ボードレール 「芸術家の告白」Le Confiteor de l’artiste

「芸術家の告白」« Le Confiteor de l’artiste »の中で、ボードレールは自らの詩学を散文詩として表現した。彼が芸術家として目指すもの、苦しみ、恍惚感を吐露した告白なのだ。

「芸術家の告白」は1862年に発表され、ボードレールがこの時代に一時暮らしたノルマンディー地方の港町オンフルールHonfleurで執筆されたと考えられている。

オンフルールは、ノルマンディーの海岸と雲を数多く描いたウージェーヌ・ブーダン(Eugène Boudin)の活動拠点。「ドーヴィルの埠頭」。この海岸で、詩人としての思いを綴ったのだろうか。

同じノルマンディー地方にあるグランヴィル近く。真っ青な海と真っ青な空がどこまでも広がり、小さなヨットが浮かぶ。

Granville

決して到達できない「美」に達するために戦いを続ける芸術家の苦悩と喜びを告白するのは、この海と空の中に一人佇む時だろう。

散文詩の第一段落は、秋の日の終わりが胸に突き刺さるようだと、苦しみを吐露するところから始まる。

Que les fins de journées d’automne sont pénétrantes ! Ah ! pénétrantes jusqu’à la douleur ! car il est de certaines sensations délicieuses dont le vague n’exclut pas l’intensité ; et il n’est pas de pointe plus acérée que celle de l’Infini.

秋の日の終わりは突き刺さる。苦痛なほどに突き刺ささる。確かに、甘美な感覚もあるにはある。しかし、おぼろげなだからといって、強烈さが薄らぐことはない。「無限」の先端ほど鋭いものはない。

Que …. ! と感嘆文で始まり、Ah ! …. ! と、強く感情が表現される。その感情の核心は、貫き通す(pénétrant)という、痛みを伴う感情。夕日に染まった海の光景が心に沁みるという気持ちはよくわかる。
しかし、芸術家にとっては、美しい夕日の光景が甘美に感じられるという以上に、より過激で激しい痛みにまで達する。苦痛(la douleur)だと感じられるまでになる。
最初の一文で、芸術家の激しい感受性が感嘆文によって表現され、感傷を超えた感情が一気に吐露される。

しかし、次に「なぜなら(car)」という言葉が用いられ、説明的で論理的に調子に変わる。なぜ美が苦痛にまで達するのかという疑問には、論理的な答えがある。
甘美ないくつかの感覚(de certaines sensations)には、漠然とうっとりとした感じもあるが、それとは反対に、強烈なもの(l’intensité)もある。この強烈さ、過激さは、ボードレール的な美学の核心をなす。

そして、貫き通す(pénétrant)と強度(l’intensité)という言葉からの連想で、先端(pointe)が出てくる。その先端は、研がれて鋭い(acéré)。« il n’est pas »は« il n’y a pas »で不在を意味する。そこに« plus…que »という比較級が続き、一番研ぎすまされている尖りはqueに続くものであることが示される。それは何か? 

「無限(L’infini)」の先端。
フランス語は前に来る要素よりも後ろに来る要素の方が重要であることが多い。この第一詩節でも、最も力点が置かれているのは、「無限」。ボードレールの世界で最重要な概念の一つ。その「無限」の突先が、芸術家の心と体を貫き通し、美を前にしての苦痛をかき立てる。

では、「無限」とは何か?
空があり、海があり、どこまでも視線は伸びていく。そこに広大な広がりがある。どこまで進んでも、終着点には到達できない。だからこそますます人を魅了する。

それにしても、芸術家は秋の夕暮れの美しい光景を前にして、なぜこれほどの苦痛を感じるのか。第二詩節でその理由が示される。


第2段落では、ジャン・ジャック・ルソーが最初に発見した、自然と自己の一体化体験に基づき、美を前にした芸術家の姿が描き出される。

Grand délice que celui de noyer son regard dans l’immensité du ciel et de la mer ! Solitude, silence, incomparable chasteté de l’azur ! une petite voile frissonnante à l’horizon, et qui par sa petitesse et son isolement imite mon irrémédiable existence, mélodie monotone de la houle, toutes ces choses pensent par moi, ou je pense par elles (car dans la grandeur de la rêverie, le moise perd vite !) ; elles pensent, dis-je, mais musicalement et pittoresquement, sans arguties, sans syllogismes, sans déductions.

なんと素晴らしい喜びなのか、視線を空と海の広大さの中に溺れさせるのは! 孤独、沈黙、蒼空の比類なき純潔さ! 水平線で震える小さな帆船。小さく、孤立しているその姿が、救いようのない私の存在を象っている。波のうねりの単調な旋律、全てのものが私を通して思考する。あるいは、私が全てを通して思考する。(というのも、夢想の偉大さの中で、私という存在はすぐに失われるからだ。)繰り返すが、全てのものが考えている。しかし、音楽的に、そして絵画的にだ。細かな理屈を考えたり、三段論法を使ったり、演繹したりはしない。

真っ青な空と海を目にして、幸さを感じることは誰にでもある。詩人も同じように甘美な喜び(délice)を感じる。彼には、空と海の空間は果てしなく、その巨大さ(l’immensité)は「無限」を思わせることだろう。

その空間に向かって、視線を「向ける」のではなく、視線を「溺れさせる」。
視線を投げかけるのであれば、見る私と見られる海や空の間には距離があることになる。しかし、溺れさせることで、その距離がなくなる。見る者と見られる物の境界がなくなり、主客が一体化し、その逆転も起こりうる。海の上に浮かぶ小さな小舟が私になったり、物が考え、感じたりする世界。
ボードレールはそうした世界を、たった一つの動詞(noyer)だけで作り出す。その空間に視線を溺れさせることで、単に見ているのではなく、我を忘れて見ているという感じを出すことになる。さらに、死のイメージが予告される。

次に、3つの名詞が並列に置かれ、強い感嘆の感情が表現される。孤独(solitude), 沈黙(silence)、比較できないほど(incomparable)混じりけのない(chasteté)紺碧(azur)。この叫びは、広大な海と空を前にして、詩人が発する心の声だ。孤独は詩人の姿を、沈黙は詩人と青の両方を、紺碧の純潔は自然を指す。ここで人間の内面と外に広がる自然が並列されていることは、次の句の予告になっている。

小さな帆船(une petite voile)は、詩人の存在の小ささでもある。その小さな存在が、水平線の上で震え(frissonante)ている。詩人はその帆船から、自分の小ささと、どうしようもなく惨めな人生(mon irrémédiable existence)を連想する。その人生は、波(la houle)が立てる単調なメロディー(mélodie monotone)のようだと、詩人は再び慨嘆する。

ここまでは、芸術家が美を前にしたときに湧き出してくる心の動き。それ以降になると、考える(penser)という動詞をきっかけに、思考の世界に入っていく。

「全てのものが私を通して思考する。あるいは、私が全てのものを通して思考する。」

ここで中心になるのは、penser(考える)という動詞。ボードレールは、絵画や音楽、そして詩で表現されるものが感情ではなく、思考であると打ち明けている。言い方を変えれば、芸術はインスピレーションに基づくのではなく、思考に基づく、つまり人間の思考の表現ということになる。実際、ボードレールの詩作品でも、直感的ではなく、構成(composition)が大きな役割を果たしている。

そのことを前提にした上で、外に広がる世界と私が「考える」という動詞を軸に反転し、私と物が入れ替わり、私と物が一体化していることが暗示される。詩人は視線を巨大な空間に「溺れさせ」、自分と外の世界の区別が消滅するのだ。帆船と自己同一化しているだけではなく、海や空と溶け合ってもいる。

それはちょうど、ジャン・ジャック・ルソーがスイスの湖の畔で夢想しているうちに、自己と自然が一体化し、恍惚(エクスターズ)に達した体験と同じ状態。(ジャン・ジャック・ルソー『孤独な夢想者の散策』)
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/

ボードレールはその関連を論理的に行う。あえて挿入されたカッコと「なぜなら」(car)という論理的な接続詞を使うことで、冷めた意識でこの詩句が書かれていることを示す。その中で、「偉大な夢想」「私が失われる」と記すことで、ルソーの第五の散歩を暗示したのである。

その後、ルソーを離れ、ボードレール的世界とても呼べる表現を用いる。全てのものが音楽的に、そして絵画的に思考する。思考は論理的に表現されるのではなく、音楽や絵画を通して行われる。言い換えれば、視覚と聴覚を通して思考が表現されることになる。

ボードレールは美術評論の中で、自然は辞書であり、辞書をそのまま再現しても作品にはならないと主張した。辞書に掲載された単語は素材にすぎず、書き手は単語を組み合わせて新しい文を書き上げる。その文が作品なのだ。

広大な海と空、小さな帆船をそのまま再現しても、美を産み出すことはできない。自然を前にして、自然と闘い、自然を超える美を産み出す。それがボードレールの美学なのだ。

第三詩節では、この闘いの苦悩が告白される。


第2段落では、全てのものが私を通して考えるのか、あるいは私が全てを通して考えるとあった。それが第三段落は、「私から発しようと、物の側から飛び出すとしても」という表現に変えられ、反復される。ある想念が主観の側に属しているのか客体の側に属しているのかわからないというのは、ボードレールの美学では中心的な概念の一つである。

Toutefois, ces pensées, qu’elles sortent de moi ou s’élancent des choses, deviennent bientôt trop intenses. L’énergie dans la volupté crée un malaise et une souffrance positive. Mes nerfs trop tendus ne donnent plus que des vibrations criardes et douloureuses. 

しかしながら、こうした想念が私から生じていようが、あるいは事物から生じていようが、すぐに強烈になりすぎる。官能に潜むエネルギーが、居心地の悪さをもたらし、苦痛がはっきりと感じられるようになる。私の神経は過剰に張り詰め、もはや叫びにも似た苦しげな振動しかしない。

「美への賛歌」でも、「旅」でも、あるいは(ou)という接続詞が重要な役割を果たし、美が天上から来ようと、あるいは地獄から来ようと、どちらでもいいという表現がある。「芸術家の告白」は主観と客体の間で揺れるのだが、そのことは、ルソー的な恍惚体験の中で大きな意味を持っている。目を閉じて湖の何の音を聞いていると、それが自分の鼓動の音と一人になり、私と外の自然とが一体化する。その時、主観と客体の区別はなく、どちらでもいいということになる。

そうした状態において、想念は強烈なものになる。広大な海と空を見て、単に美しいと感激するだけであれば、美は地上的なものに留まる。しかし、芸術家にとっては、美を求める強度(intensité)が過度(trop)になり、現実を超え、超現実(surnaturel)を喚起する。
その時、超自然な次元、イデアに向かおうとする官能的な欲望(volupté)のエネルギーは、現実に対する違和感を惹起し、苦しみ(souffrance)がはっきりと感じられる(positif)ものになる。
神経は弦楽器の弦のように振動(vibrations)し音を立てる。その音は耳障りで(criardes)、苦痛に満ちた(douloureuses)音だ。

プラトンに描く恋人がエロースに導かれてイデアに向かうように、芸術家も美し海と空の広大さに打たれ、美を希求する。しかし、官能の強さは耐えられないほどの苦痛や苦悩を伴う。それでも美を希求し、この世で苦しみに身を委ねるのが芸術家の宿命だと、ボードレールは打ち明けるのである。
また、一方では、エネルギーの過激さを示す言葉(trop intenses, l’énergie, trop tendus)を反復し、他方では、苦痛を意味する言葉(malaise, souffrance, criard, douloureux.)を連続的に用いる。これらの語彙は、彼の美学が、均整の取れた古典的な美ではなく、たとえ苦痛に満ちていようと、エネルギーに溢れた美を目指すものであることを示している。


最後の段落に至り、詩人は美との絶対的な上下関係を認め、負ける戦いを挑み続ける他ない芸術家の運命こそ、美の探求の道であることを明かす。

Et maintenant la profondeur du ciel me consterne ; sa limpidité m’exaspère. L’insensibilité de la mer, l’immuabilité du spectacle, me révoltent… Ah ! faut-il éternellement souffrir, ou fuir éternellement le beau ? Nature, enchanteresse sans pitié, rivale toujours victorieuse, laisse-moi ! Cesse de tenter mes désirs et mon orgueil ! L’étude du beau est un duel où l’artiste crie de frayeur avant d’être vaincu.

今や、空の深みが私を茫然とさせる。透明さが私を絶望させる。海は心を動かさず、この光景は不動だ。いらいらする。。。ああ、永遠に苦しまなければならないのか。あるいは、永遠に美から逃れなければならないのか。自然よ、情けを持たない魔女よ、常に勝利を収め続ける競争相手よ、私をほっておいてくれ! 私の欲望や誇りを誘惑するのは止めてくれ! 美を学ぶことは一つの戦いだ。芸術家が恐怖の叫び声をあげ、打ち負かされるしかない戦だ。

空の深さ(le profondeur du ciel)という表現は日本語では不思議な感じがする。しかし、フランス語のprofondeurという言葉は、下へ向かう深ささけではなく、上にも向かう。空はどこまでも広がり、無限に突き抜けていく。

芸術家は決して到達できない無限を前にして、打ちのめされたような気持ちになる。一点の混じりけのない透明性のために、いらいらすることにもなる。
一方、そんな芸術家をよそに、海も無感覚なまま(l’insensible)で留まる。無感覚というのは、小さなヨットのような人間の存在に対して、まったく心を動かさないという意味。前の前に広がる景色は、全く動かない(immuabilité)。どんなにいらいらしても、何も変わらない。

そこで、芸術家は無限に広がる海と空を前にして、こう自問する。
美は決して自ら歩み寄ることはない。だから、美を愛することは、苦しむことなのだ。苦しまないためには、美を避けるしかない。美を求める芸術家は、そうしたジレンマの中に置かれる。

自然は、芸術家にとって、心を魅了する存在(enchanteresse)でありながら、彼に慈悲をかけてくれることはない(sans pitié)。戦いの中で勝利する(victorieuse)のは、いつでも自然なのだ。
芸術家は、自然に向かって、自分をそっとしておいてくれ、美を欲する気持ち(désir)や美を愛するというプライド(orgueil)を誘惑する(tenter)のをやめてくれと、敗北宣言するしかない。自然よと呼びかけるところから、誘惑を止めてくれと叫ぶ2つの文は、芸術家の心の叫びの声だ。

告白の最後、抒情的は論理に場を譲る。
美を研究すること(L’étude du beau)は、美を愛し、美を求め、美を捉えようと試みること、つまり、美を創作しようとするである。それは、自然(美)と一対一で対決すること(duel)。しかも、負けること(être vaincu)が最初から決まっている対決。絶対に永遠の美を産み出すことはできないし、理想には達することができない。従って、恐怖の叫びをあげる(crier de frayeur)しかない。
美を求めなければ、こんな苦しみを味わうことはない。しかし、負け戦さの中でも、深みや透明さを追い求めて、自然と対峙し続ける。それが真の芸術家の宿命に他ならない。

「美への賛歌」を歌い続けるボードレールは、美を追い求める苦悩こそが美を産み出すことを伝える。
その時、「芸術家の告白」が美として詩的結晶となる。

ミッシェル・ピコリの朗読は、この詩句のポエジーを豊かに伝えている。

ボードレール 「芸術家の告白」Le Confiteor de l’artiste」への6件のフィードバック

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中