
デカルトは、『方法序説』の第4部に至り、思考の第一原理となる表現に達する。
「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis.)」。
誰もが知っているこの言葉が何を意味しているか考えてみることは、テレビやネット上で様々な意見(opinions)が行き交っている現代において、大きな意味を持つ。
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デカルトは、『方法序説』の第4部に至り、思考の第一原理となる表現に達する。
「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis.)」。
誰もが知っているこの言葉が何を意味しているか考えてみることは、テレビやネット上で様々な意見(opinions)が行き交っている現代において、大きな意味を持つ。
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デカルトという名前と、「我思う、故に我在り」という言葉は、誰でも知っている。しかし、1637年に出版された『方法序説(Discours de la méthode)』を実際に読む人はそれほど多くない。
17世紀以降の合理主義、科学主義のベースにあるデカルトの思想を知ることは、現代においても有益に違いない。
続きを読むフレノフェールはさらに彼の芸術論を展開し、絵画が何を表現すべきかポルビュスに伝える。
La forme est, dans ses figures, ce qu’elle est chez nous, un truchement pour se communiquer des idées, des sensations, une vaste poésie. Toute figure est un monde, un portrait dont le modèle est apparu dans une vision sublime, teint de lumière, désigné par une voix intérieure, dépouillé par un doigt céleste qui a montré, dans le passé de toute une vie, les sources de l’expression.
形体は、様々な姿をしているが、私たちの内部にあるものなのだ。つまり、考えることや感じることをお互いに伝え合う代弁者であり、広大なポエジーだといえる。どんな姿でも一つの世界であり、一つの肖像画なのだ。そのモデルが崇高なヴィジョンの中に姿を現したときには、光に彩られ、心の声に指名され、天上の指で不純なものを払われている。天の指は、一つの生全体の過去において、表現の源を示したのだった。
続きを読む統一感(l’unité)が作品に生(une des conditions de la vie)を与えるものであるというフレノフェールの説明を聞いた後、ポルビュスは、現実を画布の上に再現する時、ある矛盾が起こることを指摘する。
現実をそのまま再現すると本当らしくない、という問題。
— Maître, lui dit Porbus, j’ai cependant bien étudié sur le nu cette gorge ; mais, pour notre malheur, il est des effets vrais dans la nature qui ne sont plus probables sur la toile…
ーー 先生、とポルビュスが言う。でも、私はヌードのモデルをよく見て、この胸をしっかりと研究しました。でも、私たち画家にとって不幸なことなのですが、自然の中で現実的な効果を持つものは、画布の上では本当らしくなくなってしまうのです。。。
続きを読む「エジプトの聖女マリア」に、解剖学的な正確さはあるが生命感が欠けている、というフレノフェールの指摘に対して、ポルビュスとプッサンは反論しようとする。
— Mais pourquoi, mon cher maître ? dit respectueusement Porbus au vieillard tandis que le jeune homme avait peine à réprimer une forte envie de le battre.
ーー でも、どうしてですか、ポルビュスが老人に尋ねた。一方、若者は、老人に反論したいという強い気持ちを抑えるのに苦労していた。
しかし、フレノフェールは二人にほとんど口を挟ませず、すぐに自分の説を再び展開する。
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1852年10月23日に『イリュストラシオン誌』に掲載された、「10月の夜」の第2回。
当時場末だったモンマルトルから、さらにディープな場末であるパンタンへと二人は向かう。
そこにある酒場では、秘密結社の集会が行われていて、ネルヴァルはその様子を細かく語っていく。
21世紀の読者にとっては、知らないことばかりで、わからない!と思うこともたくさんあるだろう。
しかし、19世紀半ばの読者でも、モンマルトルやパンタンは普通では足を踏み入れない地区であり、へえーと思うことがたくさんあったに違いない。
私たちも、知らないことは知らないこととして、ネルヴァルの後について、怪しげな夜の町に忍び込んでみよう。

バルザックは、ポルビュスの「エジプトの聖女マリア」という作品について、フレノフェールが批評を加える場面を設定する。
しかし、その場面は、二人の登場人物の自然な会話というよりも、フレノフェールの口を通して、バルザック自身が芸術論を語っているような印象を与える。
こうした語り口は、小説の中に再現される現実の世界の本当らしさを壊す結果になる可能性がある。しかし、バルザックの世界ではよくそうしたことが起こる。
彼は、本当らしさの破綻を恐れることなく、自分の持つ世界観を読者に伝えようとしたのだろう。
登場人物に関して言えば、最初に登場した若者のニコラ・プッサンは、17世紀最大の画家。
ポルビュスは、ベルギー生まれで、マリー・ド・メディシスによってフランスの宮廷に招かれた画家。二人は実在の人物。
それに対して、フレノフェールはバルザックが作り出した虚構の人物。
また、ポルビュスが描いている絵画「エジプトの聖女マリア」は実在が確認されていず、虚構の作品である可能性が高い。

オノレ・ド・バルザック(1799−1850)はフランスを代表する小説家。
彼は「戸籍簿と競争する」という意図の下、19世紀前半のフランス社会を描き出そうとした。
言い換えると、現実社会を小説によって「再現」し、社会の全体像を把握しようとしたといえる。
そのために、詳細な描写が行われると同時に、語り手がいたるところに顔を出し、全てを解説しようとする。語り手が饒舌なところが、バルザック小説の特色の一つになっている。

『知られざる傑作(Le Chef d’œuvre inconnu)』は、17世紀を代表する画家ニコラ・プッサンの若い時代の話。彼がポルビュス(Porbus)のアトリエを最初に訪問する所から始まり、老画家フレノフェール(Frenhofer)から絵画論(=芸術論)を学ぶ場面を中心に、物語が展開する。

ちなみに、ピカソはこの小説を愛読し、フレノフェールのアトリエがあったとされるパリのグラン・ゾーギュスタン通りに自分のアトリエを持ち、「ゲルニカ」を制作した。
最初に、『知られざる傑作』の冒頭(incipit)を読み、バルザックの語り口に耳を傾けてみよう。
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ロドルフと会った翌日、シャルルは庭のブドウ棚に行き、ベンチに座る。
その時の様子を、フロベールは淡々と描写する。花が香り、虫が飛び回り、空は青い。穏やかな一日。
そんな中、シャルルはある想いに捉えられる。
Le lendemain, Charles alla s’asseoir sur le banc, dans la tonnelle. Des jours passaient par le treillis ; les feuilles de vigne dessinaient leurs ombres sur le sable, le jasmin embaumait, le ciel était bleu, des cantharides bourdonnaient autour des lis en fleur, et Charles suffoquait comme un adolescent sous les vagues effluves amoureuses qui gonflaient son cœur chagrin.
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