ローマの地下には古代都市の遺跡が至る所にあるが、それだけではなく迷路のような洞窟もある。
2021年4月14日のTF 1の20 hで、そうした地下世界の様子を紹介している。
Month: 4月 2021
中原中也 一つのメルヘン 生=美の原型

中原中也の詩は抒情的で、読者をうっとりとさせてくれる。しかし、彼を実際に知っていた人たちの証言では、とにかく人にからみ、みんなに厭な思いをさせたらしい。

有名なのは、太宰治と一緒に飲んでいる時のこと。中也が太宰に言う。
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
太宰は、今にも泣き出しそうな声で、「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と応え、悲しい薄笑いを浮かべる。
「チエッ、だからおめえは。」と中原は言い、その後、乱闘が始まった。
(檀一雄『小説 太宰治』より)
ある作家は、中原を直接知らない読者は幸せだと言った。彼を知っていたら、詩を読んでも、彼の厭な姿が思い浮かんできてしまう、と。
私たちは普通、人柄が文章に反映すると考えがちだ。「文は人なり。」と言われれば、容易に納得する。
しかし、「からみ」体質の中也の筆から、「一つのメルヘン」のような清浄で静謐な詩が生まれる。
詩人の中で、何が起こっているのだろう?
ボードレール 群衆 Baudelaire « Les Foules » 都市 群衆 モデルニテの美

ある時代に当たり前だったことが、ある時から当たり前ではなくなることがある。そして、新しい当たり前が出来上がると、前の時代に当たり前だったことが何か忘れられてしまう。
現代の都市に住む私たちにとって、隣人さえ知らないことがあり、同じ町内の人を知らないなど当たり前すぎる。町内の人をみんな知っている方が驚きだ。
では、小さな村に住んでいるとしたら、どうだろう。今でもみんな知り合いで、会えば必ず挨拶する。一言二言言葉を交わし、家族のことを聞いたりするかもしれない。人間的な触れあいのあるコミュニティ。暖かくもあれば、鬱陶しくもある。
その中に知らない人間が入ってくれば、異邦人であり、侵入者と見なされる。未知は恐怖の対象になる。

フランスでは18世紀末の大革命の後、急激に産業化が進み、都市に大量の人々が流入した。パリでは人口が50万人から100万人に倍増したといわれている。
そうした中で、「当たり前」の大変革が起こった。
自分の住む場所が、「知り合いの町」から「未知の人々の都市」へと変化し、一人一人が「特定の名前を持った個人」から「不特定多数で匿名の存在」にすぎなくなる。
21世紀には当たり前の匿名性が、19世紀前半から半ばにかけては驚くべきことだった。だからこそ、作家や画家たちは、新しい事態に直面し、驚き、作品のテーマとした。
ホフマン、バルザック、トマス・ド・クインシー、エドガー・ポー、ドーミエ、コンスタンタン・ギーズ等々。
1861年、シャルル・ボードレールも、彼らに倣い、パリという大都市にうごめく人々を、「群衆(Les Foules)」のテーマとして取り上げた。群衆という言葉自体、非人称で誰とは同定できない、不特定多数の人間の集合体を指す。
ボードレールはパリの町を歩き回り、群衆の中に紛れ込む。
吉田秀和の語るフォーレ「月の光」 ヴェルレーヌ、ドビュシー、中原中也
吉田秀和は、『永遠の故郷 夜』の最初の章で、中原中也の話から始め、ヴェルレーヌへと向かい、ガブリエル・フォーレ作曲の「月の光」について語る。
付録のCDで吉田が選んだのは、ルネ・フレミングの歌。ルネ・フレミングは、アメリカ出身のトップクラスのソプラノで、特に声の美しさで有名だという。
「月の光」の章はこんな風に始まる。
中原中也にフランス語の手ほどきをしてもらったといっても、それは高校一年のせいぜい一年あまりのこと。その終わりころ、私はヴェルレーヌの詩集の全集を買った。フランス製仮綴じ白表紙の本で、全部で五巻か六巻、十巻まではなかったと思う。この全集は、なぜか当時珍しくないものでいろんな店にあり、私は神保町の古本屋で金五円で買ったのだった。
中原の詩を知れば、誰だってヴェルレーヌが読みたくなって当たり前。両者の血縁関係は深くて濃厚である。また彼は酔うとよく詩を朗読したが、そういう時はヴェルレーヌの詩の一節であることがよくあり、« Colloque sentimental(感傷的対話)»など終始出てきて、これを読む彼の身振りは今でも思い出せる。ただし、私はこの詩はあんまり好きではなかった。
逆に好きだった一つが« Claire de lune(月の光)»
ボードレール 2021年4月9日 200歳の誕生日

2021年4月9日はシャルル・ボードレールの200歳の誕生日。
1821年4月9日にパリで生まれたボードレールは、1867年8月21日パリで死んだ。しかし、彼の詩は21世紀になってもフランスで最も読まれている詩人でもあり、現在の美意識にも大きな影響を及ぼし続けている。
古典的な美が均整と調和をベースとし、いつの時代に誰が見ても美しいと感じるとしたら、ボードレールが生み出した「モデルニテ」の美は、モードであり、時代とともに変化し、前の時代には醜いものと見なされていたかもしれず、次の時代には時代遅れと感じられるかもしれない。
しかも、モデルニテの美は、それ自体を説明する原理を含んでいる。自己表現しながら、自己批評する。完成品であると同時に、パフォーマンスでもある。
現在ネット上で大量に流されている映像は、しばらく前にはとても美の基準には入らないものだった。むしろ、醜いと見なされたもの。それが、それまでの美とは違う新たな美として自己主張を始め、美として受け入れられる。
そうした美の源流にあるのが、ボードレールの美学だといえる。
2021年4月9日のQuotidienでは、アンブル・シャリュモーのプレゼンテーションがあり、次にフランスの文学研究者として一般にもよく知られた学者アントワーヌ・コンパニョンのインタヴューが放送された。
中原中也 朝の歌 吉田秀和の思い出の中の「歌う中也」

中原中也の詩が音楽性に富んでいることは、彼の詩句を声に出してみればすぐに感じる。
では、彼はどんな音楽に親しんでいたのだろうか?
そんな問いに応えてくれるのが、日本を代表する音楽評論家、吉田秀和(1913-2012)が中也の思い出を語った文章だ。彼の思い出によると、中也は、自作の詩、フランスの詩、そして和歌も、声に出して歌っていた。
中也自身も、詩の中でこんな風に言っている。
その脣(くちびる)は胠(ひら)ききって
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊(つちくれ)になって、
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。(中原中也「都会の夏の夜」)
吉田の思い出を辿りながら、中也がどんな風にラアラア歌っていたのか、少しだけのぞいてみよう。
続きを読む星の王子さま フランスでの出版から75年
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』がアメリカで最初に出版されたのは、第2次世界大戦がまだ続く1943年。その後、1946年4月6日にフランスでも出版された。
2021年4月6日放送のQuotidienでは、ちょうど出版後75年ということで、『星の王子さま』の人気の秘密が簡単に紹介されている。
ヴェルサイユ宮殿 ルイ15世のテーブルと権力の部屋
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間の横に隠された部屋があり、そこで王は権力の執行を行った。
長さ2メートル、重さ450キロに及ぶルイ15世のテーブルがその部屋に運び込まれ、そのテーブルや権力の部屋の様子が紹介されている。
日本人と言葉 2015年カンヌ映画祭における是枝裕和監督『海街 Diary』公開記者会見を通して
2015年のカンヌ映画祭において、是枝裕和監督の『海街 Diary』の公開記者会見が行われた。
その際の受け答えで、是枝監督が作品の意図を言葉で分析的、論理的に伝えているのに対し、四人の女優は感想や印象といった個人的な思いを語ることに重きを置いている。
日本人のコミュニケーションの理想は、「言わずもがなの関係」の中、「あうんの呼吸」でわかりあえることかもしれない。そして、「言わなくても分かり合え、言葉にしなくても通じ合う」ことが最も好ましい人間関係だとすると、言葉は、本質的には、それほど必要とされていないのかもしれない。
論理的で明確な意味を伴った言葉は違いを生み出す可能性もあり、避けられることもある。
そこで、感想や印象といった個人的な思いを伝え、相手はその感情を受け取り、共感に基づく人間関係が成立する。
日本の中にいると当たり前すぎて気づかないのだが、一歩日本から外に出てみると、そうした日本的言語表現に気づくことがある。
ラ・フォンテーヌの寓話とペローの昔話
17世紀後半はルイ14世が君臨した時代。当時の文学作品を読んでみたいという人がいたら、真っ先に推薦できる作家がいる。
一人は、ラ・フォンテーヌ。彼は、イソップ寓話を新しい読み物として語り直した。
もう一人は、ペロー。彼は、フランスの民話を取り上げ、王族や貴族の子女に向けて昔話を再話した。
「セミとアリ」「カラスとキツネ」といったイソップ寓話も、「赤ずきんちゃん」「シンデレラ」といった昔話も、私たちはよく知っているし、17世紀の読者にとっても同じことだった。従って、物語られる出来事に目新しいものはないはずである。
では、どこに興味を持って、ラ・フォンテーヌやペローを読めばいいのだろう? 彼らの書いたものを読むことで、何が理解できるのだろうか?

