ボードレールの「1859年のサロン」は、想像力を中心に据えた絵画論。
その中で、「1846年のサロン」で提示した絵画論(自然を素材として、画家の内部の超自然(surnaturel)なイメージに基づいた創造物を制作する)という、最も基本的な概念を変更することはない。
しかし、今回は、「想像力(imagination)」を人間の「諸能力の女王(la reine des facultés)」と定義し、想像力との関係から、描かれる対象、画家、画法、作品の関係を考察する。
そして、創造の目的が、最終的に、新しい世界(un monde nouveau)、新しさの感覚(sensation du neuf)を生み出すことであるとする。
1846年の芸術論は、ロマン主義とは何かとい問いかけに対するボードレールなりの回答であった。それに対して、1859年の芸術論は、現代性(モデルニテ)と呼ばれる新しい芸術観の出発点となっている。
アンチ・レアリスム
1846年と1859年の間に起こった絵画史上の大きな出来事は、1849年以降に起こったレアリスム絵画の出現だった。
その代表は、ギュスターブ・クールベの「オルナンの埋葬」等。



単純化して言えば、クールベは、現実のありふれた事物を美化することなく、あるがままに描いた。
当時発明されたばかりの写真機の原型ダゲレオタイプから作られた動詞を使えば、現実をダゲレオタイプによって写し取ること(daguerréotyper)。
そうすれば、モデルとそっくりの映像ができあがる。
現実をありのままに描き出す画法は、描く対象を美化し、理想の美に近づこうとする伝統的な美学に対抗する新しい美学として、19世紀半ばに台頭した。
1855年のサロンに出典を拒否されたクールベは、あえて展示会場の横に「レアリスムの館(Pavillon du réalisme)」を設置し、古典的な美のヴェールを剥ぎ取った作品を展示した。
ボードレールは、古典主義にも、レアリスムにも賛同しない。
1)古典主義に対しては、1846年のサロンの最終章の題名に表れた「英雄化」という言葉から、彼の態度を知ることができる。
英雄化、つまり理想化は、芸術にとって不可欠である。その点では、古典主義的だといえる。
その一方で、描く対象は、古典主義的な理想の対象ではなく、自分たちが生きる時代の、現実の事物であることが必要。従って、時代性が作品に反映する。
その点では、伝統的な美学とは異なっている。
2)1859年の絵画論では、とりわけレアリスム絵画を標的に据え、自らの芸術観との違いを強調した。
1857年、ボードレールの『悪の華』と、ギュスターブ・フロベールの『ボヴァリー夫人』が、レアリスムだとして裁判にかけられた。従って、ボードレールにとって、自己の芸術観とレアリスムを区別することは、とりわけ重要な意味をもっていた。
そこで、「1859年のサロン」では、想像力論を展開する前に、写真(photographie)に関する考察を行い、写真のリアルな再現と芸術作品とを区別した。
レアリスムは、「copier la nature(自然をコピーする)」と主張する。その考え方に従うと、画家は写真機となり、絵画は写真と同じものになる。
こうした芸術観は、1846年にも行われていた。
https://bohemegalante.com/2020/08/26/baudelaire-delacroix-salon-1846/2/
1859年でも、「自然は辞書に他ならならず( La nature n’est qu’un dictionnaire)」、「辞書をコピーする(copier le dictionnaire)」ことは、「平凡さの欠陥(vice de la banalité)」である、と批判する。
なぜなら、そこには芸術家の人格が関与せず、芸術家がカメラと化しているからである。
(後の時代に写真が芸術と見なされるようになってからであれば、写真にも撮影者の主観が含まれるという観点が導入されるようになる。しかし、写真技術が生まれた時代には、写真機は機械であり、主観性が入り込む余地はないと考えられた。)
では、なぜ自然(現実)をコピーすることが問題なのか?
まず見えてくるのは、現実をそのまま再現するとしたら、常に現実が本物のであり、そのコピーは代用品(représentation)でしかないという問題である。
しかし、それ以上にボードレールが問題とするのは、現実そのものに関する問いかけである。
1)外的な自然(la nature extérieure)が確かに存在するのかどうか。
2)自然全体(toute la nature)、自然の中に含まれる全て(tout ce qui est contenu dans la nature)を知っているのかどうか。
この2つの問いが、ボードレールの芸術観の根底に横たわっている。
その意味するところは、自然あるいは現実とは何か?という問い。
より具体的に言えば、私たちが五感で捉える現象的な現実世界が、現実の全てなのか? それとも、現象の超えた何か、例えば精神世界があり、その二つの次元を含めて現実なのではないか?
絵画であれば、物の形と色を忠実に再現すれば、忠実な再現となるのかどうか?
ボードレールの視点からすれば、「自然をコピーする」ことを目指すレアリスムの画家たちは、視覚が捉える現象を現実と見なす実証主義者だということになる。
それに対して、ボードレールは、別の現実意識を持ち、そのために最も重要な働きをするのが想像力であると考える。
想像力の働き
ボードレールは、想像力に関して、二つの大きな働きを定義する。
Elle est l’analyse, elle est la synthèse […] .
想像力は分析である。それは総合である。
A. 分析(analyse)
想像力の「分析(analyse)」とは何を意味するのだろう?
その回答は次の一節を読むと理解できる。
C’est l’imagination qui a enseigné à l’homme le sens moral de la couleur, du contour, du son et du parfum. Elle a créé, au commencement du monde, l’analogie et la métaphore.
想像力こそが、人間に、色彩、輪郭、音、香りの精神的な意味を教えた。それは、世界の始まりにおいて、類似と隠喩を創造した。
世界は、色や形(視覚)、音(聴覚)、香り(臭覚)等、五感によって捉えられる。それは、人間の肉体的な側面を通した現実である。
想像力は、それらの「精神的な意味(sens moral)」を人間に伝える。
moral という形容詞は、ここでは、道徳的という意味ではなく、魂の領域に属していることを意味している。(Moral : Qui, dans l’être humain, est du ressort de l’âme, par opposition à ce qui est du ressort du physique. Littré.)
世界を構成する全てのものには、物理的、肉体的、外的な現実に付随して、精神的、内的な側面があり、想像力は五感が提供する感覚に関して、「精神的、内的意味」を分析する能力だということになる。
例えば、色の精神的な意味について、ボードレールは次の様に説明する。
Il y a évidemment un ton particulier attribué à une partie quelconque du tableau qui devient clef et qui gouverne les autres. Tout le monde sait que le jaune, l’orangé, le rouge, inspirent et représentent des idées de joie, de richesse, de gloire et d’amour […].
明らかに、一つの特別な色調があり、その絵のどこかの部分に配置されている。その色調が鍵となり、他の色調を束ねている。誰でも知っていることだが、黄色、オレンジ、赤は、喜び、豊富さ、栄光、愛の観念を思わせ、それらの表現となる。
このように、視覚で捉える色が、喜びといった感情や、より抽象的な栄光や愛とい「精神的な意味(sens moral)」を持つ。
さらに想像力は、「類似(analogie)」と「隠喩(métaphore)」を作り出したと、ボードレールは付け加える。
analogieは物同士が似ていること、métaphoreは、そこにある物がない物を連想させること。そのように考えると、類似と隠喩は、物と物の関係を作り出すという点では一致していることがわかる。
そして、想像力は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚等の感覚を連動させることで、創造的な精神作用を活性化させる。
ボードレールの世界では、複数の感覚の連動する。
例えば、色と香り、香りと音が関連することで、コレスポンダンス(万物照応)が生み出される。
逆に言えば、コレスポンダンスする世界における「類似」と「隠喩」を分析する力が、想像力だということになる。
B. 総合(synthèse)
分析の後には、「総合(synthèse)」が来る。
Elle décompose toute la création, et, avec les matériaux amassés et disposés suivant des règles dont on ne peut trouver l’origine que dans le plus profond de l’âme, elle crée un monde nouveau, elle produit la sensation du neuf.
想像力は創造物全体を分解する。そして、規則に従って集められ、配置された材料を使い、その規則の源は魂の最も深いところでしか見つけることができないのだが、それらの材料を使い、新しい世界を創造する。想像力は新しいという感覚を作り出す。
世界を分析し、分解した後、今度は、そこでばらばらにされた材料を使い、それらを総合する。
画家はリンゴを見て、色や形、そしてそれらの精神的な意味を分析し、画布の上にリンゴを描く。
その作業はある規則に従って行われるが、その規則の原則は、画家の「魂の最深部(le plus profond de l’âme)」にある。つまり、総合する際に最も重要な鍵は、画家の魂にあることになる。
そのために、一つのものを描いたとしても、その絵は、単なるコピーではなく、新しいものになる。
ボードレールは、そのことを強調するために、「新しい世界(un monde nouveau)」を作ると言うだけではなく、「新しいという感覚(sensation du neuf)」を創造するのだと反復する。
伝統的な絵画も、レアリスム絵画も、「自然を模倣する(imiter la nature, copier la nature)」の原則に立ち、モデルを再現することが目的とされた。
それに対して、ボードレールは、再現ではなく、新しいものの創造に力点を置く。
ただし、モデルなしで何かを生み出すのというのではない。モデルを前提にした上で、それを分析し、分解した材料を総合する。
新しさは、創造者の魂が関与することによって生み出される。
こうした創造の過程は、「1846年のサロン」においても、すでに展開されていた。
その際には、辞書の比喩が使われ、辞書をそのまま再現しても芸術作品にはならない。辞書の言葉を用いて、創造者は自分の内部にある超自然な(surnaturel)なイメージに従い言葉を並び替え、作品を制作する。
つまり、分解と総合という点では、同様の考えに基づいていた。
1859年のボードレールが13年前とは違う点は、「新しさ」を強調することである。モデルを再現するのではなく、モデルから素材を取り出して制作した作品は、モデルから独立し、新しいものとなり、新しいという感覚を生み出す。
この意識の違いは、ロマン主義を含めたそれまでの芸術観と、ボードレールから始まる新しい時代の芸術観の根本的な違いである
ボードレールの新しい芸術観を理解するために、セザンヌのリンゴを見てみよう。

ここに描かれているのは、7つのリンゴにすぎない。しかし、単にモデルのリンゴを再現しているのではない。
私たちが知らない何か別の世界が、ここにはある。赤、オレンジ、黄色、緑の配色、それぞれのリンゴの形や、置かれた位置、影、等々様々な要素によって、「新しいという感覚(sensation du neuf)」が確かに生み出されている。
あるフランスの解説によると、この絵画でセザンヌは絵画的なテクニックと精神的な象徴性を結合させており、7つのリンゴは友愛、寛大さ、人間性の印だという。
その解釈の妥当性はともかく、描かれたリンゴの世界が、精神的な意味を伴った新しい世界観を作り出すという、芸術観を示しているということはできる。
ボードレールにとって、「新しい世界(un monde nouveau)」は、決して虚構の世界ではなく、本当の世界(le vrai)に属している。
L’imagination est la reine du vrai, et le possible est une des provinces du vrai. Elle est positivement apparentée avec l’infini.
想像力は真実の女王である。潜在的なことは、真実の一つの地域である。想像力は、無限と明確に関連している。
「潜在的なこと(le possible)」は、現実には存在しない。しかし、ボードレールはそれが「本当、真実」の一つの領域であると考える。
レアリスムの主張する現実の再現だけが真実に属するのではない。有限な現実を超えた無限(l’infini)の世界があり、そこに達するには想像力が必要になる。
レアリスムに関して論じた際に、ボードレールは、現実とは何かという問いかけをしていた。
その答えがここにはある。
現実は、感覚的な現象世界だけで構成されるのではない。現実は、精神的な意味を有し、無限を含んでいる。それら全てを総合的に捉えた意味での現実が、真の現実(le vrai)である。
モデルは感覚的現象世界の存在だが、絵画の世界は、新しい世界であり、真実に属する。
1859年の芸術論において、想像力が中心に置かれるのは、この「新しさ」を明確に表現するためにだろう。(次ページに続く。)
制作過程の3つの原理
「1859年のサロン」では、想像力が創造の原理の中でどのような機能を果たすかというだけではなく、制作の過程に関する考察もなされている。
A. 制作のスピード
B. ハーモニー:主調と距離
C. 全体性
A. 制作のスピード
実際の制作、例えば画家の場合であれば筆の動きは、素早いものでなければならない。その点については、1846年にもすでに触れられていたが、1859年には次のように表現される。
Si une exécution très-nette est nécessaire, c’est pour que le langage du rêve soit très-nettement traduit ; qu’elle soit très-rapide, c’est pour que rien ne se perde de l’impression extraordinaire qui accompagnait la conception ; que l’attention de l’artiste se porte même sur la propreté matérielle des outils, cela se conçoit sans peine, toutes les précautions devant être prises pour rendre l’exécution agile et décisive.
非常に明瞭な制作が必要であるとしたら、夢の言語がこの上もなく明瞭に翻訳されるためである。制作が素早く行われるのは、構想に伴う特別な印象の中から、何一つ失われないためである。芸術家の注意が道具の物質的な特性にさえ向けらなければならないことは、容易に想像される。全てが注意深く行われ、制作を軽快にし、決定的なものにする必要があるからである。
「夢の言語(langage du rêve)」とは何か?
分析したり、その結果生じた素材を総合する際には、創造者の「魂の最深部(le plus profond de l’âme)」の規則に従って行われる。
その魂の最深部で構想されたものが、ここでいう「夢(rêve)」だと考えられる。
作品の実際の制作過程は、道具を使い、夢を実際の作品に仕上げること。ここでは、構想を実現する過程が、言語の翻訳(traduction)という言葉で表現されている。
その制作は素早く(rapide)、スピード感を持って行われる必要があると、ボードレールは考える。
なぜなら、構想から実現までに時間をかけ、細部までじっくりと仕上げていると、最初に抱いた「特別な印象(l’impression extraordinaire)」が失われてしまうからである。
さらには、道具にまで気を配り、その制作(exécution)が素早く(agile)、かつ決定的なもの(décisive)にすることが要求される。
B. ハーモニー:主調と距離
スピード感を持った制作が、構想時の特別な印象を保ったものであるとすると、そこには全体の調和を支配する主調が存在する。
そして、そうした主となるトーンは、作品から距離を置いて見ることで感知される。
こうした主張も、1846年のサロンですでになされていた。
1859年では、ルーベンスの絵画を例に取り、同じ主張が繰り返される。
On voit que cette grande loi d’harmonie générale condamne bien des papillotages et bien des crudités […]. Il y a des tableaux de Rubens qui non seulement font penser à un feu d’artifice coloré, mais même à plusieurs feux d’artifice tirés sur le même emplacement. Plus un tableau est grand, plus la touche doit être large, cela va sans dire ; mais il est bon que les touches ne soient pas matériellement fondues ; elles se fondent naturellement à une distance voulue par la loi sympathique qui les a associées. La couleur obtient ainsi plus d’énergie et de fraîcheur.
よく知られているように、全的ハーモニーの大法則は、数多くの細かなタッチやむき出しの部分を断罪する。(中略) ルーベンスの何枚かの絵は、単に色のついた花火を思わせるというだけではなく、同じ場所で発火された複数の花火さえ思わせる。1枚の絵が大きければ大きいほど、タッチも幅広いものでなければならない。そのことは言うまでもない。しかし、複数のタッチが物質的に溶け合わない方がいい。一定の距離を置いて見た時、それらを結び付けていた共感の法則によって、自然に溶け合う。そのような場合、色がより多くのエネルギーと新鮮さを獲得することになる。
ここに書かれていることは、印象派の画法そのものであり、印象派を先取りしている。
複数のタッチが物質的に溶け合うとは、パレットの上で絵具を混ぜて、望みの色を作り出す作業を指すものとも考えられる。
そうした伝統的な画法に対して、ボードレールは、タッチを物理的に混ぜるのではなく、一定の距離を置いて見た時に、自然に混ざり合ったように見える方法を提示する。それは、絵具をパレット上で混ぜ合わせることなくキャンバスに置き、それらの相互関係によって新たな色が生み出される筆触分割の手法に他ならない。
色と色は、「共感の法則(la loi sympathique)」に従い、結びつく。
ボードレールは、こうした色彩論を「全的ハーモニーの大法則(grande loi d’harmonie générale)」と呼ぶ。
主となる色調があれば、細かなタッチ(papillotage)やむき出しのもの(crudité)が押さえられ、調和が生まれる。
その調和は、近くからではなく、距離を置いた時に感知される。
C. 全体性
細部にこだわらず、スピード感を持って制作を行う。その際に、最も重視されるのは、最初に抱いたコンセプトをできる限り忠実に実現することである。
その実現のためには、ボードレールはどのような提案をするのだろうか。
Un bon tableau, fidèle et égal au rêve qui l’a enfanté, doit être produit comme un monde. De même que la création, telle que nous la voyons, est le résultat de plusieurs créations dont les précédentes sont toujours complétées par la suivante ; ainsi un tableau conduit harmoniquement consiste en une série de tableaux superposés, chaque nouvelle couche donnant au rêve plus de réalité et le faisant monter d’un degré vers la perfection.
よい絵画は、それを生み出した夢に忠実であり、夢と対等なものとして、一つの世界のように制作されなければならない。同様に、私たちが目にしているような創造は、複数の創造の結果である。そこでは、すでに行われた創造が、それらに続く創造によって常に補完される。そのようにし、調和の取れた状態で制作される絵画は、重層化された複数の絵画の連なりから成り立っている。それぞれの新しい層が夢により多くの現実性を付与し、夢を完全な状態へと一段上昇させるからである。
「夢(rêve)」とは、芸術家が最初に抱くコンセプトを意味する。
ボードレールにとって、夢に忠実な作品がよい絵画であり、その実現のためには、「一つの世界(un monde)」が創造されるように、全体的に制作されることが必要になる。
全体的というのは、一気に作られるという意味ではない。「一つの創造(création)」は複数の創造の積み重ねだと、ボードレールは言う。
1枚の絵画を考えた場合、一カ所だけを完成して、次に他の部分の構想を考えるという進み方では、全体性を保つことはできない。
全体を見渡した上で制作を行い、それを何度も繰り返す。つまり、何枚もの素描を描く。
その作業の中で、徐々に現実性が増した絵画が出来上がり、最初に構想したコンセプトを完全な状態で実現することができる。
その結果としてできあがる作品は、調和の取れたものになる。
こうした技法は、「1859年のサロン」と同時期に書かれた「現代生活の画家(Le Peintre de la vie moderne)」(発表は1863年)の中で、コンスタンタン・ギースの技法として具体的に紹介されている。

[…] à n’importe quelle point de son progrès, chaque dessin a l’air suffisamment fini. […] Il prépare ainsi vingt dessins à la fois avec une pétulance et une joie charmantes, amusantes même pour lui ; les croquis s’empilent et se superposent par dizaines, par centaines, par milliers. De temps à autre, il les parcourt, les feuillette, les examine, et puis il en choisit quelques-uns dont il augmente plus ou moins l’intensité, dont il charge les ombres et allume progressivement les lumières.
制作の進行過程のどの地点を取っても、それぞれのデッサンは、十分に完成した様子をしている。(中略)彼(コンスタンタン・ギース)は、20枚のデッサンを同時に描く。彼自身にとっても魅力的で、楽しげな活気を持ち、陽気な様子で。クロッキーが積み上がり、何十枚、何百枚、何千枚と重ね合わされる。時々、彼はそれらをざっと見、パラパラめくり、点検する。その後で何枚かを選び、強調するとこはそれなりに強調し、影をつけ、徐々に光を灯していく。

最初に抱いたコンセプトを実現するための方法は、細部を完成してから次の細部に移行するのではない。
何枚もの素描を描き、そこから完成品へと向かうやり方が相応しい。
そこで、最終的な完成品が一枚の絵画として目の前にあるとしても、その影には数多くの素描やエチュードが潜んでいることになる。ボードレールが、何段もの層が積み重ねされているというのは、その点を指している。
「調和の取れた状態で創作された絵画(un tableau conduit harmoniquement)」は、ギース的な画法で制作されたものであり、それが画家の「夢」に忠実な絵画ということになる。
レアリスムの画家と想像力の画家
ボードレールにとって、レアリスムの画家は実証主義者(positiviste)であり、彼等が目指すのは現象的な現実の再現ということになる。
想像力の美学に関する章の最後、彼は、レアリスムの画家にこんな言葉を話させる。
« Je veux représenter les choses telles qu’elles sont, ou bien qu’elles seraient, en supposant que je n’existe pas. »
「私が描きたいのは、そこに存在するか、あるいは存在するかもしれないとされる事物であり、そこに私は存在しないものと仮定している。」
従って、レアリスムの絵画は、「人間が存在しない世界(L’univers sans l’homme.)」ということになる。
想像力の美学に基づく画家はどう言うだろう。
« Je veux illuminer les choses avec mon esprit et en projeter le reflet sur les autres esprits. »
「私は、精神の光で事物を照らし、その反射を他の人々の精神の上に投げかけたい。」
事物を精神の光で「照らす(illuminer)」こと、その光の反射を他の精神の上に投げかけること、そうした望みの中心にいるのは、人間である。
想像力が「色彩、輪郭、音、香りの精神的な(moral)意味」を人間に教えるとすれば、想像力の美学に基づいた画家の作品が、見る者に対して感覚的世界についての精神的な意味を伝え、「彼等の精神(les autres esprits)」を照らすと考えるのは自然なことだろう。
物質が有限だが、精神は無限。
物質を精神の光で照らす(illuminer)と無限になる。現実をその光で照らせば夢になる。
ボードレールにとっての「よい絵(un bon tableau)」とは、画家の夢を忠実に実現したものであり、それは画家の精神の光を浴びた現実でもある。
そうした絵画を創造する原理が、人間の全ての「諸能力の女王(la reine des facultés)」、つまり「想像力(imagination)」に他ならない。