Carpe diem(カルペ・ディエム)の実践

Carpe diemを実践する。
こう書くと、常に今を全力で生きることが求められ、疲れてしまうように思われるかもしれない。
しかし、思わず何かに集中して我を忘れている時は、誰にもあるだろう。
それは、何も意識せずにCarpe diemを実践している時だといえる。

そうした例を、いくつかのレベルでみていこう。

(1)藤井聡太棋聖の姿勢
(2)美の体験
(3)映画
(4)日常生活— 習慣化

(1)藤井聡太棋聖

藤井聡太棋聖が将棋に向かう姿勢は、まさにCarpe diemを思わせる。
みんなは、29連勝、最年少記録、タイトル等々、色々なことを話題にする。
しかし、藤井棋聖は、将棋盤の前に座り、一局の将棋で、常に最善手を指すことだけを考えているように見える。

それを最もよく表すエピソードは、「もし神様がいたら何をお願いしますか?」という質問をされた時の彼の回答。
他の棋士は、「全ての対局を勝てますように。」と答えた。ごく自然にみんなが考えることだろう。
他方、藤井棋聖は、「せっかく神様がいるのなら1局、お手合わせをお願いしたい。」と答えたという。
神様と将棋を指したら負けることはわかっている。しかし、勝ち負けとか、タイトルとか、そうしたことを考えるのではなく、最高の相手と将棋を指し、将棋を究めたいと思っているからこそ、一局指したいと願ったに違いない。

彼は、結果を考える以上に、目の前にある将棋盤で行われている一局の将棋のことだけを考えているのだろう。
Carpe diemの実践例として、これほど見事な例はないように思われる。

(2)美の体験

Carpe diemの姿勢は、美を感じる時にも大切だといえる。

小林秀雄は「美を求める心」の中で、次のように書いている。

a.
極端に言えば、絵や音楽を解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。先ず、何をおいても、見ることです。聴くことです。

この一節は、絵を前にしたとき、音楽を聴くときの心得として、carpe diemを実践するように説いている。

美術館で絵画の前に行くと、画家の名前と絵の題名を見る。次にSelfieを撮る。そして、次の絵へと向かう。絵そのものを見ている時間はほとんどない。
そんな人たちの姿をよく見掛ける。

それに比べると、音楽の場合には、コンサートにしろ、スマートフォンで聴くにしろ、音を聴く傾向にある。その点で、音楽の方が、今を生きることは容易かもしれない。

ただし、小林秀雄は、この導入文から、実は見ること、聴くことが難しいという議論に進んで行く。

b.
諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。(中略)菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かつて見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。

一輪の花を見て、それが菫だと分かったとたん、花を見るのではなく、菫を見てしまう。
それはどういうことだろう。

一輪の花を目にしたとき、本当は花だとも認識せず、形や色、取り囲む他の草や小川などの中で、「何か」を見ている。
その時には、見ている人と見られる対象は「今」という時を共有し、ただただ「そのもの」を見ているだけの状態にある。つまり、Carpe diemの状態。

その後、あるいは見た瞬間、見えている対象が花だとか、菫だとか分かったとする。その時、「何か」は花とか菫という概念で捉えれたことになる。
概念とは一般化であり、そうすることで、「今」という時は不要になる。
小林が、「言葉の邪魔」という表現で言おうとしているのは、そうした概念化であり、彼によれば、ここにある一本の花を菫と一般化した途端に、一般的な菫の美は頭に浮かんでも、「今ここにしかないこの花の美」を見なくなってしまう。

花を見続けていれば、花は思ってもみない美、つまり今しかない美を明かすという言葉からは、carpe diemの姿勢が、美を体験するための秘訣だということがわかってくる。

(3)映画

映画を見るとき、多くの場合carpe diemしている。
しかし、映画について語る時には、今見たばかりの映画そのものを語ることが大変に難しく、映画にまつわるネタを話すことが多くなってしまう。

ジブリ・アニメはいつまでも大変に人気があるが、それぞれの作品そのものを語るコメントはほとんどない。
例えば、エコロジーについて語ったり、都市伝説として何らかのエピソードを取り上げたり、あるいは自分の子供時代の体験を語り出すきっかけとしたりし・・・。
スクリーンに映し出されるアニメ自体について語られることはほとんどない。

ビリー・ワイルダー監督の「情婦(Witness for the Prosecution)」という大変に面白い映画があるが、多くの場合、あらすじの説明が終わると、その映画にまつわるエピソードが語られる。
最初の場面で、弁護士と口うるさい付き添い看護婦が軽妙なやり取りをするが、「実は」、二人の俳優は夫婦だった。「だから」、このやり取りが絶妙だ。
主演のマレーネ・ディートリヒは、この映画を演じた時、「実際には」56歳だった。その彼女が、100万ドルの保険を掛けたとされる脚線美を披露している。等々。

私たちは、映画を見て楽しんでいる、つまり今を生きている(carpe diem)のだが、その体験を語ることはとても難しい。

(4)日常生活— 習慣化

日常生活の中で、何らかのレベルアップを図ろうとするとき、常に今あるものに全力を注ぎ、carpe diemの姿勢を貫くことは難しいと思われるかもしれない。
しかし、何かをしていて、ふと夢中になり、我を忘れていることは、普通に体験することだ。

そうした状態は、意識的に努力して実現できるものではない。知らないうちに夢中になっているだけだ。
最初に挙げた藤井翔太棋聖にしても、努力というよりも、将棋が好きで熱中してきた結果が、今の成果につながっているのだろう。(もちろん、彼の天才もある。しかし、大切なことは盤上の将棋に熱中することだ。)

私たちの場合には、逆接的に思われるかもしれないが、「習慣化」することがcarpe diemを毎日反復する秘訣になる。

あることをするとき、毎日、同じ時間に同じことをする。その規則性ができあがると、自然に体が動き、頭もそちらの方向に働く。
何も考えず、自然に行動している自分がいる。

毎日同じ時間に同じことをするのは、退屈だと思う人もいる。
しかし、「同じ」ことは決してない。
小林秀雄の言葉を使えば、「同じ」という言葉によって、「今・ここ」の一回性が見失われてしまう。
一回一回を体験すれば、それぞれが毎回違っていることがわかる。

習慣化して規則性を作り出すメリットは、楽なこと。自然に体と頭が動くので、努力が不要になる。
努力は強制につながり、時には苦痛になる。反対に、習慣化は自然なので、苦痛にはならない。

Carpe diemを意識することで、世界の美を体感することもできるし、自分を豊かにすることもできる。
時には、ロンサールのバラを思い出すのもいいだろう。

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