和様式の美の形成 飛鳥時代から平安時代へ

日本の美と感じられる美が出来上がったのは、縄文、弥生、埴輪時代の後のことになる。6世紀半ばに仏教が伝来して以来、飛鳥時代から平安時代末期まで(538-1192)の約650年の間、大陸から移入された仏教美術が圧倒的な流れとなって押し寄せてきた。それは、寺院、彫刻、絵画、工芸品等、全てを含む総合芸術だった。
その受容を通して、飛鳥、白鳳、天平、貞観、藤原、院政まで、朝鮮、中国とは違う美が生まれた。万葉仮名から平仮名が作られ、和歌が生まれ、大和絵や絵巻物等が誕生したのだった。それと同じように、仏教芸術にも和のテーストが付け加えられていった。

外国文化を受容する際、受け入れる側の土壌が大きな役割を果たす。その際、日本では大きな二つの美意識があった。一つは縄文的美。もう一つは弥生的美。

縄文的な美は、躍動し、逞しく、妖気が漂い、凹凸がある。

弥生的な美は、温和で、調和が取れ、平面的。

こうした原理に基づき、仏教芸術が日本の中で受容され、大陸とはある程度異なった美を形成していった。

荘厳の美

日本に仏教が伝えられたのは、538年とされている。
その後、仏教支持派の曽我氏と、反対する物部(もののべ)氏の対立があり、587年、蘇我馬子が勝利を収め、飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を建立した。日本最初の本格的な仏教寺院である。
7世紀の初めには、聖徳太子が法隆寺を創建し、仏教は神道と並んで日本の国家的宗教になった。

このような動きの中で、仏教美術ー寺院、仏像、絵画、工芸ーが果たした役割は、非常に大きなものだった。
それ以前の日本では考えられない「荘厳の美」が、人々に強い印象を与えたと考えられる。

古墳時代から飛鳥時代まで、多くの家はまだ竪穴式住居だった。

こうした建物を見慣れた目には、飛鳥寺がどれほど壮観に感じられたことだろう。

飛鳥寺 本堂

法隆寺の堂々とした美しさは、人々に仏教の素晴らしさを印象付けたに違いない。そこで目にする全てのものが、現代の私たちには日本古来の美に見える。
しかし、当時の人々にとっては、全く新しい大陸から移入された、異国的な美だった。そして、その荘厳さが、仏教の普及に大きな役割を果たした。
縦穴式住居に住む人間の目で、金堂と五重塔を見たら、どれほどの印象を受けたか想像できるだろう。

法隆寺 金堂と五重塔

法隆寺と比較すると、飛鳥寺さえ慎ましく思えるほどだ。

仏像は当時、黄金に輝いていたという。

法隆寺 釈迦三尊像

中央にある釈迦如来像の仰月形をした唇は、「古拙のほほえみ」をたたえていると言われ、神秘的な顔立ち。後ろの光背、中央の釈迦如来像の足の下に垂れる衣は左右対称で、釈迦三尊像の厳格な構築性を示し、仏陀の超越的存在としての神秘性を強調している。
全体としては中国的(北魏後期の様式)であるが、後背などはペルシア起源の様式が取り入れられている。それは、異国から来た、新しい美だった。

ため息が出るほど魅力的な、広隆寺の弥勒菩薩像。

広隆寺、弥勒菩薩半跏像

これは朝鮮から持って来られたと考えられている。舶来品だったのだ。

玉虫厨子の上に描かれた菩薩像も異国的。

玉虫厨子、菩薩

頭に被った三面宝冠、ゆったりとひらめく冠帯、首飾り、腰から下の衣裳等、どれも豪華かつ優雅だ。片方の腕を前にし、もう一方の手では蓮の茎を持ち、内側に腰をひねった姿で立つのは、インド由来の意匠だという。

外来の美が移入されるとき、意図の有無にかかわらず、受け入れる側の美意識も反映されることになる。法隆寺の救世観音像と百済観音像を違いがそのことをよく表しているのではないだろうか。

救世観音像は、独特の顔立ちをし、高村光太郎は「アーカイックな、ナイーブな人間がそこにある」とし、「原始的写実相とあの様式」を見ている。あの様式とは、縄文中期の土偶の様式である。

法隆寺 救世観音像

救世観音像に対して、百済観音像は小さな顔立ちをし、柔和で、繊細、そして優雅さを漂わせている。対比的に言えば、弥生的といえるだろう。

法隆寺 百済観音菩薩立像

この二つの像の対比は、日本の風土の中で、外来の美が二種類の様式化をされた例となる。

いずれにしても、寺院の建物や仏像全てが、当時の日本人には「荘厳」と感じられただろう。その言葉の元々の意味は、「美しく飾ること」。

それまでの日本人が見えていた像は、埴輪。

武装男子立像

比較してみると、仏教美術が当時の人々の心を捉えた理由が、はっきりと感じられる。
「荘厳の美」が人々を、黄金に輝く仏の世界へと誘ったといえる。

天平の静 貞観の動

天平文化(奈良時代)から貞観文化(平安時代初期)へと移行する中、大きな流れとしては、静的な像の表現が徐々に躍動感に溢れた動的表現へと変化する様子が見られる。

8世紀の初めに大宝律令が制定され、天武天皇以来の律令国家制が確立される。律令国家とは、王権の力を強化した中央集権国家。仏教はその際の有力なツールとして使われた。
遣唐使の派遣が盛んに行われ、唐の文化がほぼ同時代的に輸入された時代だった。

鑑真和上が開いた唐招提寺の薬師如来像は、どっしりとした体躯も顔つきをし、いかにも異国的だと感じられる。

唐招提寺 伝薬師如来像

こうした唐の文化の影響が強く感じられる中、多くの像で弥生的な受容が強かったのではないか。その一つの例が、興福寺の阿修羅像。

阿修羅にはいろいろな解釈があるが、基本的には戦いの神。そこで、阿修羅像の顔は厳めしいはず。

しかし、興福寺の像は穏やかで、白鳳時代の童顔好みが続いている。

興福寺 仏頭 阿修羅像 顔
興福寺、阿修羅像

この美しい阿修羅像は、愁いを含んだ、若々しい、美少年の顔をしている。

少し前の時代に作られた薬師寺の観音菩薩像も、穏やかな顔をし、静かな佇まいをしている。

薬師寺、観音菩薩像

こうした弥生的表現に対し、平安時代の初期になると、縄文的ともいえる表現が強くなる。
それには一つ理由がある。
8世紀の終わりに、奈良朝廷に反する動きが起こり、それまでの国家宗教としての仏教に対抗する形で、密教が導入された。密教は仏教の中でも神秘性、呪術性が強く、瞑想によって解脱成仏を目指した。そうした瞑想は都市の中でなく、深い山の奥などで行われ、民間の山岳信仰と結びつくことになった。

9世紀の初頭に活動した空海(弘法大師)の開いた高野山も、やはり山の中にある。
修験道の山岳信仰の中には、自然を神と見なす信仰があり、それは縄文的な感性とつながっているという説もある。神護寺の薬師如来像の堂々とした体躯は、唐招提寺の薬師如来像ともつながり、唐の仏像の模倣かもしれない。しかし、衣の力強い動きや、顔立ちの神秘性は、日本文化の古層である縄文的な表現とも見える。

神護寺、薬師如来像

この像からは、呪術的な雰囲気が強く感じられる。
同じ雰囲気は、新薬師寺の薬師如来像にもある。

新薬師寺、薬師如来像

平安時代前期である貞観文化の時代には、密教の影響が強くあり、都市の仏教から山岳の仏教へと移行した。そのことが縄文的な表現を再び強く表出させることに繋がったのだろう。

興福寺 四天王立像(増長天)

この素晴らしい躍動感は、縄文土器の燃え上がるような渦巻きの装飾を思わせる。

静の弥生に対して、動の縄文という図式を通して見ると、天平の静、貞観の動をよりよく感知することができる。(次ページに続く)

和風の成立 平安時代中期

6世紀に仏教が伝来してから、日本の文化は大陸文化によって大きく変化した。その状況を理解するには、明治維新を思い起こすといいかもしれない。
明治維新を境に、日本人の服は着物から洋服に変わった。考え方、感じ方も変化した。しかし、完全に西洋化したわけではなく、伝統的な日本的精神も感性も消え去ってはいない。むしろ、洋服も日本化し、異国性を感じさせなくなっている。すっかり日本的にアレンジしてしまったといえる。

飛鳥時代から平安時代にかけて起こったことは、それと同じだろう。神仏習合が象徴するように、土着の神々と異国の仏を対立させるのではなく、神(カミ)と仏(ホトケ)を一緒にして、仏様を日本の神様にしてしまった。
9世紀のなると遣唐使の派遣も盛んではなくなり、894年に廃止される以前に、外来文化の輸入よりも、日本の風土に添った受け入れに力が注がれたと考えられる。そうした中で和のテイストが色濃くなり、10世紀になると「和風」と呼びうるものが成立した。

和風仏像の代表の一つと言われているのは、室生寺の薬師如来像。

室生寺 金堂薬師如来立像

衣のラインが細い波のように美しく、顔の表情も穏やかで、全体として均整が取れている。繊細で穏やかな美は、あまり凹凸がなく、平面的なところから来ている。

和様彫刻の頂点に立つのは、11世紀の中頃に建立された、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来座像。

平等院 阿弥陀如来坐像

全体的な均整、衣の緩やかなライン、穏やかな顔の表情、その中でもうっすらと開いた目の柔らかさなど、日本の古典と呼ばれるにふわさしい。
こうした仏像の穏やかな雰囲気は、激しい動きより、平面的な穏やかさに由来している。
その意味では、弥生的な美といえるだろう。

平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像も、やはり和様式の完成を示している。

雲中供養菩薩像 南5号
雲中供養菩薩像 北23号

楽器を演奏する菩薩も、踊りを踊る菩薩も、ゆったりとした動きをし、顔立ちも穏やかである。身につけている衣も自然な感じで、菩薩のやわらかな丸みと調和している。
そうした特色は、阿弥陀如来座像と一致しており、縄文的な力強さよりも、弥生的な穏やかさ、和らいだ雰囲気を醸し出している。まさに「和」である。

『古今和歌集』『源氏物語』や『枕草子』など数多くの文学作品が誕生していた。そうした中で、四季の変化に応じた自然の美が描き出された。この時代の絵画は、そうした感受性と対応していると考えられる。
そこで、大陸とは異なる特色が、「中心の不在」である。

従来の仏教絵画には中心がある。仏陀涅槃図の中心は、もちろん仏陀。

仏涅槃図 高野山金剛峯寺

密教美術で多く描かれた曼荼羅は、中心からの拡散、あるいは中心への集中を描いている。

胎蔵曼荼羅

和風の絵画である「やまと絵」では、四季の移り変わり、年中行事、各地の名所などが描かれた。その最も大きな特色が、まさに「中心のなさ」だといえる。
仏教には仏陀という始祖が存在し、仏陀が中心になる。それに対して、日本的感性の古層にあるのは、自然全体が神聖なもので、万物から神々が生まれうるという日本的霊性であり、そこに中心はない。逆に言えば、全てが中心でもある。

この時代は寝殿造りの住居で、家には壁や扉がなく、間仕切りは衝立や屏風だった。

その様子は、源氏物語絵巻にも描かれている。

源氏物語絵巻

この絵を見る人の目は、人物にも、ふすまに描かれた草花にも、真ん中に置かれた布の仕切りにも、平等に注がれる。何か一つの物、部分に注意が向けられるのではなく、全てが同等の資格で描かれているという印象を与える。

山水屏風は、中心の不在をはっきりと感じさせる。

旧東寺 山水屏風

中央やや左にある東屋にスポットが当たるようには、描かれていない。木々、山の様子、人々の営みを、見る人は好きなようにたどっていく。

平等院鳳凰堂の九品来迎図は仏教画であるが、和のテイストが強く感じられる。

平等院鳳凰堂、下品上生図

ここに描かれているのは、宇治周辺の風景だという。
左側には仏陀の一行が描かれている。背景のなだらかな緑の山には、松などの木が生え、川が流れ、四季の自然の様子が描き込まれている。
それらは、仏画にも和的な要素が入り込んだ印だといえるだろう。

400年の間、異国の美が受容される中で、この時代に至り、やっと和風が確立した。現代の我々が何気なしに日本的と感じるのは、まさに平安時代中期に確立した「和風」の美に他ならない。

和風の確立と自然への愛

894年、遣唐使が廃止された。それは意識が国内に向かう現象の一つの現れであり、和様式が確立していく中での象徴的な事件といえる。

10世紀の初頭には、やまと絵が誕生し、洗練された和歌を集めた「古今和歌集」も編纂された。その時に確立した和様式の大きな特色は、(1)自然への愛好であり、(2)表現としては平面的、(3)「中心の不在」だといえる。

自然愛については、『古今和歌集』の仮名序がそのことをよく表している。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。(中略)花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。」
命あるもの全てが歌の対象となるだけでなく、鶯のさえずりもカエルの鳴き声もすでに歌である。自然そのものが歌なのである。

日本において、自然への愛は、四季の変化への敏感な感受性と密接に関連している。

土佐光起筆 清少納言


11世紀の初頭に書かれたとされる清少納言の「枕草子」の有名な第一段には、四季の美がはっきりと定着されている。

「春はあけぼの。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて。」

仏教画でも、四季の表現が見られる。もう一度、平等院鳳凰堂壁扉画の「九品来迎図」を見てみよう。この絵は、生前の行いによって決まる阿弥陀如来のお迎えが、9つの階位に別れる様子を描いている。従って仏教の教えを説くことを目的とした宗教画である。しかし、その背景には、宇治周辺の四季を感じさせる風景が描かれている。

平等院鳳凰堂、下品上生図

南側扉は秋の風景で、鹿や秋の草が見える。北側扉は早春から春にかけてで、薄く雪がかぶった洲崎、農家の藁屋、山桜、農婦、青草などによって、季節の動きが感じられる。東は夏で、草庵、滝、峠などが描かれる。
仏教の教えに、日本的な季節感が融合している例と言えるだろう。

やまと絵の風景画でも、それぞれの季節と描かれる事象は固定化されていた。春は元日の雪、梅、鶯。夏は賀茂際、田植え、鵜飼い、滝、納涼。秋は七夕、秋草、鹿。冬は雪、山里等。

神護寺の山水屏風は鎌倉時代の作とされるが、秋から冬にかけての風景を描いている。

神護寺、山水屏風

右には水浴、屋敷の池には蓮。秋の草である萩があり、水辺にいる野鴨は渡り鳥で、冬の訪れを告げている。1枚の屏風の上に、季節の移り変わりが描かれているのである。

平安時代の末期になると、ひらがなが芸術的な美を獲得する。「三十六人家集」のような和歌集の冊子に書かれた仮名文字は、その美しさで際立っている。その上で、文字の後ろを見ると、料紙に四季の草花の模様が施され、季節感が織り込まれていることがわかる。

三十六人歌集、順集
三十六人歌集、重之集

こうした季節感の表現、自然への愛好は、日本的な感性の最も根本にある心性である。その本質は、『古事記』の冒頭で語られる天地開闢の神話を通して知ることができる。

天地初發之時、於高天原成神名

天と地が初めて発した時、高天原に成った神の名は

天と地が初めて別れ、高天原(タカマノハラ)に神が姿を現す。これが古事記の世界における天地創造の瞬間である。
その時3柱の神が姿を現すのだが、そこで「成る」という言葉が使われる。成るというのは、何かが神に成るのであって、無から出現するのでもなく、誰かが能動的に作り出すのでもない。自発的に、自然に出来てくるのが、「成る」である。

丸山真男は、「歴史意識の古層」の中で、世界の創造神話を三つの型に分けている。

1)「つくる」 
人格的な創造者が一定の目的で世界と万物を作る。
キリスト教の神による創造がその例。
この場合、作るものと作られるものは、主体と客体に分離しており、二つは非連続的。

2)「うむ」 
生殖行為によって産む。
産むものと産まれるものは主体と客体に別れているが、二つの間には、血縁による連続性がある。
『古事記』では、イザナキ、イザナミによる国作り神話がこの例。

3)「なる」 
世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現化する。
主体と客体の分離はなく、ある物、ある運動(エネルギー)が形を取り、自ずから出来上がり、自発的に連続していく。そこにあるのは、他動詞的な働きかけではなく、自動詞的な成り行きである。
「於高天原成」の「成」は、まさにこのタイプの創造神話である。

最初に成ったのは、三柱の神(アメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミ、カミムスビノカミ)。
その後すぐに二柱の別の神が成る。その際の記述が、日本的な自然愛好の起源だと考えられる。国が出来たばかりで幼い時の様子と、神が成る状況を描写した部分がそれに当たる。

次国稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣琉之時 如葦牙因萌騰之物而成神名

次に、国が幼くて、浮いた脂のように、くらげ(久羅下)のように、漂っている(多陀用幣琉)時、あしかび(葦牙)のように萌えあがる(萌騰)ものに因って成れる神の名

注目したいことは、脂、くらげが水の成分から成っていること。ここで、日本的な心性の根本には水の原理があることが示されている。

さらに、水が火の原理と対立することは、後に語られるイザナミの死が、彼女の最後の子どもである火の神カグツチによってもたらされるという出来事によって、強く印象付けられる。

水が生命の源であり、乾燥は死につながる。平安末期の六道絵では、水は遊びをもたらし、乾燥は飢餓に直結することを示している。

鳥獣戯画、水遊び
餓鬼草子

このように、水が生命の源である。そして、植物は水に養われ、そこから萌えあがる。葦牙(あしかび)とは葦の芽。水辺に群生する様子がここでは萌騰と表されている。「萌騰」は「成る」の勢いを強めた表現といえるだろう。

脂のように漂う国土から萌えあがる一柱の神の名は、「宇摩志/阿斯訶備/比古遅/神(ウマシ/アシカビ/ヒコジ/ノカミ)」。
ウマシは立派な、ヒコは男、ジは神を意味する。阿斯訶備(あしかび)という名称は、この神が葦として成ったことを示している。

この神の名前からわかることは、『古事記』に描かれた創世神話の中で、人間の祖先である神が植物と考えられていることである。
これは日本特有というのではなく、熱帯や温帯モンスーン気候の地域とも共通し、湿潤な気候の中で、命の誕生を草木の芽吹きと重ねて考えたからに違いない。
芽は大地から萌え出してくる。その時、生命の誕生は、人間が種をまくという主体的な作業を前提とするのではなく、雑草のように自然に生えてくるものと考えられている。「成る」の動きである。

ここで、「自然」という言葉に注目してみよう。よく知られているように、自然という漢字が山川草木、花鳥風月を意味するようになったのは、明治時代のなってからである。Natureという外来語を翻訳するために、自然という漢字が当て字が使われた。それ以前おいて、自然の元々の意味は「おのずから/しかる」であり、丸山真男によれば、自然的発生の観念を中核とした言葉といえる。
葦は自ずから然るものの代表であり、植物でもあり、人間でもあった。

丸山真男に従ってもう一つ注目したいのが、「次」という言葉である。『古事記』の神々は、最初に三柱、次に2柱、次に7代の神々が、次々に発生する。
さらに、イザナミ、イザナキによる国作りでも8つの島が次々に生まれ、人間の発生も連続的に行われる。一つの時点に留まることはなく、今という時が間断なく連なっていくのである。

その連続は人間の生活の中では、四季の移り変わりとして感知されることになる。そこで、自然への愛好は暦と結びつき、例えば、春の訪れは梅や桜の開花や鶯の鳴き声によって告げられる。それが和歌や大和絵のテーマである。

実際、和歌において、四季と風景は密接に関係している。
春は梅、桜、鶯。夏は橘、卯の花、あやめ、ほととぎす。秋は萩、紅葉、鹿、雁。冬は雪と、雪に紛れて咲く梅。
この時代に形作られた季節感は現代にまで続き、「早春賦」や「夏は来ぬ」などの歌として親しまれている。

暦と自然現象の対応は日本人にとっては当たり前のことと感じられる。

大和絵の主題は、山、川、樹木、動物、鳥など、自然そのもの、それらが四季に応じて変化する様子である。
10世紀に日本の絵画が描いたのは、四季の変化に応じた景物だった。

東寺 山水屏風

再び、東寺の山水屏風。本来は唐絵の屏風として、宮中での儀式の際に使われたと考えられている。庵にいるのは白楽天を思わせる老隠者。
しかし、背景には桜、柳、藤などの花や木が描かれ、春の景色であることがわかる。そのことは、大和絵の風景画的側面が強く出ていることを示している。
実際、家や人間の姿は、自然の中の一つの要素にすぎなくなっている。どこかに中心があるはなく、特段目立つ部分もなければ見劣りする部分もない。その意味でも、絵画としても平面的。人間が特権化されるのではなく、花鳥風月、山川風水が平等に画題になっている。

その特色は、同じテーマを扱ったヨーロッパの絵画と比較するとよくわかる。ヨーロッパで暦は、人間の日々の営みと対応する。例えば、「ベリー公のいとも豪華な時禱書」の4月の挿絵。

Les très riches heures du duc de Berry, avril

背景に森が描かれているが、背景の中心は城である。そして、主題は貴族たちの集い。つまりテーマは、人間の営みであり、決して森という自然への愛好ではない。

同じ「ベリー公のいとも豪華な時禱書」の3月の挿絵。

Les très riches heures du duc de Berry, mars

ここで表現されるのは、人間が自然を征服し、畑を作り、生産活動が行われている様子。従って、この絵画は自然に対する人間の勝利の象徴である。

他方、日本では、人間が主体となり自然に働きかけて文明化するという、キリスト教的な世界観は決して支配的にならない。あくまでも、「成る」世界観が主流である。
そこでは、人間と自然物との間の境が低く、人間も自然の一部であると考えられる。『古事記』の中で、人間は「青人草」と呼ばれることがあり、神も葦から成っている。人間と自然と神は生命の動きの一つの現れであり、それらの間に絶対的な垣根はない。個々の生命は死を迎えるが、生命そのものは雑草のように次々に発生し、永遠に続いていく。

日本人にとって、暦に従って移り変わる木や花、鳥や動物、自然の風景は、自分の心を移す鏡でもあり、神々がまとう束の間の姿でもある。
存在するもの全てに命を感じ、全てが神となりうるという感覚。どんなものにでも霊的なものを感じ、つい拝んだりしてしまう。一人の神や始祖がいるわけではないので、八百万の神々はどこにでも出現し、様々な形になる。

そこで、山の中にちょっとした空間があると、すぐに捧げ物をし、祭壇として拝んだりする。

「今」という時は常に移り変わり、その変化に生命を感じる。中心のなさ、恒常性のなさ、つまり、はかなさに命を感じ、美を見出す日本的な感性は、古代から続く日本人の自然観に由来するといえるだろう。

このような美意識が、10世紀に藤原氏を中心とした貴族たちによって作り上げられた。歌に歌われ、絵に描かれる一本の花も、実は自然全体のことである。
万物には生命があり、神が宿ると感じられ、そこに美が出現する。

全てが平等だからこそ、平面的で、中心がない。それが和様式の美の特色だといえる。そして、その中心には、自然に対する信仰がある。

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