映画「オキシジェン」 メラニー・ロランとマチュー・アルマリック監督のインタヴュー

「オキシジェン」は、極低温装置内で目覚めた女性リズが、だんだんと酸素が枯渇していく中、自分は誰なのか、なぜ閉じ込められているのかを思い出そうともがく、という内容の映画。

主演したメラニー・ロランと、監督のマチュー・アルマリックが、映画について語るインタヴューは、とても面白い内容になっている。

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ギュスターブ・フロベール生誕200年

2021年は、1821年生まれのギュスターヴ・フロベールにとって、生誕200年に当たる。
Quotidienで、フロベールや彼に関する出版物が紹介された。フロベールがフランスでどのように受容されているか知るにはいい機会になる。

個人的には、同じ年に生まれたボードレールと関連付けて欲しいような気もする。

Gustave Flaubert et le bovarysme

Cette année, on fête le bicentenaire de la naissance de Gustave Flaubert.
À cette occasion paraissent un album Pléiade sur l’auteur et « Le Monde selon Flaubert », de l’historien Michel Winock.
Deux moyens idéaux de mieux appréhender cet écrivain majeur du XIXème siècle. 

18世紀の時代精神 幸福を求めて

フランスの18世紀は、ルイ14世の治世が終盤を迎えるところから始まり、フランス革命からナポレオンの登場で終わりを迎える。
一言で言えば、血縁に基づいた貴族の時代が終わり、ナポレオンという個人が能力を発揮して国家を支配できる時代が到来した。

こうした変化は、16世紀において「人間」という存在に価値があるという認識が行われ、17世紀になると全ての人間に「理性」が備わっているというデカルトの確認に続いて、実現されたのだと考えられる。
そして、18世紀に確立した人間観や世界観は、21世紀においても支配的な時代精神であり続けている。

その精神の根本にあるのは「幸福」の追求であり、「個人の自由」、「科学の進歩」等がその手段を支える思想となる。
しかし、興味深いことに、合理主義精神や科学主義が中心となる中で、「理性」よりも「非理性」に、「文明」よりも「未開」や「自然」に、「進歩」よりも「原初」に、「科学」よりも「神秘」や「超自然」に、価値を置く精神性が忘れられることはなかった。

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ラ・ファイエット夫人 『クレーブの奥方』 恋愛小説の危険

恋愛を扱った小説を読む時には、とりわけ注意を要することがある。
一般に恋愛は人間にとって普遍的な感情であると思われているので、小説が書かれた時代や国民性を考えることなく、読者自身の持つ恋愛観を投影し、小説を通して自分の恋愛に関する想いを読み取るだけに終わってしまう可能生がある。

マノン・レスコーがファム・ファタル(恋愛によって男性を堕落させる魅力的な女性)であり、ボヴァリー夫人が平凡な結婚生活に退屈し、不倫を繰り返して最後は自殺する女性といった平凡な類型を当てはめる。マノンに翻弄される男の愚かさを語ってみたり、それほど愛されるマノンに憧れたり、平凡な夫であるシャルル・ボヴァリーに退屈して結婚外の恋愛を憧れる女性に共感したり、やっぱり不倫はダメだなどといった感想を抱く。

François Clouet, Elisabeth d’Autriche

ラ・ファイエット夫人(Madame de La Fayette)の『クレーブの奥方(La Princesse de Clèves )』は、しばしばフランスで最初の恋愛心理を分析した近代小説と紹介されることがあり、恋愛感情を繊細に分析した小説といった先入観を持って読まれることが多い。

しかし、恋愛小説をそうした視点を通してだけ読むのであれば、芸能人の恋愛ネタと変わるところがなく、わざわざ古い時代のフランスの小説に手を出す必要もない。

せっかく『クレーブの奥方』を読むのであれば、読者自身の恋愛観を直接投影するのではなく、17世紀後半のフランスで書かれた作品であることから出発した方が、読書の楽しみはより大きなものになる。

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ナポレオンの死後200年 歴史が政治と関係を持ち続ける国フランス

2021年はナポレオンの死後200年の年。フランスでは、200年を祝うのかどうかが政治問題化している。
日本では、歴史上の人物をどのように扱うのかで政治問題にすることはない。
そうしたことが、日本とフランスの文化の違いを垣間見させてくれる。

Bicentenaire de Napoléon : le numéro d’équilibriste d’Emmanuel Macron

Cette semaine, on célèbre le bicentenaire de la mort de Napoléon. Mercredi, Emmanuel Macron se rendra à l’Institut de France pour participer aux commémorations. 
C’est la première fois depuis Georges Pompidou qu’un président de la République va assister à ces célébrations. 
Et ça embarrasse les membres du gouvernement. 

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ピエール・エルメ お菓子作りへの情熱を語る

日本では、マカロンで有名なピエール・エルメの写真を見ることはあっても、話をするところを見る機会はあまり多くない。フランス語がわかってもわからなくても、お菓子作りに興味のある人には興味深い映像。

Amour de la pâtisserie

Pierre Hermé, pâtissier le plus célèbre du monde et Jean-François Piège, doublement étoilé au guide Michelin, comptent parmi les plus grands professionnels de la gastronomie française. 

Tous deux membres du jury du « Meilleur Pâtissier » sur M6 en compagnie de Cyril Lignac, ils sont sur le plateau de Quotidien pour nous parler de la situation des restaurants, de la réouverture prochaine des terrasses, mais aussi et surtout de pâtisserie et de gourmandise.

ピエール・エルメとジャン・フランソワ・ピエージュが審査員をするのは、お菓子作りのコンテスト番組 Le meilleur patissier。
https://www.6play.fr/le-meilleur-patissier-a-vos-fourneaux-p_15009

小林秀雄の語る中原中也 言葉に触れる体験としての文学

私たちが最初に文学作品を読むのは、多くの場合、小学校での授業だろう。そこで、どこが好きとか、どこが面白かったとか尋ねられ、感想文を書かされたりする。
中学や高校になれば、作者の思想を考えたり、心情を推察したりし、それについての自分の考えを言わされたりもする。
そんな時、「自由に解釈していいと言いながら、正解が決まっている」という不満を抱いたりすることもある。

こうした読み方をしている限り、文学を好きになるのはなかなか難しい。というのも、文学作品に接する第一歩はそこにはないから。

では、作品と読者が触れ合う第一歩はどこにあるのか?

読者が眼にするのは文字。文字の連なりを辿っていくと、理解の前に、感触がある。比喩的に言えば、読書とは、「見る」よりも先に「触れる」体験だといえる。
その「感触」は「理解」と同時に発生しているのだが、多くの場合、「理解」だけが前面に出て、「感触」は意識に上らないままでいる。

その「感触」は決して感想ではない。むしろ実際の「触覚」に近く、ほとんど身体感覚だといえる。

中原中也の死に関して小林秀雄が書いた文章を読み、言葉の運動を体感してみよう。

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中原中也 骨 “自分が自分を見る” 可笑しさ 

中原中也の詩の中ではとても珍しいのだが、「骨」は、悲しみも苦しみも感じさせず、ユーモラスで、朗らかな感じが全体を包んでいる。
死んだ自分が自分の骨を見ているという内容とは相容れない屈託のなさがある。
しばしば中也の道化的な言葉の裏には憂鬱や悲しみがあるが、この詩には暗い影がさしていない。

もし、自己の存在感のなさから来る不安とか、中也の表情が見えず彼の衰弱を露呈しているとか、中也の孤独感、苦々しい自嘲といったものと読み取るとしたら、それは、読者の持つ中也像や内心の感情を、この詩に投影しているのかもしれない。

自分の骨を見る自分という構図から、骨を取り除くと、臨死体験的なことではなく、単に自分を見る自分になる。自分を反省するとか、自己分析するというのであれば、誰もが経験があるだろう。
とりわけ、若い時には、自分とは誰か、どのような存在なのか、考えることがある。

自己分析をすれば、暗くなる。
それは当たり前のことだ。自分の中をのぞき込むのは、ロダンの「考える人」。
メランコリーに取り憑かれた、憂鬱な人間の典型的なポーズに他ならない。

別の言い方をすると、主体としての「私」が、客体としての「私」を見ることになる。
それが「自分を知る」ためには不可欠な行為と考えられることも多い。

中也は、「骨」を通して、そのような「自分が自分を見る」行為を滑稽に描き、最後にそれとは違う認識の形を提示する。だからこそ、この詩には暗い陰がなく、むしろ、少しばかり皮肉なユーモアが感じられる。

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