ボードレール ドラクロワ 絵画論 1846年のサロン

「1846年のサロン」の中で、ボードレールはドラクロワについて論じながら、彼自身の絵画論の全体像を提示した。

その絵画論は、ドラクロワの絵画を理解するために有益であるだけではなく、ボードレールの詩を理解する上でも重要な指針が含まれている。

1)芸術についての考え方:インスピレーションか技術か
2)作品の構想と実現:自然(対象)との関係
3)作品の効果

ボードレールは、ドラクロワの絵画に基づきながら、以上の3点について論じていく。

1)芸術に偶然はない

古代ギリシアの時代から、芸術はインスピレーションによるのか(プラトン)、人間が技術を使って作り上げるのか(アリストレレス)という、二つの考え方が拮抗してきた。

A. 芸術は知的構築物

ボードレールの次の言葉は、芸術とは知的な構築物であるべき、という考えを示している。

Il n’y a pas de hasard dans l’art, (…).
芸術に偶然はない。

偶然というのは、インスピレーションによって神から与えられるもの。人間の力を超え、人間にはコントロールできない。

Un tableau est une machine dont tous les systèmes sont intelligibles pour un œil exercé ; où tout a sa raison d’être, si le tableau est bon ; où un ton est toujours destiné à en faire valoir un autre ; où une faute occasionnelle de dessin est quelquefois nécessaire pour ne pas sacrifier quelque chose de plus important.

1枚の絵画は一つの機械であり、熟練した目には、全ての組織が理解可能だ。いい絵であれば、そこに描かれた全てに存在理由がある。一つのトーンは、別のトーンを価値付けるように定められている。デッサンに何らかの欠点があるとしても、それは、もっと重要な何かしらを犠牲にしないために必要なこともあるのだ。

優れた芸術作品は、全ての要素が考え抜かれ、精密に構成されている必要がある。欠点と思われる部分にもその理由があり、おざなりにされたものではない。作品全体が、知的に構成されたものでなければならない。

この考え方は、数年後に、エドガー・ポーの芸術論に基づき、さらに明確に表現されることになる。

B. 芸術家は、技術屋ではなく創造者。

芸術が知的構築物だとしても、技術を洗練させることによって優れた作品ができるわけではない。
もっとも重要なのは、芸術家の内的世界で行われる構想。

技術と構想の違いを明らかにするために、ボードレールは、ドラクロワとヴィクトル・ユゴーを対比させる。

ヴィクトル・ユゴーはロマン主義文学の代表者。絵画の世界では、ドラクロワをロマン主義の第一人者と見なした。
ボードレールは、フランス第一の詩人のテクニックは認めても、ドラクロワのような創造性は否定する。

M. Victor Hugo, (…] est un ouvrier beaucoup plus adroit qu’inventif, un travailleur bien plus correct que créateur. Delacroix est quelquefois maladroit, mais essentiellement créateur. 

ヴィクトル・ユゴーは、総意に富むというよりも巧みさを多く持つ職人であり、創造的であるより正確さを持つ労働者である。ドラクロワは、時には不器用かもしれないが、本質的に創造者である。

では、ユゴーとドラクロワの違いはどこから来るのか?

L’un commence par le détail, l’autre par l’intelligence intime du sujet ; d’où il arrive que celui-ci n’en prend que la peau, et que l’autre en arrache les entrailles. Trop matériel, trop attentif aux superficies de la nature, M. Victor Hugo est devenu un peintre en poésie ; Delacroix, toujours respectueux de son idéal, est souvent, à son insu, un poëte en peinture.

一人(ユゴー)は、細部から始める。もう一人(ドラクロワ)は、主題を内的に理解することから始める。その結果、一方は皮膚しか捕らえないが、他方は内臓を引きむしる。あまりにも物質的で、あまりにも自然の表面的な部分にだけ注意を向けるヴィクトル・ユゴーは、詩における画家になった。ドラクロワは、つねに彼の理想を尊重するので、自分でも知らないうちに、絵画における詩人である。

ユゴーは自然を美しく描くが、その繊細で多様な描写のために、自然の物質的な側面しか描なないと批判されたことがある。
ボードレールはその批判を受け止め、ユゴーは物質的な側面に感心を持つと見なした。

それに対して、ドラクロワは自然の表面的な側面を精密に写実するのではなく、自分の理想を尊重して描くという。
普通に考えると、自然を無視して、画家の中に予め存在する理想を描くことだということになってしまう。
しかし、ボードレールは、描く対象を見ずに、記憶だけで描く画法には反対する。
では、芸術家の内的な理想と外に広がる自然の関係をどのように考えればいいのだろうか。

ボードレールは「超自然主義(surnaturalisme)」という概念を用いて、その関係を説明する。
それはドイツ由来の言葉であり、彼はまず、ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネの「芸術に関して、私は超自然主義者(surnaturaliste)である。」という言葉を引用する。

古典的な美学の基本は、「自然の模倣(imitation de la nature)」だった。
しかし、自然の中に全ての型を見つけることはできない。しかも、もっとも素晴らしい型が明かされるのは、「自分の魂の中」なのだ。
そのことがよくわかるのは、最も原初的な芸術である建築において。
素晴らしい建築物の型は、出来上がった後で探してみると、森の木々の葉や、岩の洞窟の中で見出されるかもしれない。
しかし、その型は、最初に人間の魂の中にあったのであり、外の自然の中にあったものではない。
自然の前に、自然を超えたものが魂の中にある。
言い換えると、自然でありながら、自然を超えたもの(超自然)。それが魂の中にあり、その型を表現するのが創造ということになる。

このハイネの説から、ボードレールにとって、創造者とは、自然を模倣する者ではなく、魂の中にある超自然の型を再生する者だということが理解できる。

以上をまとめると、芸術とは知的構築物であること。
そこで重視されるものは物質的な表現(ユゴ的)ではなく、人間の魂の中にある超自然(le surnaturel)。(次ページに続く)

2)構想と実現

実際の作品を制作する場面で、魂の中の超自然と外部の自然はどのような関係にあるのだろうか。

A. 自然は辞書

ボードレールは、自然に関して、次のように言う。

Pour E. Delacroix, la nature est un vaste dictionnaire dont il roule et consulte les feuilles avec un œil sûr et profond ;
ドラクロワにとって、自然とは巨大な辞書である。彼は、その1枚1枚を、確かで深みのある眼差しで、展開させ、参照する。

「自然とは辞書である。」
これは、ボードレールの芸術観にとって、決定的な重要性を持つ概念である。

辞書をそのまま「再現」しても、辞書でしかない。
詩人は、辞書に収録された言葉を選択し、組み合わせ、詩を作り出す。
同様に、画家が「自然を模倣」し、再現しても、絵画にはならない。
画家は、自然を素材とし、素材を選び再構成することで、1枚の絵を作り出す。

画家は、自然という素材を確かな目で観察し、自然の模倣物ではなく、素材を組み合わせた知的構築物として、1枚の絵を創造する。

B. 構築物の根源 思い出と超自然主義

et cette peinture, qui procède surtout du souvenir, parle surtout au souvenir.
すると、とりわけ思い出に由来するこうした絵画は、とりわけ思い出に語り掛ける。

この一節は、創造と受容を繋ぎ、その本質が「思い出(souvenir)」であることを明かしている。

ボードレールがここで言及する「思い出」とは、現実の出来事の思い出ではなく、魂の中の型。
その型がなぜ思い出かと言えば、これまで見てきた様々な傑作が積み重なり、その度に変化をしながら、出来上がったものだからである。

思い出に由来する絵画とは、思い出として形成された超自然の型をベースにして、外の自然を考察し、分析し、分類し、選択し、それらの素材を組み立てる原理として働き、作品が作り上げられることを意味している。

そうして作り上げられた絵画は、今度は、鑑賞者に強い印象を与え、これまで蓄積された鑑賞者の中の超自然の型に働きかけ、変形させる。
それが、思い出に語り掛ける、ということを意味する。

画家の創作行為の側に戻れば、ボードレールは、次の様にも述べている。
建築の型は芸術家の魂の中にある型に由来し、後から探すと、同じ型が自然の中に見つかる。ドラクロワはそうした原則から出発する。

Delacroix part donc de ce principe, qu’un tableau doit avant tout reproduire la pensée intime de l’artiste, qui domine le modèle, comme le créateur la création ;

ドラクロワは、この原則から出発する。つまり、1枚の絵画は、何よりも先に、芸術家の内的な思考を再創造しなければならない。その思考がモデルを支配しているのだ。ちょうど、創造者が創造物を支配するように。

芸術家の内的な思考とは、魂の中の型であり、思い出でもある。
それが、自然という素材を吟味し、選択し、結合する際の原理として働く。つまり、モデルを支配する。

内と外は無関係に存在しているのではない。
魂の内部に宿る型が原型となり、外にある素材を選択し、結合する。一つの型が優位になれば、自然の中のそれに相応しくない部分は選択されず、制作物には含まれない。

L’exercice d’une dominante n’a légitimement lieu qu’au détriment du reste. Un goût excessif nécessite les sacrifices, et les chefs-d’œuvre ne sont jamais que des extraits divers de la nature. C’est pourquoi il faut subir les conséquences d’une grande passion, quelle qu’elle soit, accepter la fatalité d’un talent, et ne pas marchander avec le génie. 

一つの主調が正当に実行されるとき、残りは犠牲になる。一つの過激な好みは、幾つもの犠牲を必要とする。傑作というのは、自然から様々なものを抽出したものに過ぎない。従って、一つの大きな情熱がどんなものであろうど、その影響を受けなければならないし、一つの才能の宿命を受け入れなければならない。天才と取引してはならない。

古典主義的な美学の基本となる、「自然の模倣」。ボードレールはそれとは全く違う美学を展開する。
傑作とは、自然から抽出したものであり、その形には多様性がある(extraits divers de la nature)。
その抽出の原則となるのが、魂の中の超自然と見なされる原型であり、別の言葉では、「思い出(souvenir)」と呼ばれたり、「気質(tempérament)」と呼ばれたりする。

C. 制作 手のスピード 線 vs 色

実際の制作に当たっては、「構想」を、物質的な手段によって実現する作業が必要となる。活動は、頭から手に移る。

et de ce principe il en sort un second qui semble le contredire à première vue, — à savoir, qu’il faut être très-soigneux des moyens matériels d’exécution. (…) il est important que la main rencontre, quand elle se met à la besogne, le moins d’obstacles possible, et accomplisse avec une rapidité servile les ordres divins du cerveau : autrement l’idéal s’envole.

この第1の原則から、第2の原則が生まれる。それは、一見すると、最初の原則と矛盾するように見える。— つまり、構想を実現するための物質的な方法に、細心の注意を払う必要がある。(中略)大切なことは、手が仕事を始めるとき、できるだけ障害物にぶつからないようにし、脳の神聖な命令を、献身的な早さで実行しなければならない。そうしないと、理想が飛び去ってしまう。

ここで最も重要なことは、「早さ(rapidité)」。
構想した内容を絵画として表現する手の動きが、早いことが、能の命令を献身的に(servile)実行することになると、ボードレールは主張する。

絵画を描くスピードを通して、ボードレールは何を言おうとしているのか?

それを知るためには、絵画における「線」と「色」の関係について知る必要がある。
古典主義絵画は、線によるデッサンを基本とし、細部まで事物の形を再現することが前提とされた。理性を働かせ、細密に観察し、正確に形を描き出すことが重要であり、色は線によって限定された空間を埋める役割を果たすと考えられた。
その代表は、フランス17世紀の画家、ニコラ・プッサン。
こうした絵画では、全ての形体を細部まで正確に描き、彩色するために、時間がかかる。

Nicolas Poussin, Et in Arcadia ego

それに対して、色を中心に考える画家たちもいた。代表は17世紀ベルギーの画家、ルーベンス。

Rubens, Le Débarquement de la reine à Marseille

ドラクロワも、色を中心にした画家を代表する一人。
ボードレールは、このように言う。

Au point de vue de Delacroix, la ligne n’est pas ; (…) pour les coloristes, qui veulent imiter les palpitations éternelles de la nature, les lignes ne sont jamais, comme dans l’arc-en-ciel, que la fusion intime de deux couleurs.

ドラクロワの観点から見ると、線は存在しない。(中略)自然の永遠の鼓動を真似ることを望む色彩画家にとって、線は、虹の中と同じように、二つの色の内的な融合に他ならないからだ。

この考え方によれば、線は二つの色の隣り合った境にすぎない。
従って、色を中心にして描くと、物の輪郭ははっきりせず、線だと見えるものは明確ではなく、微かな印象しか与えない。
そのために、線中心で描かれた不動の場面とは反対に、動きや雰囲気を表現することになる。
こうした絵画では、色を画布の上に大胆に置くため、画筆が素早く動かされる。スピード感が要求されるのだ。

しかも、こうした絵画は、外的な自然を忠実に再現するのではなく、魂の中にある原型を映し出すことを可能にする。
ボードレールにとって、ドラクロワは、真っ直ぐな線の体系によってオリジナリティーが侵略されない、彼等の時代では唯一の画家なのだ。

早さ、色彩、雰囲気の表現等は、後の時代の印象派の画家たちに直結する問題であり、彼等がドラクロワに何を負っているのかが、ボードレールによってすでに示されている。(次ページに続く)

3)効果 普遍性

ボードレールは、絵画が鑑賞者に対して及ぼす効果についても考察対象に含めている。

A 素早い手の動き 細部 vs 全体

「思い出に由来する絵画が、思い出に語り掛ける。」とボードレールは言う。
思い出に語り掛けるとは、絵画が鑑賞者に及ぼす効果である。

ボードレールは、その効果が、画家の描き方と関係すると考える。

L’effet produit sur l’âme du spectateur est analogue aux moyens de l’artiste. Un tableau de Delacroix, Dante et Virgile, par exemple, laisse toujours une impression profonde, dont l’intensité s’accroît par la distance. Sacrifiant sans cesse le détail à l’ensemble, et craignant d’affaiblir la vitalité de sa pensée par la fatigue d’une exécution plus nette et plus calligraphique, il jouit pleinement d’une originalité insaisissable, qui est l’intimité du sujet.

鑑賞者の魂の上に作り出す効果は、芸術家が用いる方法と類似している。ドラクロワの1枚の絵画、例えば、「地獄のダンテとヴェルギリウス」は、常に深い印象を残す。その印象の強さは、絵画を見る距離が遠くなるに従って大きくなる。全体のために細部を絶えず犠牲にし、正確でくっきりした仕上げによって生き生きとした思考の動きを弱めないようにすることで、ドラクロワは感知しがたいオリジナリティーを十分に発揮する。そのオリジナリティーが、絵のテーマとの内的な親密性である。

Eugène Delacroix, Dante et Virgile aux enfers

この絵画を、ドラクロワの好敵手であり、伝統的な絵画の代表者、アングルの「聖サンフォリアンの殉教」と比べて見れば、両者の違いが目に飛び込んで来る。

Dominique Ingres, Martyre de Saint Symphorien

アングルの作品は、線を中心にして、人物や物が正確に細部まで書き込まれ、色彩は輪郭線の中にきちんと収められている。そのために、人々の身振りは静止し、この場面の最高の瞬間が永遠に留められている。

それに対して、ドラクロワの作品では、暗鬱な色彩が踊る一方で、肉体の躍動感が強く感じられる。小舟で立ちつくす二人の文人、船の周りで苦しむ人々、彼等のいる地獄の河の雰囲気が、見る者に強い印象を与える。

ボードレールは、色に関する考察の章で、絵画を遠くから眺めると、そこに調和があるかどうかが分かると記していた。

La bonne manière de savoir si un tableau est mélodieux est de le regarder d’assez loin pour n’en comprendre ni le sujet si les lignes. S’il est mélodieux, il a déjà un sens, et il a déjà pris sa place dans le répertoire des souvenirs.

1枚の絵画が美しい調べを奏でているかどうか知る最もよい方法は、それをある程度遠くから眺め、主題や線を理解しようとしないことだ。もしメロディーが美しく奏でられていれば、すでに一つの意味を持ち、記憶のリストの中に場所を占めたことになる。

絵画から距離を取り、遠くから見ること。
それは、色を中心にし、動きと雰囲気を表現する描き方と対応する。
全体的な雰囲気が、画家の魂の中にある超自然な型(思い出)を見る者に伝え、その印象が見る者の思い出に刻まれる。
画家の思い出と鑑賞者の思い出が調音され、ハーモニーが生まれる。

B. 普遍性

こうした超自然に基づく共鳴が、ここでは、「普遍性(universalité)」という用語でより詳しく説明される。

Delacroix est universel.

ドラクロワは普遍的である。

その理由を、ボードレールは、パリのマレ地区にある教会(Eglise Saint-Denys-du-Saint-Sacrement)の壁を飾る「ピエタ」を例に説明する。

Eugène Delacroix, La Pietà

ピエタとは、十字から降ろされたキリストを胸に抱くマリアの姿を描いた作品。
ドラクロワのこの絵では、横たわるキリストと、悲しみにくれるマリアの二人だけではなく、何人かの人物が描かれている。彼等は全て、キリストの死を前にして、嘆き、悲しみ、悲歎にくれている。

とりわけ、絵画の中心に浮かび上がるマリアは、両手を水平に広げたまま、我が子を失った母の悲しみをあまりの悲しみのために、気を失っているかのように見える。
彼女の膝の上に横たわるキリストの左腕はだらりと下がり、顔は後ろに傾き、十字架上での苦痛の激しさや、磔刑を行った人間たちに対する深い悲しみが、体全体から発散している。

Le groupe est échelonné et disposé tout entier sur un fond d’un vert sombre et uniforme, qui ressemble autant à des amas de rochers qu’à une mer bouleversée par l’orage. Ce fond est d’une simplicité fantastique, et E. Delacroix a sans doute, comme Michel-Ange, supprimé l’accessoire pour ne pas nuire à la clarté de son idée. Ce chef-d’œuvre laisse dans l’esprit un sillon profond de mélancolie. 

人物のグループが間隔を置いて、全体的に配置されている後ろには、暗く均質な緑色の背景。積み重ねられた岩の塊や、嵐で激しく波打つ海に似ている。その背景は、幻想的といっていいほどのシンプルさで描かれている。ドラクロワは、ミケランジェロと同じように、付属的な部分を省き、彼の考えの明晰さを損なわないようにしたのだ。この傑作は、見る者の精神に、メランコリーの深い溝を残す。

近くから見れば、一人一人の人物の姿が見え、それぞれが苦悩と悲しみを表現していることがわかる。
その意味では、キリスト教の教義や伝統に従い、学問的な考証に裏付けられた部分があるかもしれない。
ボードレールによれば、コンテストに出品される宗教画や、学者や神秘主義者や信者たちに受け入れられる絵は、冷たく、空虚なものでしかない。それは、宗教を学問的な側面から捉え、宗教の象徴性や過去の伝統に依拠することを前提としているからである。

それに対して、ドラクロワのピエタは、絶望の重さに耐えきれず、悲歎にくれる人々の感情を、見事に伝えている。
それは、学問的な考証などとは関係のない、悲しみや苦悩にとらわれた人間誰もが感じうるメランコリーの感情という意味で、「普遍的」なものだということができる。
そして、そうしたメランコリーの雰囲気は、絵を遠くから離れてみた時にはっきりと感じられる。
なぜなら、雰囲気は、細部の正確さではなく、全体的な色調を通してより明確に伝えられるからである。

具体的に言えば、人物全体を包み込む背景の、暗く均質な緑色。その単調さ。
ボードレールによれば、それがドラクロワの魂の中にある原型(メランコリー)であり、それが絵画全体の雰囲気を通して鑑賞者の魂に伝えられる。

ピエタが必ずしも苦悩やメランコリーを表現するわけではないことを、ミケランジェロのピエタで確認しておこう。

Michelangelo, Pietà

バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でこの像を前にすれば、このピエタからは、悲しみではなく、静謐、静けさ、気高さといった、人間の聖性が発散していることがすぐに感じられる。

同じピエタという形象を象ったとしても、ミケランジェロとドラクロワでは、魂の中に宿る超自然な型が異なるために、見る者の思い出に異なる跡を残すことになる。

Fantin Latour, Hommage à Delacroix

シャルル・ボードレールは、1846年のサロン批評を行うにあたり、従来のように個別の画家たちの作品を論じるのではなく、ボードレール自身の美学を展開しながら、画家を論じる方法を採用した。
その中で、ドラクロワを扱った章は、画家について論じながら、ボードレール美学の全体像を提示している。

それはまた、彼の韻文詩や散文詩の美学とも密接に関係し、ボードレール芸術全体を見渡す上での礎石としての役割も果たしている。

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