虫めづる姫君 La princesse qui adore les insectes 風の谷のナウシカの祖先?

平安時代後期に成立したと考えられている『堤中納言物語』に「虫めづる姫君」という短編物語が含まれている。

誰もが蝶や花を愛する中で、主人公の姫君は毛虫や気味の悪い昆虫を愛している。そのために、親からも、求婚者となりうる男からも、お付きの侍女たちからも、変な娘とみられている。

しかし、そんなことは一向に気にせず、平安時代の宮廷風俗を一切受け入れない。彼女には彼女の理屈があり、それを曲げようとはしない。

ジブリ・アニメに出てくる風の谷のナウシカは、この虫めづる姫君をモデルの一人にしている。実際、彼女はオウムの子どもを大切にし、誰もが恐れる毒のある花をこっそりと栽培している。

現代のような個性を重視する時代ではなく、社会的な規範がとりわけ重視された時代に、蝶ではなく、毛虫を愛する姫君の物語が、何を主張しているのだろう。

「虫めづる姫君」の物語

辟邪絵 神虫

毛虫など気味の悪い昆虫が大好きな姫君がいて、お付きの女たちは気持ち悪いのを我慢しながら仕えている。男の召使いたちには虫を集めさせ、名前を知らない虫には名前を付けて、喜んだりもする。

彼女は、平安時代の京都を中心にした貴族文化の風習に従わず、眉毛も始末せず、お歯黒もしない。親たちがその様子にあきれ果てても、理屈っぽく反論して、言うことを聞かない。

彼女の言い分によれば、虫は絹を作り、衣服の糸を作りだすが、蝶は有用ではない。それに、物事の本質を知るには、結果から原因へと辿ることが大切であり、毛虫から蝶へと成長するのだから、蝶の元である毛虫を愛するのは当然。
宮廷の風習に関しては、眉を抜いたり、お歯黒にするといった「つくろうこと」は悪いことだと考える。
そうした娘に対して、親は、世の中に人から変に見られるし、恥ずかしいと思う。

そんな時、虫好きの娘の噂を聞きつけた一人の貴公子が、蛇形をした作り物と求愛の歌を姫に贈る。
その蛇の作り物は大変に精巧に出来ていて、本物の蛇かと思った姫は驚きながら、南無阿弥陀仏という念仏を唱える。そして、美しい姿をした蛇は、生前の自分の親だったかもしれないと、自分を落ち着かせようとする。
姫の父親がそのからくりを見破り、後始末をするようにと命じる。
姫は贈り物の主に返礼の和歌を書き、蛇の姿では近くに居づらいので、縁があれば極楽で会いましょうと、機知に富んだ返事を送る。

源氏物語絵色紙帖 若紫

その返事に関心した男ー右馬の佐(うまのすけ)ーは、娘に興味を持ち、彼女の姿を見るための策略を立てる。

まず、友だちと一緒に女装して家の庭に忍び込み、室内を見られないために庭に立てられている衝立の影に隠れる。
その近くを召使いの男が歩いているのを見て、彼に、目の前の木にたくさんの虫が這っていると声を掛ける。
すると、召使いは、姫の部屋のすだれをひきあげ、毛虫がいると姫に告げる。姫は虫を見るために、部屋の奥から進みより、すだれ越しに身を乗り出す。

こうして、右馬の佐(うまのすけ)たちは、姫君の姿を垣間見ることができる。
彼女は眉を剃らず、お歯黒をせず、髪の手入れも、装束もなおざりで、見かけはみすぼらしい。しかし、醜いのではなく、よく見ると気品があり、男はその様をもったいないことだと思う。
その一方で、虫をもっとよく見るために、手元まで持ってくるようにと命じる姫君を見て、呆れたりもする。

その後、右馬の佐(うまのすけ)たちは見つかり、虫と遊ぶ姫の姿が丸見えになっていたことが発覚する。
侍女が大急ぎで身を隠すように言うと、姫君は、その言葉が虫と遊ぶのを止めさせる口実だと思い、姿を見られても恥ずかしくないと言い張る。
しかし、実際に男たちが侵入していたことがわかると、虫を袖に入れて、大急ぎで部屋の中に引っ込む。

その一方で、右馬の佐(うまのすけ)は、器量はいいのに、気味の悪い心を持っていると、残念がる。
そして、せっかく来たのだから、姿を見たことだけでも知らせようと、和歌を贈ることにする。そこには、毛虫のような眉をした姿を見たからには、手に乗せて、見守ってあげたいと書かれていた。

姫の方では、姿を見られたことは恥ずかしいことではないと言い、そのままほって置こうとする。しかし、それは礼儀に反するため、侍女の一人が返歌を代わりに作り、男に返す。
その内容は、毛虫の名前を知るように、あたなの名前を知りたいというもの。

それに対して、右馬の佐(うまのすけ)は、「毛虫の毛深さほどの眉毛を持った人は、あなたしかない」と言って、笑いながら帰ってしまう。

この続きは第二巻であると最後に付け加えられている。しかし、二巻は存在しない。

多様な解釈

社会の価値観にまったく従わず、自分なりの論理を持ち、自分の生き方を貫く女性の物語。
現代であればそのまま受け入れられる価値観を持った物語であるだけに、女性の自立を描いていると言えば、そのまま受け入れられてしまいそうである。
しかし、「虫めづる姫君」はあくまでも平安時代中期以降に成立したもの。
そこで、これまでに様々な解釈が提案されてきた。

娘を評価する立場からは、2つの視点がある。
1)事物を理解するためには、現象から根源に戻ることが大切という理論を評価する。
その場合、彼女は理知的で、聡明な女性と見なされる。

2)社会の規範に囚われない自由な振る舞いを評価する。
貴族社会の日常的な常識に対する批判・反抗を示す、自立した女性と見なされる。平安時代の文明批評。

批判する立場からの視点もある。
1)彼女の理屈は屁理屈で、論理と行動が一致しない。
毛虫が蝶になるのであれば、蝶も愛すべき。

2)平安時代の王朝的な美を否定し、単なるゲテモノ好きで、猟奇趣味。世紀末的な路悪趣味であり、頽廃精神を示す。

3)独特な行動をする女性を描くことで、その価値を評価しているように見せながら、実は風刺している。

4)虫を異常に愛する姫は、体毛が多く歯茎が白いことから、萎黄病(chlorosis)だと診断されることもある。
こうした病理学的解釈は、学問的に見せようとするする学者たちの常だろう。

エロスや性を持ち出すこともある。
1)体毛に関して、「(姫には)毛虫の毛皮があるんだから、着物など着なければいい」という悪口から、美少女の体を毛虫が這うというエロチックな妄想を抱く読者。
ジブリ・アニメにもやたらに性的な要素を見つける悲しい傾向が、こんなところにも顔を出してくる。

2)女性性に焦点を絞り、物語にほとんど登場しない、蝶を愛する女性を取り上げることもある。
毛虫から蝶への成長と、毛虫を愛する姫君と蝶を愛する姫君を重ね合わせ、性を自覚しない姫君が性を自覚する姫君 へと成長する過程とみなす。
成長しない異常な虫めづる姫君と正常に成長した蝶めづる姫君を対比し、虫を愛する姫に結婚拒否の願望を見出す。
女性の成長の過程の結果としての蝶を愛する女性を描かないことで、虫を愛する女性の異常性を浮き上がらせることが、この物語の特質だとみなす。

物語全体の理解として、「虫めづる姫君」を遊び精神に満ちあふれているが、それ以上のものではないという解釈も見られる。
1)非常に理知的、科学的な言動と、それとは全く裏腹な性格描写が繰り返され、読者を翻弄する「楽しさ」を持つ。(『堤中納言物語』岩波文庫)

2)姫君を批判するとか、姫君を通して社会を風刺するというような意図もなく、ただ一風変わった姫君を活写していることが、この物語の生命。(『堤中納言物語』講談社学術文庫)

「風の谷のナウシカ」の宮崎駿監督は、「源氏物語や枕の草子の時代に、虫を愛で、眉もおとさぬ貴族の娘の存在は、許されるはずもない。私は子供心にも、その姫の運命が気になってしかながなかった。」と述べ、束縛と自由、制度と個人という視点から「虫めづる姫君」を受容したことが理解できる。

余談になるが、宮廷生活に縛られた少女が自由を求めるというストーリーは、ジブリ・アニメの中では、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」によって、最も明確に描かれている。
https://bohemegalante.com/2020/01/02/conte-de-la-princesse-kaguya-isao-takahata/

加藤周一は、虫めづる姫君が社会一般の常識に反しても平気であり、自分の一貫した生き方を生きていることに注目し、「そういう型の人物は、平安朝物語の中にあらわれないばかりではなく、そもそも日本文学史の全体を通じて極めて稀である。」と述べている。(『日本文学史序説』)
高畑版かぐや姫を見ると、現代では、人と違う生き方を主張できる社会になっていることがわかる。
(ただし、実生活の中でそのようにできるかどうかは、別の問題。)

かの虫の 心深きさましたるこそ 心にくけれ

1)平安貴族の美的宮廷生活

虫めづる姫君が拒否するしきたりの世界は、平安時代、京都の貴族社会の中で成立した洗練された美の世界にほかならない。

6世紀に日本に仏教がもたらされ、大陸風の美が日本の中で徐々に受容されていった。
9世紀後半に遣唐使が廃止されると、中国の影響を残しながらも、和様式化が強まり、平安朝の爛熟した文化が成立する。。
源氏物語に代表される貴族たちの宮廷社会の中で「やまと絵」も成立し、平等院鳳凰堂のように現世に浄土を思わせる建造物も作られるようになった。
https://bohemegalante.com/2019/02/26/genese-de-la-beaute-japonaise/
平安時代は、日本的な美の一つの典型「美を尽くす」美が出来上がった時代だといえる。

源氏物語絵巻、竹河二
源氏物語絵巻、橋姫
平等院鳳凰堂

こうした華やかな宮廷社会の中で、女性は、眉を剃り、お羽黒を施し、髪の手入れをし、豪華な装束を着こなし、和歌を書く紙にも洗練した紙を使い、男性の視線を逃れるために部屋の中に引きこもる等々、多くの規範が定められていた。

物語の冒頭、虫めづる姫君の対極の女性として、蝶めづる姫君が名指される。
彼女は、規範を受け入れ、細々としたルールを守る、当時の典型的な女性。

毛虫を愛する姫君は、蝶を愛することに対して批判的である。

人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。

花や蝶は、平安貴族の華やかな美を象徴している。そこで、虫好きな娘は、彼女を取り囲む華美な生活を、虚しく、変なことだと断言する。

男女関係において、女性は男性から見られてはならず、几帳や柵などで視線から逃れ、家の中に閉じこもり、男性の訪れを待たなければならなかった。
そうした習俗に対しても、毛虫のような眉をした娘は批判的である。女装して庭に忍び込んだ右馬の佐(うまのすけ)に姿を見られたとしても、彼女は意に介さない。
「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という当時の一般的な風潮を理解した上で、見られた時でも意に介さない強さがある。

2)仏教思想

虫めづる姫君の批判精神を支えるのは、表向きは、仏教であるように見える。
実際、仏教用語が何度か物語の中で用いられている。

花や蝶への愛好を批判したすぐ後で、姫は仏教的な言葉を口にする。

人はまことあり、本地(ほんじ)たづねたるこそ、心ばへをかしけれ。

本地とは、仏本来の姿を意味する仏教用語。
本地垂迹説では、神の本来の境地つまり本地は仏であり、仏は人々を救うために神に姿を変えて垂迹したと考える。
毛虫好きの姫は、花や蝶は仮の姿であり、その根本は毛虫であると考え、蝶ではなく虫を愛する。
その際、本地という言葉を用いることで、彼女の主張が仏教を支えにしているように見える。

変わり者の娘をからかうために、物好きな男が贈り物をする。それは精巧に作られた蛇の人形で、生きているような印象を与える。
さすがに怖がっている風の姫だが、しかし、その蛇に対して、「南無阿弥陀仏」と唱え、その後で、輪廻転生に基づく言葉を付け足す。

生前の親ならむ。(中略)かろし、かように なまめかしきうちしも、結縁(けちえん)に思はむぞ。

生前は娘の親だったが、罪が軽かったために、今の世では美しい(なまめかしき)蛇に生まれ変わったという考えは、輪廻思想そのものである。
そして、それが結縁(けちえん)、つまり、仏の道に入る機縁かもしれないと思うことも、仏教を思わせる。

この蛇のエピソードの後、娘は父に促されて、男に和歌を贈る。
その内容は、もし縁があれば、「よき極楽」で契りを結びたい。しかし、蛇の姿のままでは、「福地の園」で会いにくい、というもの。

極楽の前に「よき」とあるのは、浄土教の教えに従っているからだろう。
それによれば、死後、極楽浄土に生まれ変わる時、生前の行いによって九つのパターンがあった。よきとは、いい生まれ変わり、仏教用語を使えば、「上品上生」を指しているのだろう。

平等院鳳凰堂 九品来迎図 

福地の園は、釈迦が出家する前のシッダールタの妻であった耶輸陀羅(やしゅだら)が、福地の園に種をまいたという歌に由来し、極楽と同じ意味。
従って、虫めづる姫君の和歌には、仏教の教えが強く反映している。

このように、本地、南無阿弥陀仏、輪廻に基づく生まれ変わり、極楽など、当時の浄土宗に纏わる言葉が多く使われ、華美な貴族文化に対する仏教からの警鐘を、娘の言葉から読み取ることも可能である。

3)夢幻のようなる世

「虫めづる姫君」の中で、確かに、仏教にまつわる用語は何度か出てくる。しかし、姫君が仏教の教えに従っているようには見えない。

日本に仏教が導入されて以来、仏教の日本化が進んだ。その中で、人々は仏教に二つのことを求めたとされている。
1)死後、浄土(極楽)に行くこと。
2)加持祈祷による現世利益。

土着の世界観では、死後の幸福よりも、現世における御利益を願って、仏教に頼ることが多かったと言われている。
『源氏物語』でも、病の治療、安産、物の怪の調伏等を目的として、加持祈祷が行われる場面が描かれている。
農民であれば、雨乞いのために祈る。商人であれば、商売繁盛を祈る。

浄土宗では、彼岸での魂の救済に重きが置かれ、仏教本来の抽象的な性格が残っていた。
しかし、彼岸(あの世)と此岸(この世)での救いに関して、日本的心は、此岸(この世)での幸福を求める傾向があったし、今でもそれは変わらない。

こうした仏教の二つの側面に照らしてみたとき、虫めづる姫君は浄土での救い、あるいは現世での幸福を求めているといえるだろうか。

蛇の作り物の返答として、極楽、福地の園という言葉はでてくるが、蛇の姿の男とは一緒にいたくないという主旨の和歌でのことであり、姫が浄土を目指して自らの信念を貫いているということはない。

また、現世での幸福を求めているということもない。
虫を愛する行為は、お付きの侍女からは疎んじられ、彼女の理詰めの言葉は父親を困惑させる。
彼女をのぞき見しようとする男は、求愛ではなく、からかうために庭に忍び込むだけ。

そんな中で、虫を愛する娘は、自分の行動を変えようとしない。
彼女は、本地を探ることが大切と言った後、恐ろしげな虫たちを集めて、こう言う。

これが成らむさまを見む。

つまり、毛虫が成長する様子を観察するというのである。

そのことは、二つのことを意味する。

(1)毛虫が成長すれば蝶になる。逆に考えると、蝶の元は毛虫。
従って、蝶の「本地」を探ることは、蝶を見て毛虫を思うということになる。
その視点からすると、毛虫は蝶の「本地」だと考えることができる。

よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、ことは故あれ。(中略)かの虫(毛虫)の蝶とは成るなり。

この姫の言葉は、まさに蝶の起源を毛虫に求める考えを表している。

毛虫と蝶に対する価値観を返還させるこうした考えは、続く言葉によって、相対主義的な視点を導くことにもなる。

絹とて人々の着るも、蚕のまだ羽根つかぬにし出し、蝶になりぬれば、(中略)、あだになりぬるをや。

蚕のうちであれば、絹織物の材料となる繊維を作り出す。しかし、蚕が成長して羽根が生え、蝶になってしまうと、あだになる、つまり何の役にも立たなくなる。

この考えは、物語の中でただ一人だけ姫を理解する、「とがとがしき女(口やかましい女)」によって、さらに強調される。
蝶を捕まえると粉が手について気味が悪い。その上、「わらは病」になる。つまり、粉に毒があり、それに触れると発熱や悪寒に襲われるというのである。

見た目に美しい蝶は、触ると気持ちが悪いだけでなく、病をもたらす。
見た目が悪い毛虫や蚕は、絹という美しい織物を作りだす源であり、美しい蝶の元でもある。

加藤周一は、「虫めづる姫君」の要点を、「ものごとの末ではなく本を見よ。」「世間的な美醜・善悪の判断は相対的なものにすぎない。」の2点だとしている。
実際、変わり者と見なされる姫君は、平安時代の宮廷社会における常識を相対化する視点を提示している。

しかし、それと同時に、別の側面を指摘することもできる。

(2)成長は時間の経過を前提とする。
毛虫から蝶への成長を観察することは、時間を意識し、その中で起こる変化に注意を注ぐことにつながる。
そして、そのことは、この時代に成立しつつあった「やまと絵」に代表される、和的な感性の表現と対応している。

神護寺 山水屏風

現世のあらゆるものは、時間と共にはかなく消えてしまう。それだからこそ、夢のようにはかないものを慈しみ、美を感じ取る。
『古今和歌集』以来、日本では季節の変化に対する敏感な感受性を持ち、時間の移り変わりの中で、人間の感情と自然の変化を重ね合わせて表現することを好んできた。

「虫めづる姫君」の結末で、男に顔を見られたことを咎める言葉に対して、姫は、顔を見られても、人から何を言われようと、恥ずかしくはないと言い張る。
その言葉は、当時の社会において、行動基準が他人の目からどのように見られるかにあったことから考えると、驚くべきものがある。

人は夢幻のようなる世に、誰かとまりて、悪しきことをも見、善きをも見、思うべき。

この世は夢や幻のように儚い。人間は、仮の宿に泊まるように、そうした現世を生き、悪と思うことにも、善と思うことにも出会う。
しかし、移ろい易いこの世では、何が善で何が悪か、絶対的な判断を下すことなどできない。

この姫の言葉にも相対的な視点が示されているが、それ以上に注目したいのは、その根拠となるのが、時間の経過によるこの世の儚さという点である。

日本的な心は、絶対性や永遠を求めない傾向にある。
そのことは、『竹取物語』の中で明確に描かれている。
かぐや姫は、月の戻る時、羽衣を纏うことで、育ての親たちや帝に対する愛情を失う。彼女が戻っていく月は情のない場所。かぐや姫は泣く泣く地球を離れる。
また、不老不死の薬を姫から贈られた帝は、その薬を飲んで不死になることはせず、薬を富士山の山頂に捨ててしまう。
https://bohemegalante.com/2019/12/30/conte-du-coupeur-de-bambou/

虫めづる姫君は、虫が成長して蝶になる過程を観察することを好む。彼女も、かぐや姫と同じように、時間が経過し、儚さに情を感じる女性。
そして、虫に時間の経過、つまり生そのものを感じるからこそ、こう言うのだ。

かの虫の 心深きさましたるこそ 心にくけれ

姫は、毛虫が心深いので、心にくいと言う。
心深いとは、趣があり、思慮が深く、思いやりが深いという意味。
心にくいとは、心惹かれるとか、奥ゆかしいと思うという意味。

虫めづる姫君は、毛深い毛虫に、深い心を感じ、心惹かれる。
型にはまり、永遠の類型となった美ではなく、時間の移ろいに生を感じ、美を感じる。
その意味で、彼女は、季節の移ろいに美を見出す、日本的な心の持ち主だということができる。

「虫めづる姫君」の面白さは、花や蝶を愛する美意識と毛虫を愛する美意識を対比させながら、最終的な判断を読者に委ねるところにもある。

虫好きの姫の唯一の理解者である侍女には、「とがとがしき女(口やかましい女)」という否定的な形容詞が付けられる。
そこで、読者は、彼女の主張に同意するのかどうか、迷うことになる。

右馬の佐(うまのすけ)が最後に姫に贈る歌は、姫の眉毛が毛虫のようで、あなたのような人は誰もいないという内容。
眉の毛の深さを思慮深さの比喩と見なし、彼女を褒めているという読み方もあれば、げじげじ眉の女性は遠慮するという読み方もある。
とにかく、男は笑いながら、帰ってしまう。

このように、物語の作者の意図がわからないように作品が書かれている。
そこで、読者は、まさに、「悪しきことをも見、善きをも見、思うべき。」ことを求められる。

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