ポール・クローデルは、優れた日本文学論「日本文学散歩(Une promenade à travers la littérature japonaise)」の冒頭で、2つのフランス詩を、極東精神の精髄を感知するための序曲として引用している。
一つがステファン・マラルメの「苦い休息にうんざり(Las de l’amer repos)」。
https://bohemegalante.com/2019/08/27/mallarme-las-de-lamer-repos/
もう一つがポール・ヴェルレーヌの「カエルのように重く、鳥のように軽い(Lourd comme un crapaud, léger comme un oiseau)」。
この二つの詩を比較して、クローデルは、マラルメの詩は古典的で完璧な手さばきを示している一方、ヴェルレーヌは走り書きで、より大きな自由が感じられると言う。
「カエルのように重く、鳥のように軽い」では、奇数の音節が詩句から重さを取り除いている。奇数の音節と軽さは、「詩法」の中でヴェルレーヌ自身によって主張されていた。
https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/
その上で、最後の詩句が17音節と特別に長く、それが詩人のサインの役目を果たしていると、クローデルは考える。

ヴェルレーヌは、ジャポニスムの中心人物であるエドモンド・ド・ゴンクールに、「カエルのように重く、鳥のように軽い」を捧げている。
19世紀後半、フランスでは、18世紀芸術の再発見と浮世絵を中心とした日本美術の発見が行われた。
ジュールとエドモンの兄弟は、その二つの流れをどちらも推進し、当時の芸術観に大きな影響を与えた。
1870年のジュールの死後は、エドモンが一人で執筆活動を行い、1891年には歌麿紹介の本、96年には『北斎と18世紀日本の芸術』を出版している。
À Edmond de Goncourt
Lourd comme un crapaud, léger comme un oiseau,
Exquis et hideux, l’art japonais effraie
Mes yeux de Français dès l’enfance acquis au
Beau jeu de la Ligne en l’air clair qui l’égaie.
蛙のように重く、鳥のように軽く、
繊細でおぞましい日本の芸術は、恐れさせる、
フランス人の私の目を。その目は、子どもの時から
「線」の美しい動きに馴染んでいる、線を楽しげにする明るい空気の中で。
ヴェルレーヌにとって、日本の芸術には2つの側面があった。
一つは軽々として繊細。もう一つは、重々しく、ぞっとする。
この詩の中では、その2つを鳥と蛙で象徴している。
そして、そうした日本の芸術が、フランスの芸術、とりわけ絵画に小さい頃から親しんでいるヴェルレーヌの目を恐れさせるという。
ヨーロッパの絵画の伝統の中では、遠近法に基づいた三次元の構図が構成され、人や物の形が輪郭線によって描き出されることが、基本とされていた。

こうした絵画に慣れている目にとっては、日本の絵画は不思議に見えたに違いない。

19世紀後半のフランスでは、北斎漫画がよく知られていて、ヴェルレーヌも見ていた可能性がある。


こうした絵を見ながら、ヴェルレーヌは、受け入れられる部分と受け入れられない部分を感じ、それを蛙の重さと鳥の軽さという比喩で表現した。
密と粗
Au cruel fracas des trop vives couleurs,
Dieux, héros, combats, et touffus gynécées,
Je préfèrerais, d’entre les œuvres leurs,
Telles scènes d’un bref pinceau retracées.
あまりに激しい色彩が残酷なほどにぶつかり合い、
神々、英雄達、多くの戦い、密集した閨房よりも、
私が好むのは、彼等の作品の中でも、
一筆でさっと描かれたいくつかの情景。
「自然は真空を嫌う」という言葉が、アリストテレスの言葉としてよく知られている。
自然の中に真空はないという考え方だが、それと同じように絵画の中の空間も、神話や聖書に基づく場面にしろ、歴史上の戦いにしろ、描かれた空間は埋め尽くされている。


ヴェルレーヌは、空間が充満し、色彩が激しくぶつかり合う絵画よりも、さっと描かれた情景の方が好ましいと感じる感性を持っていた。


ダヴィド、ドラクロワと、与謝野蕪村、鳥文斎栄之を比べて見ると、ヴェルレーヌが「色彩の残酷なぶつかり合い」と「一筆でさっと描かれた」という言葉で対比する違いが、はっきりと感じられる。
第3詩節では、日本的な絵画の例が付け加えられる。
Un pont plie et fuit sur un lac lilial,
Un insecte vole, une fleur vient d’éclore,
Le tout fait d’un trait unique et génial
Vivre ces aspects que l’esprit seul colore!
一つの橋がたわみ、百合のように白い池の上を逃げ去っていく。
一匹の昆虫が空を飛び、今しがた開花した一本の花。
全てが、才能あふれる一筆書きで、
それらの光景を息づかせ、彩色するのは精神のみ。
池の上にかかる橋は、モネの庭の風景だけではなく、歌川広重の浮世絵を思わせる。


しかし、彩色をするのは精神だけということは、目の前にある絵画はむしろ水墨画のように色彩のないものを日本的としている。

無色に色彩を見出し、極小に宇宙を感じる。こうした日本的な美の精神を、ヴェルレーヌは感じ取っていたのかもしれない。
軽みの美
Si je blasonnais cet art qui m’est ingrat
Et cher par instants, comme le fit Racine
Formant son écu d’un cygne et non d’un rat,
Je prendrais l’oiseau léger, laissant le lourd crapaud dans sa piscine.
私がこの芸術の紋章を作るとしたら、私には扱いにくく、
時には愛しく感じられる芸術を、ラシーヌがしたように、
ネズミではなく、白鳥の紋章を作ることを考え、
選ぶのは、軽い鳥。重い蛙は池に残しておく。
最終詩節でヴェルレーヌは、日本の美の2つの側面を再び取り上げ、重さではなく、軽みへの愛好を宣言する。

その比較のために、彼はラシーヌの紋章を例に取る。
ラシーヌとは、17世紀の劇作家ジャン・ラシーヌ。
ラシーヌ家の家紋には、本来、ネズミと白鳥が描かれていた。
ラシーヌの代になり、彼はネズミをやめ、白鳥とライオンにしたという。
http://toutsurlheraldique.blogspot.com/2012/02/jean-racine-dramaturge-francais.html

ヴェルレーヌは、ラシーヌに倣って、日本の芸術の二つのイメージである蛙と鳥から、軽さを象徴する鳥だけを選ぶ。
このことは、ヴェルレーヌが、疎から生まれる軽みを感じ取り、その軽みを好んだことを示している。
クローデルがヴェルレーヌの詩を日本的と感知したのも、この軽みのためだろう。
フランスと日本の芸術の違いについて、彼は次のように述べている。
Les Japonais apportent dans la poésie comme dans l’art une idée très différente de la nôtre. La nôtre est de tout dire, de tout exprimer. […]
Au Japon au contraire sur la page, écrite ou dessinée, la part la plus importante est toujours laissée au vide. (« Une promenade à travers la littérature japonaise, Œp, p. 1162)
日本人達は、詩や絵画に私たちとは全く違う概念をもたらす。私たちの考えは、全てを言葉にし、全てを表現することである。(中略)
日本では、逆に、書物や絵画の中で、最も重要な部分は無(le vide)に残される。
軽さの本質は、「無」にあると考えることができる。
ヴェルレーヌは、その本質を、「カエルのように重く、鳥のように軽い」の中で、言い当てているといえる。
「ヴェルレーヌ 「カエルのように重く、鳥のように軽い」 Verlaine « Lourd comme un crapaud léger comme un oiseau » 日本の芸術を見るヴェルレーヌの目」への2件のフィードバック