フロベール『ボヴァリー夫人』 レアリスムを超えて

フロベールの『ボヴァリー夫人』は、レアリスム小説の傑作と言われる。しかし、その素晴らしさはなかなか理解されないらしく、フランスの高校の先生たちも教えるのに苦労しているらしい。
あらすじだけ追えば、平凡な夫に愛想を尽かした妻が、不倫と浪費の末に、自殺する話。しかも、描写が長く、話がなかなか進まない。なぜこれが傑作なのだろうと思う人も多いだろう。

そこで、アウエルバッハの『ミメーシス』の一節を参考にしながら、レアリスムとは何か、『ボヴァリー夫人』はその中でどのような特色があり、素晴らしさはどこにあるのか、探っていくことにする。

田舎の医者であるシャルル・ボヴァリーと結婚したエンマは、夫が平凡でとりたてて取り柄がないように見え、生活が満たされないことにいらいらしている。
『ボヴァリー夫人』第1部9章では、存在の耐えがたさが、頂点に達する。

 Mais c’était surtout aux heures des repas qu’elle n’en pouvait plus, dans cette petite salle au rez-de-chaussée, avec le poêle qui fumait, la porte qui criait, les murs qui suintaient, les pavés humides ; toute l’amertume de l’existence lui semblait servie sur son assiette, et, à la fumée du bouilli, il montait du fond de son âme comme d’autres bouffées d’affadissement. Charles était long à manger ; elle grignotait quelques noisettes, ou bien, appuyée du coude, s’amusait, avec la pointe de son couteau, à faire des raies sur la toile cirée.

 しかし、とりわけ夕食の時間になると、エンマはもうだめだった。一階の小さな部屋では、ストーブが煙を吐き、ドアがきしきしと音を立て、壁から水滴がしみ出、土間の石畳は湿っている。生きていることの苦々しさ、その全てが皿に盛られているようだった。蒸した肉の湯気が上がるのに合わせ、彼女の魂の奥底から、湯気とは別のどうしようもない味気なさのようなものが立ち上ってきた。シャルルは食事が長かった。彼女はナッツをいくつかポリポリかじったり、肘をつき、手なぐさみにロウを塗られたテーブルクロスにナイフの先で線を引いたりしていた。

レアリスムの二つの特色
市民生活の出来事と歴史性

アウレウバッハによれば、レアリスム小説の大きな特色は2つある。

一つは、市民の普通の生活に起こる日常的な出来事を描くこと。
ボヴァリー家は貴族でも、大ブルジョワでもなく、田舎の平均的な医者。普通の市民階級に属している。
描かれる出来事も、エンマの浪費や不倫を中心に、田舎の人々の暮らしぶりや農業振興会等の催し物の様子等、特別な大事件は何も起こらない。

レアリスムのもう一つの特徴は、描かれた出来事が、同時代の歴史的な一時期に組み込まれていること。
小説の中で描かれているエンマの存在に対する苛立ちは、エンマ個人の感情というだけではなく、近代市民社会において資本主義社会が進展する中、一人一人が抱えている感情でもある。その意味で、ボヴァリー一家をめぐる物語は、社会全体の縮図であり、歴史の中にはめこまれているといえる。

フランスにおけるレアリスム小説の最初に位置するバルザックやスタンダールも、同時代の市民社会を対象としていた。

注意しないといけないのは、19世紀の前半、ロマン主義が古典主義に対抗して生まれてきたとき、最初に声を上げた一人がスタンダールだった。そして、彼の主張の柱の一つが、文学は古代世界や神話世界ではなく、同時代の社会を描くこと。そして、バルザックは、戸籍簿と競争すると言われるほど、王政復古時代の社会を描くことに熱意を燃やした。

では、同時代の社会を描きながら、ロマン主義とレアリスムで何が違うのか。
ロマン主義は19世紀前半の社会に生きる人間を描きながら、目指すのは抒情的な心情を吐露することだといえる。産業革命で文明は進歩し、貨幣が支配する社会になる。ブルジョワの台頭。そうした中で、今ここにないもの、理想に憧れ、決して手に触れられないものを熱烈に求める。そこに生まれる抒情的な心情を描くのがロマン主義だといえる。

レアリスムは、こうした抒情性を排除し、目に見えるものだけを描く。レアリスムを代表する画家であるクールベは、「私は天使を描かない。見た事がないから。」と言い、目に見えるものしか描かないし、描けないと主張するほどだった。

Gustave Courbet, Un enterrement à Ornans

田舎の埋葬風景を描いたクールベの1枚を、ロマン主義を代表するドラクロワの絵画と並べると、違いは一目瞭然である。

Eugène Delacroix, La liberté guidant le peuple

クールベの絵画には理想化の影さえない。ドラクロワは1830年の7月革命の市民達を描きながら、中心には女神を配置し、自由を理想化している。

フロベールは、エンマにこのずれを担わせている。そして、それこそが、エンマという個人を7月王政時代の歴史の中に組み込むことに他ならない。

非主観的な語り

フロベールの最大の特色となるのは、非人称で、客観的で、即物的な語り口だと言われる。食卓の場面でも、そうした文の効果が最大限に発揮されている。

小説には作者がいて、その代理人とも言える語り手がいる。そして、描かれる小説の中の世界には、登場人物がいる。

バルザックの小説では、語り手が度々登場し、建物の様子を描写しながら歴史を語ったり、登場人物の心の内を細かく分析し、読者に全てを説明しようとする。

それに対して、フロベールの小説では、語り手が介入して、自分の意見を述べることはほとんどない。それぞれの場面は、登場人物の視線から見られている。
語り手の介入を読者に感じさせることなく、登場人物それぞれが独立して動く。どの場面からも語り手の主観が感じられない。語り手は客観的にその場を描く。そのために、非人称で、客観的で、即物的な語り口だと言われる。

食卓の場面は、最初にエンマの姿が見えてくる。そして、彼女の視線から見える光景が、1枚の絵画のように描き出される。
シャルルと向かい合った彼女は、話すこともなく、ストーブの煙を気にし、ドアがきしむ音を聞き、壁や土間を見る。
退屈して、食事をするでもなく、木の実を口にしたり、ナイフでテーブルクロスに線を書いたりして、時間つぶしをしている。

この場面で語り手は、エンマの内心を語り出し、彼女が退屈しているとは言わない。あくまでもその場の光景を描くだけという姿勢を保つ。
シャルルがゆっくりと食事をしているというのは、現実の時間ではなく、エンマの主観的な意識である。楽しければ、シャルルの食事が長いとは思わないだろう。
シャルルは普通に食事をしているだけで、エンマを苛立たせるようなことは何もしていない。しかし、彼女はシャルルが我慢できない。それを退屈とか、いらだちとか説明するのではなく、「シャルルは食事が長かった。」と、事実を事実として書く。

同様に、シャルルの内面に立ち入ることもなく、彼が妻の苛立ちをどのように感じているかを説明する文もない。シャルルはそこにいるだけ。そのことがエンマをますます苛立たせる。

しかし、語り手がまったく不在ということはない。
アウエルバッハは、語り手を通した作者の役割を、説明ではなく、選択にあるとしている。エンマはストーブやドアや壁を見る。食堂にある他の多くのものの中で、それらの物を選択したのは、エンマではなく、作者。また、エンマの仕草の中から、テーブルに肘をついたり、テーブルクロスを傷つける行為を選んだのも作者である。
語り手を通した作者の介入は、画家が描く対象を選択するのと同じように、何を描くかにかかっている。そしてその介入は、読者には感じられない。

アウエルバッハは、エンマにも言及し、彼女自身、こんな風に自分の不快の原因を数え上げることはできないだろうと考えている。
エンマが感じているのは、皿に盛られた料理に対して、「生きていることの苦々しさ、その全てが皿に盛られているようだった。」という、漠然としているが、不快感が頂点に達しそうな気持ち。彼女の魂からは、「どうしようもない味気なさのようなもの」が、蒸した肉の蒸気のように立ち上がる。

作者は、エンマが見るものの中から料理の皿や暖かい肉の蒸気を選択し、わずかなナレーションで、彼女自身では言葉にできなような気持ちを読者に伝えるのである。

こうした手法のおかげで、読者は、エンマの視点を通して見られた場面を目にしながら、彼女と同じ感情を抱くことができる。
エンマが自分でどのように感じているのか、読者に語り掛けるのではない。見えない作者が、彼女の混乱した気持ちを整理し、言語化している。

この語り口からは、主観性は感じ取られない。全ては客観的に、画家の描いた1枚の絵画のように外から眺められている印象を与える。その意味で、フロベールの小説の語り口は、非主観的だといえる。

エンマと時代精神

エンマは存在の不快を感じ、苛立ちをシャルルにぶつける。
彼女は結婚の早い段階から夫を平凡で取り柄がないと思い始め、特別なことが起こらない平凡な人生に苛立つようになる。特別な機会を求め、空想的な恋愛に憧れる。

こうした性向は、どこから来るのか。
エンマはロマン主義の甘っちょろい小説を読みふけり、空想的で夢見がちな少女時代を過ごした。そのために、結婚後も恋愛に憧れ、現実が見えなくなり、浪費と不倫に走る女性として描かれる。

ここで注目しなければならないのは、『ボヴァリー夫人』の年代設定である。
執筆されたのは1852年から56年にかけてであり、1848年の2月革命後、ナポレオン三世が実権を握り、第二帝政を確立していった時代。
それに対して、小説の描く世界は、それより一つ前の時代。1830年の7月革命以後の、七月王政の時代。
文学や絵画の歴史から見ると、1830年代はロマン主義全盛の時代であり、1850年代はレアリスムが勃興した時代となる。

その時期のずれを利用して、フロベールはエンマを、意図的に、レアリスムの時代に生きる遅れてきたロマン主義者として設定した、と考えることができる。
ロマン主義の小説をセンチメンタルでつまらないように扱うのは、抒情的な感情の過多が、19世紀の中期には時代遅れで、滑稽に感じられたことを示すため。ある意味で、エンマの姿はロマン主義批判である。

その一方で、当時のレアリスムへの批判であり、時代精神への批判にもなっている。エンマの苛立ち、凡庸さへの不快感は、第二帝政下のブルジョワ社会に対する、芸術家たちに共通する感情と考えることもできる。

『ボヴァリー夫人』が出版された1857年、シャルル・ボードレールが書評を書き、「エンマは理想を追求する!」と強調した。
彼女において支配的なのは想像力であり、決断の早さ、限度を知らない過剰なダンディスムが彼女を特徴付ける。
その根底にあるのは、修道院教育の中で修道女たちがエンマの中に見出した、「生」への欲求である。

他方で、彼女が生きる世界は物質主義的であり、精神性への想いが失われている。想像力が欠如し、美に感激を抱くこともない。ボードレールは1846年の美術批評の序文で、すでにブルジョワに対する批判を行っていた。

1850年前後に盛んになったレアリスムは、そうしたブルジョワ精神の産物であるとボードレールは見なした。そして、『ボヴァリー夫人』の書評の中では、「従属的細部を綿密に描写するだけ」として批判している。
フロベールも、レアリスムには批判的な態度を取っていたことが知られている。

フロベールは、エンマを通して、ロマン主義を称揚し、復活しようとしたのではない。ブルジョワ社会に彼女を置くことで、精神性や理想を求めることをせず、凡庸さに自足する時代精神を浮き上がらせようとしたのだ。

『ボヴァリー夫人』を不倫小説として読み、シャルルの凡庸さを話題にするだけでは、単なるあらすじを追っているにすぎず、田舎の新聞の雑報に乗るスキャンダルな事件を読むのと変わるところがない。

ボードレールは、シャルルが奇形の足の手術をして失敗するエピソードと、夫を裏切りそうな不安な気持ちを告白するエンマの言葉を軽く聞きながす教会の神父のエピソードを、『ボヴァリー夫人』の最も本質的な要素として挙げている。想像力が欠如し、他者に対して無関心で孤立した状況は、第二帝政初期の市民たちの心性だった。

アウエルバッハの言葉を借りれば、エンマは1850年代のフランス市民社会にすっぽりとはめ込まれている。しかし、それは逆接的にである。エンマという異物を入れることで、周囲の現実が浮き彫りになる。エンマ的ロマン主義が『ボヴァリー夫人』の中で果たす役割は、その逆接の鍵に他ならない。

ブルジョワ社会の中で、芸術家達はボヘミアンとして社会の片隅の置かれていた。いくら理想を追求しても、エンマと同様に出口はない。彼等の不快感、苛立ち、不満、絶望、そうした感情に、ブルジョワ社会は全く無関心である。

食卓でエンマの向こう側に座るシャルルの姿は、そうした態度を象徴している。彼は妻の心の内に気づかず、エンマの存在に対する倦怠を理解することはない。そうした感情があることさえ、知らないかもしれない。シャルルは目の前のものだけに満足し、もし何か話したとしても、紋切り型の言葉を繰り返すだけだろう。

アウエルバッハが切り取ったたった一つの場面が、『ボヴァリー夫人』という小説の持つ価値を見事に描き出している。
レアリスムとは何か。フロベールの小説の特質。時代精神、等々。
小説全体をざっと読み退屈だと言うのではなく、こうした批評を通して小説の真価を学ぶことで、読者は徐々に『ボヴァリー夫人』の面白さを発見し、自分なりの読みを見つけることができるようになるだろう。


『ボヴァリー夫人』の全体的な解読については、以下の項目を参照。

ギュスターヴ・フロベール 『ボヴァリー夫人』 反リアリズムと現実の効果 新しい現実の創造 2/4 

ギュスターヴ・フロベール 『ボヴァリー夫人』 市民社会の生存競争とエンマの「黒い怒り」 新しい現実の創造 3/4


フランスの高校生たちにとって『ボヴァリー夫人』が読めない小説という説を紹介しているビデオがある。

15分で『ボヴァリー夫人』を紹介するというものだが、残念ながら、小説の本質の解説とはなっていないようだ。

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