日本人と言葉 2015年カンヌ映画祭における是枝裕和監督『海街 Diary』公開記者会見を通して

2015年のカンヌ映画祭において、是枝裕和監督の『海街 Diary』の公開記者会見が行われた。
その際の受け答えで、是枝監督が作品の意図を言葉で分析的、論理的に伝えているのに対し、四人の女優は感想や印象といった個人的な思いを語ることに重きを置いている。

日本人のコミュニケーションの理想は、「言わずもがなの関係」の中、「あうんの呼吸」でわかりあえることかもしれない。そして、「言わなくても分かり合え、言葉にしなくても通じ合う」ことが最も好ましい人間関係だとすると、言葉は、本質的には、それほど必要とされていないのかもしれない。

論理的で明確な意味を伴った言葉は違いを生み出す可能性もあり、避けられることもある。
そこで、感想や印象といった個人的な思いを伝え、相手はその感情を受け取り、共感に基づく人間関係が成立する。
日本の中にいると当たり前すぎて気づかないのだが、一歩日本から外に出てみると、そうした日本的言語表現に気づくことがある。

『海街 Diary』は、是枝監督によれば、時間の重層化をテーマにした映画。
今という時間には過去が含まれ、時間の経過とともに今が書き換えられていく。

死んだ人間や町から出て行った人間がいて、彼らは画面には登場しないが、登場する人物のしぐさや言葉によって、その場に存在する。
四人の姉妹が幸せそうにご飯を食べているシーンでも、関係が複雑な末の娘は特別な思いを抱いている。時間が経過すると、その娘も他の娘達との関係を深める。同じような時間の反復の中で、時間が積み重なり、それによって今が書き換えられ、異なった人間関係ができあがる。

監督の言葉からは、四人の女優を柔らかな光の中で撮りながら、彼女たちの細やかな感情表現で、不在の人間を感じさせる演技を期待していたということが伝わってくる。

海外で日本映画が話題になる時には、小津安二郎監督や黒澤明監督の名前があがる。大きな出来事が何も起こらない日常の場面を描いた映画であれば、当然、小津作品との関係が質問される。
是枝監督自身は小津との関係をあまり意識していないと公言しているが、どうしてもその質問は避けられないし、『海街 Diary』では、小津も意識したということで、何本かの小津作品を見ているという返事を準備していた様子が窺われる。

監督はすでに海外のインタヴューなどの経験も多く、論理的な言葉を使って自らの思想を伝える術を身につけている。その様子をこの記者会見からも見て取ることができる。

それに対して、女優たちの言葉は、分析や論理性ではなく、「私はここにいます。」ということを示す言語表現になっている。
もし日本で記者会見が行われていれば、質問の答えはそれほど意味を持たず、女優たちはそこにいるだけで価値があると見なされるだろう。

演技をする上で難しかった点があるか、お互いに話あったことはあるか、という質問に対して、監督の意図を読み取っていれば、不在の人物があたかも存在するかのように観客に伝えるため、どのような工夫をしたかといった事柄が語られるはずである。
しかし、答えは、食べるシーンが多く、よく食べた。みんなでご飯を食べて仲良くなったといった内容。演技者としてではなく、一人の女性としてのエピソードが語られる。
日本的なコミュニケーションにおいては、それが微笑ましいエピソードとして受け取られるだろう。

実際、日本のインタヴューの質問は、しばしば、感想や印象、あるいは「意気込みは?」といった、思いに関するもの。言葉の内容ではなく、俳優やスポーツ選手がそこにいて話をすることの方が価値を持つように見える。


論理的、分析的な言語表現と情緒的、感想文的な言語表現を比べて、価値判断をすることに意味はない。それらは異なった文化の中で養われ、その文化に適した表現なのだ。

異なった言語表現があることを知ることで有益なことがあるとすれば、自分とは違う文化を持つ人々とコミュニケーションする場合には、普段使っている言語表現を外国語に直しただけでは伝わらない可能性を知っておくことである。

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