風の谷のナウシカ 交感する力

「風の谷のナウシカ」は、「火の7日間」という大戦争によって巨大文明が滅んだ後、1000年後に世界が行き着いた姿を描いている。

地上は猛毒を撒き散らす「腐海」が侵食し、オームが僅かに残る都市や谷の村を襲うこともある。風の谷の隣国ペジテや西方の軍事国家トルメキアでは、今でも覇権を争い、最終兵器「巨神兵」を奪い合ったりしている。

風の谷の少女ナウシカは、そうした強大な敵を前にして、一体何をしようとし、何ができるのだろうか。
メーヴェに乗り、空を飛び回る姿はすがすがしいが、戦うための武器は持たず、無力さに打ちひしがれることもある。

ナウシカという名前

ナウシカという名前は、ホメロスの「オデュッセイア」に登場するスケリア島の王女の名前から来ている。宮崎監督はその名前をギリシア神話の事典から見つけたという。
ナウシカは、海岸で血まみれの男(オデュッセウス)を見つけ、みんなは逃げまどっているのに、一人でかばって介抱する娘であるとされ、宮崎監督の理解では、世間からずれている。しかし、それだからこそ、英雄の心には特別な思い出を残すことになったという点が、強調されている。

ナウシカの原形として語られている女性がもう一人いる。『堤中納言物語』の中に収められた「虫愛ずる姫君」に出てくる娘。
彼女は外見を気にせず、ありのままが一番、根本を知らなければ物事はわからない、などと言い放つ。そして、みんなが気持ち悪がる昆虫を集め、観察することを楽しみとした。

ギリシア神話の王女と虫好きな姫に共通しているのは、周囲とは違っていること。そして、周囲が嫌がるものに愛を注ぐこと。この二点を、風の谷のナウシカは受け継いでいる。
ナウシカも、猛毒を撒き散らす腐海の植物をこっそりと城の地下に運び込み、地下の清浄な水で育てている。その地下室の植物たちは、毒を出さず、美しい。

複雑な世界

もしナウシカが善で、戦う相手が悪と決まっていれば、彼女の活躍で敵を蹴散らす冒険活劇としてわかりやすいだろう。エコロジー的な視点から見て、文明が悪であり、自然を守れというに等しい。

しかし、「風の谷のナウシカ」の描く世界は、そんなに単純ではない。善と悪がはっきりとし、善が悪を倒して完結するという単純な話にはなっていない。

単純な視点で見れば、覇権を争い、巨神兵を使って腐海の森を焼き尽くそうとする二つの帝国トルメキアとペジテは、悪と見なされる。
トルメキアは風の谷を占領し、ナウシカの父ジルを殺し、人々を苦しめる。
ペジテは、トルメキアに占領された自分たちの町をオウムに襲わせたり、巨神兵を奪うために風の谷をオウムに襲わせようとする。
しかし、彼等の目的は、トルメキアの司令官クシャナが言うように、毒を拡散する腐海の森を焼き、世界を人間の手に取り戻すことに他ならない。それは、一つの視点から見れば、正しい行い行為とも考えられる。

他方、腐海は毒をまき散らす危険な森である。
風の谷に住む人々は、海からの風がなければ、毒によって死んでしまう。そう考えれば、腐海は悪の存在。

しかし、腐海は実は空気を清浄化する働きをしていて、地下には清らかな水がある。
腐海の植物は、大地の毒を体内で結晶化し、正常な水と砂を生み出しているのだ。
腐海を守るオームたちは、その浄化作用を守る番人の役割を果たしている。

このように、「風の谷のナウシカ」の世界は、あるものが絶対的な善でもなく、絶対的な悪でもない世界。
風の谷の人々のように無力な存在は善人かもしれないが、大きな力に対して抗う力はない。
「時には豊かで、時には凶暴な自然」と共に生きることを知っていることが、彼等の最大の長所である。

宮崎監督はあるインタヴィユーの中で、善が悪に打ち勝てば全てが解決するような世界はないと言っている。

こうした複雑に絡み合った世界の中で、ナウシカは必死になって戦ったり、争いを避けさせようと奔走する。

ナウシカは何をしているのか?

ナウシカは物語の中心でいつも動き回っている。しかし、彼女が何をしているのか考えてみると、答えは結構難しい。
ナウシカの行動は、起こった出来事に対してのリアクションであることが多い。そのために、彼女自身でも何を目指しているのかよくわかっていないと思われることがよくある。

最初、彼女はユパを虫の攻撃から救うことに成功する。その一方で、ペジテの娘ラステルと父のジルの命を救うことはできない。
こうしたエピソードからわかることがある。
ナウシカは、虫たちとは親和性があり、ユパはそのおかげで命を保つ。
その一方で、トルメキア軍の兵士たちとは激しく戦い、何人もの人間を殺してしまう。その上、どんなに戦っても、大切な人の命を守ることはできない。

しかし、戦うナウシカが、ある時点で劇的に変化する。

兵士たちとの戦いの中で、ユパに剣を収めるように諭されるえが、そのまま戦いを続け、ユパの腕を刺してしまう。
その時から、彼女は戦いをやめ、制止する側に回るようなる。

「もう誰も殺したくないのに。」

この言葉が、彼女の全ての行動の原理となる。

この言葉は、実は、子どものころ、小さなオウムをかくまっていて、大人たちに見つかったとき、泣きながら言った言葉と対応している。

「お願い、殺さないで!」

では、「もう殺したくない。」と言った後からの、ナウシカは何をするのか。
ペジテの攻撃を受けたトルメキアの船団からクシャナを救う。
虫に襲われたアスベルをやっとのことで助ける。
このように、彼女は、戦うのではなく、逃走するようになる。

宮崎監督は、主人公の最初の設定を次の様に考えていたという。

経験不足でおぼつかず、まだまだ父親に代わる任には耐えられない娘が、一国の運命と多くの人間に対する責任を否応なく背負わなければならない。
その責任の重さにひしがれながら生きている主人公というのが、初めて僕の中に生まれたんです。(。。。)
ナウシカという主人公の最大の特徴は、何よりも責任を負っているということです。自分の思いとか、やりたいことがあったとしても、とにかくまずその前に、
たとえ小さな部族とはいえ、部族全体の利害や運命をいつも念頭に置いて行動しなければならないという抑圧の中で生きているわけです。

アニメの中で彼女の運命は、「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。」という伝説によって予見され、最後にはそれが実現する。

風の谷に向かうオームたちの突進をとめるためにナウシカは身を投げ出し、死を迎える。
しかしその後すぐに、金色に輝く虫たちの触覚が金の野のように広がり、青い服のナウシカが生き返る。
彼女は虫たちと交感し、そのことで風の谷を救い、伝説の予言を実現することができる。

このように考えたとき、背負いきれない責任を果たすことができたのは、能動的な行動によるのではなく、「交感する力」によると考えてもいいだろう。
だからこそ、毒と共に生きる風の谷の人々の救世主になることができたのだ。

ナウシカは、自分から積極的に目的を遂げるために何かをする少女ではなく、外界と親和性を持ち、調和を生み出そうとする存在だといえる。
この特色が、アニメ全体の思想を巧みに象徴している。

四大元素の世界

交感する力は、具体的には次の様な行動によって示される。
風を読み、風に乗る。
オームたちと心を通わせる。
もっと言えば、自然を調和して行動する力ということになる。

では、そうした交感力の源泉は何だろう。

それを明らかにするためには、「風の谷のナウシカ」が四大元素の世界観に基づいていることから確認する必要がある。
四大元素論というのは、古代ギリシアから続く思想で、世界(人間も含む)は四つの元素から成り立っているというもの。
万物の根源とは、火、風(空気)、水、大地。
これらの元素は消滅することがなく、様々に組み合わさることで自然界に変化が生まれると考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/四元素

火は、「風の谷のナウシカ」の中では、常に攻撃、破壊の役割を担っている。
その象徴が巨神兵。
その怪物は1000年前、全世界を7日間で焼き尽くしたとされる。


トルメキア軍の兵を率いるクシャナは憎悪の塊だが、彼女の属性は火そのもの。彼女は火を使い、森を焼き払うことが世界を再生することだという考えに取り憑かれている。

水は、浄化の役割を担う。
腐海の底には清浄な水があり、きれいな水に育てられた植物は毒を発生しない。
風の谷と腐海を隔てるのも、清浄な水をたたえるサンの海である。

大地は、汚れた存在とされている。
巨大産業文明が「火の7日間」よって崩壊し、その結果、大地は毒を発散する腐海でおおわれた。
この状態から世界を再生するために、クシャナは、腐海を焼き払い、大地をよみがえらせることを目的として、ペジテから巨神兵を奪った。
その一方で、ナウシカは、植物たちが大地の毒を体内で結晶化させ、きれいな砂と水に変えていることを発見する。
腐海の最深部の湖は、青き清浄の地。そして、その植物を守っているのが、オームたちなのだ。
このように見てくると、オームは大地に属し、正常化と破壊の二面性を持っていることがわかる
大地を火によって支配するのか、水によって浄化するのか、その違いがクシャナとナウシカの違いに他ならない。

以上の3つの元素に基づきながら、もっとも重要な役割を果たすのが、空気(風)である
ナウシカは、水の重要性にもかかわらず、水の精ではなく、空気の精。風の谷の王家の娘なのだ。

風の谷は、ペジテやトルメキアとは違い、腐海の近くにある小さな村で、腐海の毒から風の力によって守られている。風が止まれば瘴気によって人々も木々も死んでしまう。
宮崎監督の言葉によれば、風の谷の人々は、自然の中で微妙な調和を取りながら生きている。
王であるジルも、長老たちも少しづつ毒に冒され、徐々に死んでいく定め。無理に逆らうことはせず、運命を受け入れ、その中で自分たちの生を営む。
王の娘ナウシカの仕事は、守り神である風を味方に付け、腐海の毒から村人たちを保護し、平穏な暮らしを続けることだといえる。
その役割を映像的に示すのが、メーヴェに乗って颯爽と風に乗って飛ぶナウシカの姿である。

以上のように、「風の谷のナウシカ」は、火、水、地、空気という四大元素が組み合わされている。
その中で、風(空気)は、調和する力として、ナウシカによって体現される。

交感力

ナウシカのもっとも大きな力は、交感力である。
その力によって、彼女は風を捉え、颯爽と空を飛び回ることができる。
それ以上に大切なことは、オームと心を通わせ、虫たちの怒りをなだめること。
ユパの腕を傷つける前のナウシカは怒りにまかせて相手と戦い、相手を殺す、戦士的な側面もあった。
しかし、それ以降は、複雑に敵対する勢力の和解者となり、憎悪の塊とされるクシャナでさえナウシカに共感を覚えるようになる。

こうした共感の力は、ナウシカのモデルとしてあげられるギリシア神話のナウシカや虫愛づる姫に由来する。彼女たち3人は、他の人達から恐れられ、嫌われる存在と心を通わせる能力を共有しているのだ。

ナウシカの交感力をもっともはっきりと示すのは、映画のラスト・シーン。
風の谷に突進するオウムたちの大群を止めるため、ナウシカは身を投げ出し、その結果、弾き飛ばされて死んでしまう。。
その時、オームたちの触覚が伸び、青い服を着た彼女を空に向かって持ち上げる。

この場面は、「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし。」という伝説の実現した姿ということはすぐにわかる。
注目したいことは、黄色の野が、オームたちの触角だということ。

オームたちは、これまでにも何度かナウシカに触角で触れ、彼女と交感してきた。


最初にナウシカが虫たちの怒りをなだめるために使った手段は、ユパを救うための虫笛と閃光弾だった。

しかし、それから後は、虫の前にじっと立ち、触手で触れられるままになることで、虫に自分の気持ちを伝えてきた。

その気持ちとは、言葉にすれば、「もう殺さないで。」ということだろう。
子ども時代の思い出の中でも、小さなオームをかくまったいるのを見つかってしまった虫愛づる姫君ナウシカは、大人たちに向かって、「殺さないで」と泣きながら懇願する。
オームとその気持ちを伝え合うときには、じっと虫の前に立ち、受動的に触手に障られるままにするのが唯一の方法だといえる。

空をさっそうと飛ぶのが風の谷の姫の外の姿だとすると、彼女に宿る交感力は触角に基づいている。

最後に、オームの大群が無数の触角を合わせ、金色の野を形作ったとき、交感力も最高に達する。
それは奇跡の瞬間であり、死んだナウシカが甦る時となる。

宮崎監督は、この場面について、宗教画のようで違和感があると言う。確かにリアルな物語としては現実味に欠けるかもしれない。
しかし、触角と交感力を絵画的に最大限に表現したという意味で、納得のいく画像ではないだろうか。

「風の谷のナウシカ」の中では、交感と触覚を密接に組み合わされていることが、この場面からはっきりと理解できる。
この映画では、オームの触角によって、交感の力が感覚的に伝えられている。

人間には五つの感覚器官がある。
目ー視覚、
手ー触覚
耳ー聴覚
鼻ー臭覚
舌ー味覚
さらに、五感を全て統合する感覚である「共通感覚」の存在が指摘されることもある。

現代人の中で、もっとも支配的な感覚は視覚。
百聞は一見にしかずと言う諺があるように、見えるものは実在すると考えるのが普通である。実際、他の感覚と比べて、認識能力が高い。顔を見れば人の見分けがつくが、香りや手触り、声だけでは、その人かどうかは不確かなことが多い。

聴覚については、絶対音感を持つ人もいるが、二つのピアノの音を聞き分けるのはかなり難しい。視覚ほど微妙な区別はつかない。

臭覚の識別作用は、さらに弱い。
その一方で、鼻の中で感じる感覚であり、体内に入り込むという特色がある。
微細な臭い物質は目に見えず、感覚を刺激する。
ボードレールが詩の中で香水を題材にするのは、目に見えない力が人間に強い影響力を持つからに他ならない。

味覚は、その対象と接触し、そこで受容が行われる。従って、対象と離れて感じる視覚、臭覚とは大きな違いがある。
また、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つが基本だが、個人差が大きく、認識機能が明確ではない感覚だといえる。

「風の谷のナウシカ」でもっとも重要な感覚は、触覚だろう。
触覚は、味覚と同じように、皮膚にある受容細胞の働きである。手と物との接触が必要になる。その意味で、視覚とは反対の感覚である。
見るためには距離が必要。それに対して、触ると距離がなくなる。そのため、触ることと触られることが一体化する。視点の転換によって、触る主体と触られる客体が、瞬時に逆転する。
視覚の場合、視線は一方通行の可能性があります。見ているけれど、見られていないということは、しばしば起こりえる。
それに対して、触覚の場合には、互いに接して状態なので、触っていると触られているは同じ状態の二つの側面ということになる。

このように考えると、なぜ触れることが交感と深くかかわっているのか、理解できる。オームに触れられているナウシカは、オームに触れていることにもなる。視覚とか比べものにならないほどの親密さが生まれてくるのだ。

触れる・触れられるの相互作用は、「風の谷のナウシカ」の複雑に入り組んだ世界の中で、何一つ一方的でないことの根源的な理由でもある。
全てが交感する世界では、善も悪もその時、その場の関係の中でしか決まらない。

そうした世界観が、湿潤な地帯に広がる照葉樹林的感性と対応し、ネバネバした食品を好む文化を持つ、日本的あり方の典型となっているのではないだろうか。

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