の音は2行目の pris の後、最後の contenir で再び顔をのぞかせる。
そして、ふくよかで円やかな [ o ] の音とは対照的に、この [ i ] という鋭い音が、続く詩節で大きな意味を担うことになる。
第1詩節の最後に置かれた [ i ] の音は、まさにこの詩が迎える切ない結末を、静かに予告しているのだと言える。
第2−3詩節
Les nœuds ont éclaté.(6) / / Les roses envolées (6)
Dans le vent, / à la mer (6) / / s’en sont toutes allées. (6)
Elles ont suivi l’eau (6) / / pour ne plus revenir ;
La vague en a paru (6) // rouge / et comme enflammée.(6)
Ce soir, ma robe encore (6) / / en est tout embaumée… (6)
Respires-en sur moi (6) / / l’odorant souvenir. (6)
リボンがはじけてしまいました。飛び散ったバラたちは、
風に吹かれ、海へと、みんな去って行ってしまったのです。
流れに身をまかせたまま、もう二度と戻ってはきませんでした。
その波が、赤く、そして、炎に燃え上がるように見えました。
今夜になっても、私のドレスはまだ、あの香りですっかり満たされています・・・。
私の上で吸い込んでください、あの香しい思い出を。
今度は、まず「音」の面から確認していこう。
この後半6行の詩句の韻を見ると、第2連の最初の2行は envolées – allées と「平韻(連続する2行で踏む韻)」になっている。そして、続く4行は revenir – enflammée – embaumée – souvenir と、[ i ] の韻が [ e ] の韻を挟み込む「抱擁韻(ほうよういん)」の形をとっている。
ただし、視点を変えて「第1連の最終行」から「第2連」までの4行を取り出してみると、そこでも contenir – envolées – allées – revenir という「抱擁韻」が形成されていることがわかる。
これによって、鋭い [ i ] の音の反復がさらに強調され、読者の耳を心地よく打つ効果が生み出されているといえる。
意味の面から言えば、もはや手元には戻って来ない(ne plus revenir)はずのものが、目に見えない「思い出(souvenir)」となって戻ってくるというドラマが、まさにこの [ i ] の音の響きによって表現されている。
他方で、「バラ(roses)」に関しては、[ r ] と [ l ] という2つの流音(りゅうおん)が重なり合いながら、バラの花が飛び散り、水に流されていく様子がリアルに描き出される。
実際に詩句を追ってみると、Les – roses – envolées – le – la – mer – allées – elles – l‘eau – pour – plus – revenir – la – paru – rouge – enflammée – soir – robe – encore – respires – sur – l‘odorant – souvenir と、驚くほどの密度で流音が散りばめられている。
こうした詩句が奏でる音楽に耳を澄ませると、最後に置かれた l’odorant souvenir(香しい思い出)を通して、バラの [ o ] の音が、 [ r ] や [ l ] の流音とともに激しく流れ出していく。しかし、それはやがて、消え去るのではなく「香り」として私の元へ戻ってくるのだということが、再び [ i ] の音によって告げられているように聞こえてくる。
バラたちが流されていく水(eau)の音は [ o ] であり、それらが最後に還る場所は、私のドレス(robe)だ。そして、今もなお(encore)、いい香りで満たされている(embaumée)という言葉の中にも、あの円やかな [ o ] の響きがしっかりと込められている。
。。。。。
次に、「リズムと意味の関係」を見ていこう。
最初に触れたように、この詩のほとんどの詩行では「6 / 6」の美しいリズム(アレクサンドランの複音歩)が保たれ、意味の区切りもそのリズムにぴったりと対応している。しかし、その規則性が破られる箇所がある。
- コントル・ルジェ(逆送り語)
………………………………………….. / / Les roses envolées (6)
Dans le vent, / à la mer (6) / / s’en sont toutes allées. (6)
ここでは、第1行目の後半部分がそこだけでは完結せず、次行の文の一部に組み込まれている。
つまり、“Les roses envolées”(飛び散ったバラたち)が次行の主語となり、“s’en sont toutes allées”(みんな去って行ってしまった)という動詞へとつながることで、一つの文が完成する仕組みである。
この「コントル・ルジェ」という技法によって「飛び散ったバラたち」にスポットライトが当てられ、「ドレスのリボンがはじけ散る(Les nœuds ont éclaté)」という激しい動きの後に、バラが散乱していく姿が生き生きと描き出されるのである。
2. アンジャンブマン(句またぎ)
La vague en a paru (6) // rouge / et comme enflammée. (6)
本来なら前半の6音 La vague en a paru の直後で区切り、息を整えるべきなのだが、「赤く見えた(paru rouge)」という言葉は意味として強く結びついている。
そのため、私たちは当然のように La vague en a paru rouge と、中央の境界線をまたいで一気に読んでしまうことになる。
この用法は、リズムの区切れをまたいで意味を繋げる詩法、すなわち「句またぎ(アンジャンブマン)」と呼ばれるが、その結果、「6音の規則的なリズム」に鮮やかなズレが生じ、境界線のすぐ後ろに置かれた言葉にスポットライトが当たることになる。
つまりここでは、« rouge »(赤) という色彩に、読者の意識が決定的にフォーカスされる仕掛けになっている。
。。。。。。。
意味のうえでは、ce soir(今夜)という言葉が現れることで、過去の出来事が「現在」へと引き寄せられる。それにより、かつて視界から消え去ったバラが、今なおドレスの「香り」として残り続けていることが明かされる。
そして女性詩人は、愛する人に向かって「私の上に(sur moi)身をかがめ、真っ赤に輝いて飛び去っていったバラの残り香を吸い込んでほしい」と、そっとささやきかける。
そこでは、ma robe(私のドレス)、embaumée(香りに満ちた)、respire(呼吸する/吸い込む)といった、生々しい感覚を呼び覚ます言葉が連ねられ、きわめて濃密な官能性を醸し出している。
その意味で、この詩は観念的な愛の詩ではなく、現実を生きる一人の女性の、切なる願いを伝えるものとして胸に迫ってくる。

ここまでは、« Les roses de Saadi »を恋愛詩として読んできた。ただし、その際には「バラ」を恋愛感情の象徴として解釈するにとどまり、「サアディのバラ」であること自体の意味には踏み込まなかった。
しかし、「サアディ」という固有名を辿っていくと、この詩をまったく異なる視点から読み解くことが可能になる。
サアディは13世紀のペルシャを代表する詩人で、彼の主著である『バラ園(ゴレスターン)』は、17世紀にはすでにフランス語に翻訳されていた。
批評家サント・ブーブによれば、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールは、この『バラ園』の序文に記されたある一つの説話にインスピレーションを得て、この詩を織り上げたのだという。
Un certain sage avait enfoncé sa tête dans le collet de la contemplation, et était submergé dans la mer de l’intuition. Lorsqu’il sortit de cette extase, un de ses compagnons lui dit, par manière de plaisanterie : « De ce jardin où tu étais, quel don nous as-tu apporté? » Il répondit : « J’avais dans l’esprit que quand j’arriverais au rosier, je remplirais de roses le pan de ma robe, pour en faire un présent à mes camarades. Lorsque je fus arrivé, l’odeur des roses m’enivra tellement, que le pan de ma robe m’échappa de la main.
ある賢者が黙想の衿(えり)に頭をうずめ、直感の海に深く沈み込んでいた。その忘我の境地から目覚めたとき、仲間の一人が冗談交じりに言った。
「君がいたあの庭から、私たちにどんな贈り物を持ち帰ってくれたのかい?」
賢者は答えた。
「私は考えていたのは、あのバラの茂みにたどり着いたら、着物の裾をバラで満たして、仲間たちへのプレゼントにすることだった。しかし、いざ到着した後、バラの香りにすっかり酔いしれ、衣服の裾が手から離れてしまったのだった。」
この挿話は、賢者(sage)、瞑想(contemplation)、直観(l’intuition)、忘我(extase)という言葉からも推測できるように、ある「悟り」の境地をテーマにしている。
バラの茂みに到達し、衣の裾をバラで満たそうとすること。それは本来、体験した悟りの中身を持ち帰ろうとすることを意味する。バラ園に向かう前の賢者も、彼の友人たちも、まだその深淵には達していない。だからこそ賢者は、仲間たちのために何らかの「お土産」を持ち帰ろうとしたのだ。
しかし、いざその場所に到達した瞬間、彼は圧倒的なバラの香りに満たされ、我を忘れてしまう。お土産のことなど、意識からすっかり消え去ってしまう。
この逸話が伝えているのは、「真理の体験はどこまでも個人的なものであり、それを言葉によって他者に伝えることはできない」というパラドックスだ。禅における「不立文字(ふりゅうもんじ)」を思い浮かべると、私たちもこのペルシャの詩人の思想を理解しやすいかもしれない。

ここで改めて「サアディのバラ」の詩句に目を向けてみると、« te rapporter des roses »(あなたにバラを届ける)というモチーフが、まさにサアディの挿話そのものであることに気づく。
また、帯(ceinture)や結び目(nœud)、ドレス(robe)といった衣服に関する記述、そして香りで満たされる(embaumée)、香りのよい(odorant)といった嗅覚への言及の多さも、サアディの挿話と深く響き合っている。
そして、バラをプレゼントすることができない不可能性は、« Les nœuds ont éclaté. »(結び目が弾け飛んだ)という、非常に華々しくドラマチックなイメージで描き出される。
ただし、デボルド=ヴァルモールは「届けられない」という絶望のなかに立ち止まることはなかった。
まず、飛び散ったバラは空中に舞い上がり、風に運ばれて海へと向かい、波を真っ赤に染め上げる。
« La vague en a paru rouge et comme enflammée. » (その波は赤く、まるで燃え上がっているかのように見えた。)
ここで示されているのは、「私の個人的な体験」が世界全体へと溶け込み、広がっていく美しい祝祭のイメージだ。
さらに、視覚的に失われたバラは、目に見えない「香り」となって残り続ける。
« ma robe encore en est tout embaumée… » (私のドレスはまだ、あの香りですっかり満たされています……。)
そして詩人は、その香りの思い出を胸いっぱいに吸い込んでほしいと願う。
« Respires-en sur moi l’odorant souvenir. » (私から漂う、その香しい思い出を呼吸してください。)
この願いの根底には、サアディの寓話とは違い、「個人的な体験は個人だけのものに留まらず、他者にも伝播してほしい」というかすかな、けれど強い期待がある。
誰もが経験する日常に即して言えば、それは「心を動かすほど美しい風景を目にしたとき、その美しさを誰かに伝えたいと願う、あまりにも自然で切ない気持ち」そのものではないだろうか。
サアディは「言葉の不可能性」を前にして沈黙した。しかしデボルド=ヴァルモールは、「届かないからこそ、香りの記憶( souvenir )として手渡そう」と試みる。失われたバラそのものは言葉にできなくても、そのバラによって変容してしまった「私自身の存在(ドレスの香り)」を通じてなら、奇跡のように伝わるかもしれない。ここには、不可能性の先にある、表現への深い信頼が息づいている。
「サアディのバラ」を甘美な恋愛詩として読むのも魅力的だ。けれど、こうして時空を超えた深い精神的体験に基づく「思想詩」として読み解くとき、「サアディのバラ」はまったく新しい輝きを放ち始める。

すでに見たように、中原中也は、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールについて、「音楽やリズムに対しては優れた感覚を持っており、読む人の心をつかむ表現力も備えていた」と語った。
サアディからデボルド・ヴァルモールへ、そして中也へ。時空を超えて旅をする「バラの香り」を追いかけるように、彼の手による訳からその余韻を感じてみるのも、また興味深い。
サアディの薔薇
今朝私は薔薇を持って来ようと思ひ
あんまり沢山帯に挟まうとしましたから
結び目は固くなり、挟みきれなくなりました。
結び目はやがても千切れ、薔薇は風に散り、
海の方までもいつてしまひました。
そしてもう、二度と帰つては来ませんでした。
波はそのために赤くなりました。炎えてゐるやうでした。
今宵、私の着物はまだその匂ひが匂つてをります……
せめてその匂ひを、吸つて下さい。
Marceline Desbordes-Valmoreの紹介。
アラブ的な音楽をバックにして歌われた« Les roses de Saadi ».