小林秀雄的思考と皮肉 — 考える葦のアイロニー

卒業論文でアルチュール・ランボーを取り上げて以来、小林秀雄の根底には常にランボーがいたのではないかと、私は個人的に考えている。

その基本となるのは、一般に認められていることから距離を置き、皮肉(アイロニー)を投げつける姿勢。
その言葉の、ランボーで言えば中高生的な乱暴さが、小林なら江戸っ子的な歯切れのよさが、魅力的な詩句あるいは文を形作っている。

そして、その勢いに飲まれるようにして、読者は、分かっても分からなくても、詩句や文の心地よさに引き込まれ、彼らのアイロニーを楽しむことになる。

小林秀雄にはパスカルに関する興味深い文があり、その冒頭に置かれた「人間は考える葦である」に関する思考は、「小林的なもの」をはっきりと示している。

まずは、小林の考えに耳を傾けてみよう。

人間は考える葦だ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落(しゃれ)だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一とたまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。(「パスカルの「パンセ」について」昭和16年7月)

ここでは、「人間は考える葦」に関する2つの解釈が示されている。
(1)人間に考える力はあるが、しかし結局は葦のように弱い存在である。
(2)人間は葦のように弱い存在ではあるが、しかし考える力がある。その力こそが人間を人間にしている。
この二つの解釈は、それまでの常識、当たり前を読者に提示する役割を果たしている。

小林はそうした既存の常識を、「洒落」にすぎないと一刀両断にする。
「洒落」という言葉が最初と最後に置かれ、「気の利いた洒落」だとしても、「洒落を出ない」と締めくくられる。
そこで、読者は思わず、「ではどんな解釈があるのか?」と身を乗り出す。

パスカルは、人間は恰(あたか)も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。

小林によれば、「考える葦」によってパスカルが意図したことは、「脆弱な葦が考える様に考えねばならぬ」ということになる。
人間は考える能力によって、弱い葦とは違う存在になったように思い上がっているが、しかしそうした思い込みは、「全く不正であり、愚鈍である」。

小林が正解とする三番目の解釈が正しいか正しくないかは問題ではない。
ここで彼が不正で愚鈍だとするのは、実は、上の2つの解釈を信じ、それ以上に考えようとしない「あなた=読者」なのだ。
小林の解釈が既存の解釈とは違っているために、読者にとっては、それまでの知識を疑わなかった自分が愚鈍と言われたとしても、小林の慧眼に目を開かれた思いがして、ちょっとうれしくなる。

しかも、小林は、「パスカルはそう言ったのだ」と言い切る。
この端切れのよさも、小林の文を読む時の快感になる。
そして、「脆弱な葦が考える様に考えねばならぬ」ということがどういうことなのか説明されていないため、読者は自分でそのことについて考えるように導かれる。

その答えは自分で見つけるしかない。
パスカルは決して「葦が考える」とは書いていない。
17世紀の時代精神から見れば、デカルトの「我思う(考える)、故に我在り」からも推察できるように、「考えること」を支える「理性」が人間の中心に置かれていた。
「人間は一本の葦にすぎない。自然の中で最も弱い存在。しかし、考える葦である。」と書くパスカルには、デカルト同様に、人間を葦と差異化するものが「考える」ことのはずだ。
https://bohemegalante.com/2020/05/15/pascal-pensees-roseau-pensant/

ここで私が言いたいことは、小林秀雄がパスカルを理解しているか理解していないか、ということではない。
そうではなく、小林の言葉は、既存の思考を考え直すきっかけとなる「皮肉」に溢れ、勢いよく読者の思考を再始動させるものだ、と言いたいのである。
そして、それがランボー的なのだ、と。


小林はこうした「皮肉(ironie)」について、あまり人に理解されないということを自覚していたようである。

世人は、ironieというものを誤解している。ironisteはidealisteやromanticistから遠いと思っているが、実は、健全で聡明な人からが一番遠いのだ。
ironieの味わっている満足というものは、大多数の人々に通じない事が得意である。しかし、通じる人が、また、あまり少数だと困った事になる。なぜかと言うと、彼は、いつも恰好(かっこう)な話相手に取り巻かれている必要があるから。彼の頭は元来、俳優のようにしか働かないのだから、観客はだんだん減って、鏡の前で独り演技しなければならなくなれば、こんな閉口なことはない。

小林はパスカルについて書いているのだが、彼自身について語っているようでもある。
「実は、健全で聡明な人からが一番遠い」という言葉は、小林が自分自身に向けた皮肉の効いた皮肉に他ならない。

このあたりの自分に対する距離感が、私にはなんとも気持ちよく感じられる。

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