ランボー 「花々」 Arthur Rimbaud « Fleurs » ランボー詩学の精髄:初めに言葉ありき

「花々(Fleurs)」は、ランボー詩学の精髄を理解させてくれる散文詩。

詩人は現実に存在する何らかの花を描くのでも、それについて語るのでもない。

彼の詩学の理解に有益な韻文詩「アマランサスの花の列(Plates-bandes d’amarantes…)」において、詩人は現実から出発し、言葉が現実から自立した世界へと移行した。
https://bohemegalante.com/2019/07/09/rimbaud-plates-bandes-damarantes/

散文詩「花々」になると、現実などまったくお構いなしに、ただ言葉が連ねられていく。
読者は、勢いよく投げかけられる言葉の勢いに負けず、連射砲から繰り出される言葉たちを受け取るしかない。
ランボーがどんな花を見、何を伝えようとしたかなどを考えるのではなく、言葉そのものが持つ意味を辿るしかない。
そうしているうちに、言葉たちが生み出す新しい世界の創造に立ち会うことになる。

正直、「花々」を一読して、何が描いてあるのか理解できない。まずは、文字を眼で追いながら朗読を聞き、言葉の勢いを感じてみよう。

Fleurs

D’un gradin d’or, – parmi les cordons de soie, les gazes grises, les velours verts et les disques de cristal qui noircissent comme du bronze au soleil, – je vois la digitale s’ouvrir sur un tapis de filigranes d’argent, d’yeux et de chevelures.
Des pièces d’or jaune semées sur l’agate, des piliers d’acajou supportant un dôme d’émeraudes, des bouquets de satin blanc et de fines verges de rubis entourent la rose d’eau.
Tels qu’un dieu aux énormes yeux bleus et aux formes de neige, la mer et le ciel attirent aux terrasses de marbre la foule des jeunes et fortes roses.

ランボーの詩句は、常に単純な構文で、使われている単語も特殊なものはほとんどない。
« Fleurs »を形成する3つの文は、どれも単純な構文が使われている。

  1. D’un gradin, je vois la digitale s’ouvrir. 階段から、私はギリタリスが花開くのを見る。
  2. Des pièces , des piliers, des bouquets entourent la rose. 貨幣、柱、花束がバラを取り囲む。
  3. La mer et le ciel attirent aux terrasses la foule des roses. 海と空がテラスに多くのバラを引き寄せる。

全て単純な構文で、意味的に不明瞭なところもない。ランボーの散文はほとんどこうした単純さの上に成り立っている。

では、意味の不明瞭さはどこから生まれてくるのだろう?

第1文

 D’un gradin d’or, – parmi les cordons de soie, les gazes grises, les velours verts et les disques de cristal qui noircissent comme du bronze au soleil, – je vois la digitale s’ouvrir sur un tapis de filigranes d’argent, d’yeux et de chevelures.

gradin d’orで、円形劇場の階段が黄金か、あるいは金色であることがわかる。

parmi (・・・の間)以下は、階段(そして以下に出てくる「私」)を取り囲む物。

cordons de soie : 絹の綱
gazes grises : 灰色の薄い布
les velours vertes :緑色のビロード
disques de cristal : 水晶の円盤

この4つの物質は、言葉自体としては理解可能。
しかし、あまりにも一般的すぎ、かつ、それらの繋がりがわからないために、読者としては、ランボーがどのようなイメージを描いているのかはっきりとわからない。

続く関係代名詞 qui 以下の文(qui noircissent comme du bronze au soleil)は、disquesだけを説明するとも、4つの物質全てを説明するとも考えられる。
とにかく、それ(ら)は、「太陽に当たり、青銅のように黒ずんでいる。」

もしランボーが何か現実の情景を描写しようとしているのであれば、これらの言葉から何らかのイメージは結ぶはず。しかし、はっきりした像が浮かんでこず、読者は困惑するしかない。

そんな読者をからかうように、ランボーはわざと、身近な言葉でありながら、現実には決してつながらない言葉をつなげ、ギリタリスの花が開く場所を描く。
« sur un tapis de filigranes d’argent, d’yeux et de chevelures » 
銀と眼と髪でできた透かし模様の絨毯の上

透かし模様の絨毯は理解できるのだが、銀に眼と髪が並列されると、途端にイメージが結ばなくなる。

こうした言葉の使い方は、言葉が現実に存在する対象を描く役割を止め、言葉自体で自立する方向を示している。
そのために、読者も、既存の世界を再現しようとするのではなく、新しい世界の創造へ向かうことが求めらる。

私は階段からジギタリスの花が咲くのを見ている。この基本的な構図から出発し、新しい世界が徐々に生み出される。

布がある。soie, gaze, velours。
金属や鉱物がある。or, cristal, bronze, argent。
色彩が見える。or, gris, vert, noir, bronze, argent
物体がある。gradin, cordon, disque, tapis。
動きもある。noircir au soleil. voir la digitale s’ouvrir

 金色の階段から、—— 回りには、絹の綱、灰色の薄布、緑色のビロード、水晶の円盤。それらは、陽に当たると、青銅のように黒ずんでいく。—— ジギタリスが花開くのが見える、銀と眼と髪の透かし模様の絨毯の上に。

私を取り囲む世界では、全てのものが陽に当たると黒ずんでいく。そんな中、黄金の階段から、ジギタリスの花が開くのが見える。
今まさに世界が始まろうとしている。

第2文

 Des pièces d’or jaune semées sur l’agate, des piliers d’acajou supportant un dôme d’émeraudes, des bouquets de satin blanc et de fines verges de rubis entourent la rose d’eau.

この文は主部が肥大化し、物が次々に数え上げていく。

pièces d’or(金貨)がagate(メノウ)の上に撒かれている。
piliers d’acajou(マホガニーの柱)は、dôme d’émeraudes(エメラルドのドーム)を支えている。
ブーケ(bouquets)は、satin blanc(白いサテン)と、fines verges de rubis(ルビーの細い棒)で作られている。

ここでも、何らかのモデルを描写する記述はなく、現実の何かを参照しているのではないために、読者はどのようなイメージを思い描いていいのか途方に暮れる。

ランボーはそれを見透かすかのように、最後に謎かけのような言葉を付け加える。
rose d’eau (水のバラ)

実在しないバラと考える人もいれば、ドイツ語の Wasserrose(wasserは水)からスイセン(nénuphar)だと言う人もいる。
そんな風に、ランボーは読者を煙に巻き、水(eau)とバラ(rose)という二つの言葉を結合し、現実を参照するのではない言葉の世界を作り出す。

 メノウの上に撒かれた黄色の金貨、エメラルドのドームを支えるマホガニーの柱、白いサテンとルビーの細い棒、それらが水のバラを取り囲んでいる。

動きはなく、新しい世界の様子が紹介される。
長い主部でそこにある物体が提示され、最後に、それらに囲まれた不思議なバラに意識が向かう。
そのバラは、世界の根源にある生命の源?

第3文

 Tels qu’un dieu aux énormes yeux bleus et aux formes de neige, la mer et le ciel attirent aux terrasses de marbre la foule des jeunes et fortes roses.

海と空に言及される前に、一人の神(un dieu)の姿が描かれる。
巨大な眼はブルー。
そこまではわかるのだが、雪の形をどのように理解したらいいのか? 
しかも、形(formes)という語は複数であり、神は雪の様々な形をしている。

海と空の関係で考えると、眼のブルーは海を、雪は空を連想させる。
としたら、その神は、海と空を統合する世界全体と考えていいのかもしれない。
あるいは、眼に見えない神が、地上に顕現する際には、海と空として現れる。

空と海が、引き寄せるのは、多数(la foule)のバラ(roses)。

ここで注意を引かれるのは、第2詩節では単数だったバラ(rose)が、ここでは複数形であること。
そのことによって、一般的あるいは普遍的、抽象的だったバラが、具体的で実際的な存在になる。
その具体性は、若い(jeunes)や強い(foretes)という形容詞によってさらに強調される。

2番目の文がまだ動きのない世界の始まりの状態を描いているとしたら、ここでは「引く(attirer)」という動詞によって動きが表現され、バラたちが大理石のテラス(terrasse de marbre)に引き寄せられていく。
その吸引力は、天に祈りを捧げる人間の心の動きを、神の側から見たもののようにも思える。

巨大な青い目、雪の形をした神のように、海と空は、大理石のテラスへと、若く力強いバラの群を引き寄せる。

水のバラという生命の根源が、地上世界では数々のバラの花となり、具現化される。
それは人間の命だけではなく、あらゆる生物の生命を現している。

言葉の花束

3つの文から構成される「花々」の中で、どの言葉も現実の具体的な事物に結びつくような使い方をされていない。

黄金の階段にしても、海や空にしても、具体的な階段や海や空を指しているとは考えられない。それらはあくまでも一般的な階段であり、海であり、空である。
こうした性質は全ての物質について言え、ランボーの人生とのかかわりとか、時代性とか、地域性とかを窺わせる言葉は一つも含まれていない。
神にしても、ギリシア神話なのか、中近東の神なのか、北欧の神なのか、まったく手掛かりがない。

言葉は散文詩「花々」の外に存在する現実の世界を参照するのではなく、すべてが「花々」の中に収まっている。
別の言い方をするなら、言葉の意味は詩の中で自足し、その中でのみ展開する。

銀と眼と髪の透かし模様の入った絨毯は、大理石のテラスへ移行する。
水のバラは、若く力強いバラの群へと展開する。
階段の上にいる「私」を取り囲む綱や薄布、ビロード、円盤は、水のバラの周りでは、金貨、柱、棒になる。
なぜ? という問いは意味をなさない。

最初にギリタリスが花開き、次になぜ水のバラに言及されるのか、無理に説明をしようとしても意味がない。
ブーケを形作る一つ一つの花を見るように、「花々」を形作る言葉を辿って行く。
最初にあるのは、言葉なのだ。

その言葉の流れに身を任せていると、一つの世界がおぼろげに浮かび上がってくる。
ジギタリスの開花が世界創造の合図となる。
その世界が生命を得て動き始める前、まだ時間が流れる前にあるのは、水のバラ。
次に、時間が流れ始め、世界が活動を始める。そこでは、若く力強いバラたちが空と海に向かい祈りを捧げる。
こうして新しい世界が始まる姿が描き出される。

この新しい世界の開始を告げる散文詩「花々」は、言葉でできた花束と見なすことができる。
言葉たちの構造体が新しい意味、新しい世界を作り出していく。
そこで、読者は、「花々」を構成する言葉を熟読玩味し、新たな花を作り出す作業に参加するよう要請されている。

詩は、詩人によって文字として書き留められた瞬間、詩人から自立し、独自の存在となる。
詩人も読者の一人となる。
そして、読者は、言葉の構造体の中に入り込み、そこから新しい世界を作り出す。
最初に言葉があり、詩人も含め、読者はそのから独自の美やポエジーを感じとる。

ランボーの「花々」は、そうした詩、文学、芸術のあり方を体言している散文詩だと考えることができる。


日本において、「始めにことばありき」という芸術観、文学観をランボーから吸収し、独自の文学批評を繰り広げたのが、小林秀雄(1902-1983)。

彼は、ランボーに関する卒業論文を執筆して以来、晩年の「本居宣長」まで、一貫してその美学を保っていた。

小林訳の「花々」の翻訳を読んでみよう。

 黄金の階段から、———— 絹の紐、鈍色のうす衣、緑の天鵞絨(ビロード)と青銅の陽に向いて黒ずんだような水晶の花盤が入り乱れる間に、———— 金と眼と髪の毛との細線で、文(あや)に織られた掛布の上に、ジギタリスの花が開くのが見える。
 瑪瑙(めのう)の上に、ばら撒かれた黄色い金貨、翠玉(エメラルド)の丸天井を支えるアカジューの柱、白繻子の花束と紅玉の細い鞭とは、水薔薇を取り囲む。
 大きな緑の眼、雪の肌した神のように、海と空とはこの大理石台に、若々しく強い薔薇の群れをさし招く。

小林は、本居宣長が、『古今和歌集』を現代語訳に直したことに関して、次の様に言う。

彼は「古今集」の「雅言(みやびごと)」を、そっくり今行われている「俗言(さとびごと)」に訳(うつ)してみる、というところまで行かなければ、承知しなかった。宣長が、わが国最初の古典の現代語訳者となったのは、言うまでもなく「古言を得んとする」一と筋の願いに駆られたからであり、その仕事の動機は、全く純粋なものであった。

ここで小林が宣長について語る「訳す」ことの意識は、小林自身のランボーの翻訳を貫くものだったと考えることができる。
「古言を得んとする」ことは、「物の味を自ら舐めて、知られるが如し」だと本居宣長は言う。


小林秀雄はランボーを訳すことで、「ランボーの詩句を得んとする」ことを目指した。つまり、ランボーの詩を味わい、その精髄にまで入り込み、彼自身の文学観を作り上げたのだといえる。

小林とランボーの「初めに言葉ありき」については、以下の項目を参照。
https://bohemegalante.com/2020/07/25/kobayashi-hideo-mots-depourvus-de-sens/

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