
「散歩と思い出」の第4章からは、ネルヴァル自身のことが語られ、その話は、祖父から始まり、父と母へと繋がり、彼の子ども時代のエピソードへと続く。
ただし、全てが事実に基づくというわけではなく、晩年に至った作家が、自らの過去を想像力によって作り直している物語だといえる。その狙いは、「今の私は散文で夢見る人間でしかない。」という言葉に込められている。
前の章「歌声結社」の最後で、ネルヴァルはジャン・ジャック・ルソーの『孤独な夢想者の散歩』を思わせる言葉を書き綴った。モンマルトルとサン・ジェルマンでの散策の後、「若い時代」から始まる章では、孤独な夢想者に相応しい過去のエピソードが語られていく。
4.若い時代
偶然が私の人生の中で非常に大きな役割を果たしたので、偶然が私の誕生を支配した特別なやり方について考えても、驚きはない。誰でも同じことだ、と言われるかもしれない。しかし、誰もが自分の話をする機会を持つわけではない。

一人一人が語ったとしても、悪いことではない。一人の経験はみんなの宝なのだ。
ある日、馬が一頭、エーヌ川沿いの緑の芝生から逃げ出し、灌木の間に姿を消した。木々の暗い茂みに入り込み、コンピエーニュの森の中に消え去った。1770年頃のことだ。
馬が森に逃げ込むことは、まれなことではない。しかし、そのこと以外に、私が存在する理由はない。ホフマンが「事物の連鎖」と呼んだことを信じるなら、少なくとも、それが私の存在のもっともらしい理由になる。
私の祖父はその時まだ若かった。彼は父の小屋から馬を連れ出し、小川の辺に腰を下ろし、夢見心地でいた。ヴァロワ地方とボーヴォワジ地方の真っ赤に染まった雲の間に、太陽が沈もうとしていた。
小川の水は緑色をし、暗い影がキラキラしていた。紫色の帯が夕日の赤に筋を描いていた。祖父が出発しようとして振り返ると、乗ってきた馬が見えなかった。必至に探し、夜まで呼んだが、無駄だった。家に戻らなければならなかった。
彼は口数が多くなかった。誰にも会わず、部屋に上がり、「神の配慮」と動物が住み処に戻る直感に期待しながら眠った。
しかし、そうはならなかった。翌朝、私の祖父は部屋を下り、中庭でせわしく歩き回っている祖父の父親に出会った。父の方では、馬が一匹いないことにすでに気づいていたが、息子と同じように口数が少なかったので、誰が犯人か尋ねなかった。息子を真正面から見るだけで、犯人が息子だと分かっていたのだった。

その後で何が起こったのか私は知らない。激しすぎる非難が、祖父の決心の原因だったのだろう。部屋に上り、服をまとめ、コンピエーニュの森を通り、小さな村にやって来た。エルムノンヴィルとサンリスの間にあり、カロリング朝時代の古い居住地であるシャーリの池の近くに位置していた。そこには叔父の一人がいた。その叔父は、17世紀のフランドル地方の画家の子孫だと言われている。今では廃墟になっている古い狩りの小屋に住んでいたが、そこはマルグリット・ド・ヴァロワの領地の一部だった。近くの畑は、「木立」と呼ばれる灌木に囲まれ、ローマ時代の古い野営地の跡にあり、10代皇帝の名前(注:12代皇帝の名前はネルヴァ。ネルヴァルのペンネームはこの地に由来すると考えられることがある。)を保持していた。花崗岩やヒースで覆われていない土地では、ライ麦が獲れる。土地を耕すと、エトルリアの壺や徽章、錆びついた剣やケルトの神々のいびつな像が見つかることもあった。
祖父は老人の手伝いをし、畑を耕し、家父長制度的な返礼として、従姉妹にあたる娘と結婚した。結婚のはっきりとした年代は知らないが、結婚式で剣が使われ、私の母親が、マリー・アントワネットという名前と同時にロランスという名前も受け継いだので、たぶん革命の少し前に結婚したのだと思う。今、祖父は、妻や末娘と一緒に、彼が耕してきた畑の真ん中に眠っている。長女である私の母は、そこからはるか遠くに埋葬されている。寒いシレジアにある、グロス・クロガウのポーランド・カトリック教会の墓地だ。彼女は25歳で死んだ。戦争で疲労し、死体が積み重なる橋を横切っている時、馬車がひっくり返りそうになり、そこで罹った熱病が原因になった。その後、父はモスクワの遠征隊に加わろうとし、母の手紙や宝石をベレジナ川の波の中で失ってしまった。

私は母を見たことがなかった。母の肖像画は、紛失するか、盗まれるかしてしまった。知っているのは、母がその時代の1枚の版画と似ていたということだけ。プリュードンかフラゴナールの絵が原画で、「ラ・モデスティ(慎み)」と呼ばれたものだった。彼女の死の原因となった熱病は、定期的で周期的に私の人生を区切る時期に、3度、私を捉えた。そうした時には、私は、私の揺り籠を取り囲んでいた喪と悲歎の映像で心が打ち負かされるように感じた。バルト海の海岸、シュプレー川やドナウ川の岸辺から母が書いた手紙を、私は何度も読んでもらっていた! 不思議なことに対する感性や、遠いところに旅行する趣味は、小さい頃のこうした印象や、森の中央部の孤立した所で長い間暮らしたことの結果だろう。私の世話は召使いや農民に任されていたので、奇妙な信仰や伝説や古い民謡で、精神が養われたのだった。そこには人を詩人にするのもがあったが、今の私は、散文で夢見る人間でしかない。
7歳の時だった。私が叔父の家の戸口で無邪気に遊んでいる時、3人の軍人が家の前に姿を現した。軍服の黒ずんだ金色が、コートの下でほんの僅かに輝いていた。一番前にいる男が私を思いきり抱きしめた。私は叫んだ。「父さん! 痛い!」 その日から、私の運命は変わった。
3人はストラスブールの陣地から戻ったのだった。凍てついたベレジナ川の波から逃れてきた一番年上の男は、私を抱き上げ、義務と呼ばれるものが何かを私に教えた。私はまだひ弱だった。義務を果たしている間、一番若い男の陽気さが私には嬉しかった。彼らに仕えていた一人の軍人が、夜の一部を私のために使うことを思いついた。朝が明けるよりも前に私を起こし、パリに近いところにある丘を散歩しながら、農場や酪農場でパンとチーズを食べたのだった。