AIと倫理

ChatGPTが爆発的な普及をしたために、AIの倫理が話題になっている。ところが、実際に何か問題なのかは、必ずしも明快ではない。

2023年5月に、AI開発の中心人物とされるジェフリー・ヒルトンが、AIの危険性を自由に訴えるために、Google社を退社したというニュースが流れた。
ヒルトンは、AIの危険性として、人間の制御を超えて予測不可能な振る舞いを示す可能性、人間の様々な判断において人間に取って代わる可能性、人間の雇用を奪う可能性、AIによって作り出される情報や画像の真実性とフェイクの区別の困難さなどをあげ、「社会と人類に深刻なリスクをもたらす」可能性があるとし「AIを制御できる方法を見つけるまで技術を拡大させるべきではない」と指摘した。

この主張は、2023年3月「AIを制御できる方法」を模索するために半年間の開発中止の訴えを行ったイーロン・マスクたちの発想と軌を一にしている。
ただし、マスクはその1ヶ月後には、巨額の予算を投入してAI開発のための会社を立ち上げた。
そのことは、2000人以上の署名を集めた公開書簡の意図が、「社会や人類に深刻なリスク」を検討するためではなく、「半年間の開発中止」だったことを明らかにしている。

AIの倫理を考える際に、ジャフリー・ヒルトンとイーロン・マスクの例をあげたのは、同様の言葉を前にして、どのように読み取るかは私たち一人一人にかかっているということを示すためである。

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ポール・ヴェルレーヌ 印象派の詩人 2/2 「印象」と「心象スケッチ」

Monet, Impression, soleil levant

ポール・ヴェルレーヌを代表する『言葉のない歌曲集』が出版されたのは1874年。クロード・モネの「印象 日の出」が展示された、いわゆる第一回印象派展が開催されたのと同じ年だった。
この偶然は、ヴェルレーヌの詩が印象派の絵画と同じ種類の美を目指していることを示す、「意味ある偶然」だといえる。

彼らの新しさは、絵画、詩の言葉、ドビュシーなど音楽家であれば音楽によって、「印象」を表現しようとしたことだった。

私たちは「印象」という言葉を、普段何気なく使っている。第一印象がいい、印象が薄い、印象的な風景、等々。しかし、「印象」とは何かを考えることは少ない。

印象が生じるためには、二つの要素が必要になる。一つは、見たり聞いたりする人間。もう一つはその対象となるもの。
一人の人間が、ある対象を見たり聞いたり触ったりした時、心の中で感じるものが、印象と呼ばれる。

そこで注目したいのは、同じものに対しても、印象は人によって異なるだけではなく、場所の違いや時間の経過の中でも違う可能性があるということ。
印象派の画家たちが、同じ対象を何度も描いたのは、時間の経過に従って光は絶えず変化し、その当たり方によって違って見えるから他ならない。

そうした視点から考え直してみると、「印象」とは、五感が捉える対象とその刺激を受け入れる心、つまり外界と内面の共同作業から生まれる不安定な感覚であることがわかる。

そのため、「印象」に基づいて表現された世界像は、現実に忠実な写実的な映像でもなく、現実の核を欠いた空想的な映像でもない。
こう言ってよければ、それ自体で、一つの自立した世界を作り出している。
モネのサン・ラザール駅は、現実の駅を再現しているのではなく、1枚1枚が、それぞれのサン・ラザール駅なのだ。

ヴェルレーヌの「巷に雨が降るごとく」(掘口大學訳)でも、同じことが言える。
雨が降るのは外界だが、「同時に」、心の中にも涙が降る。というか、雨が降るのは、外界と心が一つになった「印象」の中なのだ。

心の中に涙が降る。
街に雨が降るように。
私の心を貫き通す
この物憂さは何だろう。           (「忘れられたアリエッタ 3」)

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ポール・ヴェルレーヌ 印象派の詩人 1/2 短調の調べ

ポール・ヴェルレーヌは日本で最もよく知られたフランスの詩人だといえる。
「秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」(上田敏訳)や、「巷に雨の降るごとく われの心に涙ふる。かくも心ににじみ入る この悲しみは何やらん?」(掘口大學訳)といった詩句は、いつの間にか私たちの記憶に入り込み、消えることがない。

ヴェルレーヌの詩は、日本人の心にすっと入ってくる親しさを持っている。
「あはれ」が美学の根底にある日本的な感性は、「悲しみ」が通奏低音として流れるヴェルレーヌの詩句の美しさを、そのまま受け入れることができるのかもしれない。

その一方で、翻訳で読む限り決して理解できない部分もある。それは、ヴェルレーヌの詩句の音楽性。
ヴェルレーヌは「詩法」という詩の中で、「何よりも先に音楽を」と詠い、詩の第一の要素は音楽であることを強調した。
翻訳で読む限り、ヴェルレーヌの詩句の持つ音色、リズム、ハーモニーなどを知ることができない。
どの翻訳に関しても同じことなのだが、ヴェルレーヌ(そして、ランボー、マラルメたち)の詩では、とりわけ音楽性が重要なのであり、翻訳で読むことの限界は理解しておく必要がある。

「フランス文学の道しるべ」の紹介では、翻訳でフランス文学を読むことを前提にしているので、ヴェルレーヌの詩句の音楽的な側面については触れないで進めていく。

ヴェルレーヌの詩に親しむための最もよい解説は、クロード・モネの「印象 日の出」かもしれない。
その絵は、モネの仲間の画家たちが最初に企画した1874年の展覧会に展示され、「印象」という題名から、彼らの絵画が印象派と呼ばれることになったものだった。

その1874年、ヴェルレーヌの『言葉のない歌曲集』も出版された。
それは「意味のある偶然」。
印象派の画家たちが絵画で試みたこと、ヴェルレーヌが詩の世界で行おうとしたこと、どちらも「印象」を固着することが課題だった。

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 5/7 象潟  魂をなやます美

太平洋側の旅と日本海側の旅という二つの側面からなる『おくのほそ道』の中で、「象潟(きさがた)」は「松島」と対応し、芭蕉は、「松嶋は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」とした。

その対比は、決して、太平洋側(表日本)の松島が「明」で美しく、日本海側(裏日本)の象潟が「暗」で美しさが劣るといった、近代的な固定観念に基づいているわけではない。

そのことは、芭蕉が敬愛する西行の和歌を読めば、すぐに理解できる。

松島や 雄島の磯も 何ならず ただ象潟の 秋の夜の月  (「山家集」)

(確かに松島や雄島の磯の光景は美しいが、しかし、それさえも何でもないと思えてくる、象潟の秋の夜の月と比べれば。)

旅立つ前の芭蕉が何よりも見たいと思った「松島の月」でさえも、象潟の月に比べたら何のことはない。そう西行は詠った。
ここに、明暗、表裏に基づく美的判断はない。

象潟を描くにあたり芭蕉の頭にあったのは、もしかすると、吉田兼好の『徒然草』の一節かもしれない。

花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方も知らぬも、なほあはれに情け深し。

満開の花や満月だけが美しいのではなく、雨のために見えない月を見たいと望み、垂れ込めて(=家の中にこもっているために)、春が過ぎていく様を見ることができないということも、日本人の美意識に強く訴えかけてくる。

芭蕉と曽良が酒田から象潟に向けて出発したのは、旧暦の6月15日、現在の暦だと7月31日のこと。
朝から小雨が続き、昼過ぎには強風になり、その日は吹浦(ふくうら)に宿泊した。そして翌日、象潟に向かったが、到着した時も雨の中だった。
雨の象潟もまたいいものだ、と芭蕉は思ったことだろう。

『おくのほそ道』を執筆するにあたり、芭蕉は松島に匹敵する散文で象潟を描き、さらに最後に二つの俳句を置いた。

(朗読は44分29秒から46分58秒まで)
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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 4/7 松島 造化の天工 

おくのほそ道の旅に芭蕉を誘った最大の理由は、序の中で告白されるように、「松島の月まず心にかかりて」ということだった。

その松島を実際に目の前にした時、芭蕉は景観の美しさに心を深く動かされたに違いない。旅人の感動は、松島を描く散文によって見事に表現されている。

俳句も詠んだらしい。

島々や 千々に砕きて 夏の海    (「蕉翁全伝附録」)

260を数える島々の情景が心に浮かんでくる句であり、写生として決して悪い出来ではないと思うのだが、しかし芭蕉はこの句を『おくのほそ道』では取り上げなかった。

芭蕉が選択したのは、漢詩的な表現が多く使われる前半と、隠者文学を思わせる後半を組み合わせ、二つの相の下で松島を描き出すことだった。

(朗読は27分16分から29分34秒まで)
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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 3/7 白河の関  歌枕を詠う散文

おくのほそ道の旅に出発する前、芭蕉が旅への思いに誘われた時、最初に思い浮かべたのは、白河の関(しらかわのせき)だった。
「やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、(後略)。」

白河の関とは、奈良時代に、大和朝廷が、「陸奥(みちのく)」(=現在の東北地方)との境に設置した関所で、その関を超えることは、蝦夷(えぞ)の人々が暮らす地域に入ることだった。

平安時代以降になると、朝廷の北方進出が進み、軍事的な役割は減少した。その一方で、都から遠く離れた北方の地「陸奥」を象徴するものとなり、鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)とともに「奥州三関」の1つとされ、数多くの和歌の中で詠われる「歌枕」になった。

最初に白河の関を和歌に詠んだのは、平安時代中期の平兼盛(たいらの かねもり)だとされる。

みちのくにの白河こえ侍(はべ)りけるに

  たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと
                           (「拾遺和歌集」)

(もしも遠く離れた都まで知らせる手段があるなら、今日、白河の関を超えたと、知らせたいものだ。もしかすると、もう都には戻れないかもしれないのだから。)

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 2/7 「序」の関(せき)

『おくのほそ道』は、1689年の春から秋にかけて芭蕉が行った長い旅に基づく紀行文の形式で書かれているが、執筆には時間を要し、1694年に芭蕉がこの世を去るまで書き継がれ、出版されたのは1702年になってからだった。

なぜそんな時間をかけたかといえば、事実に忠実な旅の記録を書き残すのではなく、芭蕉が俳諧の本質だと考えた不易流行」の概念を具体的な形で表現することを意図したからに違いない。

実際、『おくのほそ道』は江戸の深川から出発して、前半では、日光、松島を経て平泉に達する太平洋側の旅が語られ、後半では、出羽三山を通過し、日本海側を下り、最後は岐阜の大垣にまで至る、大きく分けて二つの部分から成り立つ。つまり、単に旅程をたどるのではなく、はっきりとした意図の下で構成されているのだ。

その旅の前に置かれた「序」は、『おくのほそ道』の意図を格調高い文章によって宣言している。
最初に旅とは何かが記され、次に「予(よ)=(私)」に言及することで芭蕉自身に視線を向け、旅立ちに際しての姿が描き出されていく。

ここで注意したいことは、芭蕉は俳人だが、俳句だけではなく、旅を語る散文もまた、俳諧の精神に貫かれていること。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」という最初の一文を読むだけで、俳文の美が直に感じられる。

ここではまず朗読を聞くことで、芭蕉の文章の音楽性を感じることから始めよう。(朗読は16秒から1分33秒まで)

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 1/7 造化の美

松尾芭蕉は、1689(元禄2)年、46歳の時、旧暦の3月27日から9月6日まで、現在の暦であれば5月16日から10月18日までの約5ヶ月をかけて、江戸を発ち、東北地方から北陸地方を回り、最後は岐阜県の大垣に至る、長い旅を行った。

その主な目的は、1689年が平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人である西行法師の生誕500年にあたり、東北と北陸の各地に点在する「歌枕」の地を訪ねることだったと考えられる。

「歌枕」というのは、和歌の中で伝統的に読み継がれてきた地名で、現代で言えば、名所旧跡といった観光名所と考えていいかもしれない。
ただし、現代とは違い、それらの地名にはそれまでに読まれた和歌の記憶が刻み込まれ、例えば、「吉野」と言えば、「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」(西行)などといった句が数多く思い出された。
その連想を通して、実際に吉野山を見たことがなくても、和歌を通して「吉野」を思い描き、時には、その地名からインスピレーションを受けて、自分でも「吉野」を和歌に詠み込む。
そうした伝統は、俳句でも続いていた。

そうした中で、芭蕉は、東北や北陸に数多くある「歌枕」を実際に自分の目で見、実体験から得られた生の情感を言葉によって表現しようとしたのではないかと考えられる。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。」(土芳(とほう)『三冊子(さんぞうし)』)

『おくのほそ道』はその旅に基づいた紀行文であり、実際の旅程と、その間に芭蕉および同行者である曾良(そら)の詠んだ俳句から出来上がっているように見える。
しかし、実はいくつかの虚構が含まれているし、作品全体が中央で分割され、対照的な二つの部分で構成されている。そのことからも、『おくのほそ道』が単なる旅の記録ではないことがわかる。

では、何を目指した書なのか?

芭蕉自身はどこでも使っていないが、弟子たちが芭蕉の俳諧論の中で中心に置いたのは、「不易流行」という概念だった。
「不易」とは永遠に変わらないということ。「流行」は常に変化し、新しくなっていくこと。
その対立する二つの概念が「根源においては一つ」というのが、芭蕉の俳諧論の本質だと考えられている。

弟子によって多少の解釈に違いがあり、「不易流行」という表現が何を意味にしているのか完全に解明されているとは言えないのだが、ここでは、『おくのほそ道』全体を通して、芭蕉自身が俳諧の本質を伝えようとしたのだと考えてみたい。
そのことによって、芭蕉の説く「不易流行」を具体的に知ることにもなるはずである。

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鴨長明『方丈記』を読む 4/4 大災害の絵画

鴨長明は『方丈記』の前半で、四つの自然災害と一つの人災を、非常に生き生きとした描写で描き出す。
その目的は、序の中で言われた、「その主(あるじ)と栖(すみか)と、無常をあらそふさま、いはば朝顏の露にことならず。』という言葉を具体的な事実として語るためである。
そして、5つの災害を語り終えた後には、「すべて世のありにくきこと、わが身と栖(すみか)との、はかなく、徒(あだ)なるさま、又かくのごとし。」と、この世のはかなさ、無常さが再確認される。

従って、長明の意図は明らかなのだが、ここで注目したいのは、長明の視線が細部に渡り、描写が実に生々しく描かれていること。
その様子は、平安時代末期から鎌倉時代に描かれた六道絵や、「地獄草紙(じごくそうし)」、「餓鬼草紙(がきそうし)」、「病草紙」などの絵画を連想させる。
それらは、10世紀末、平安時代の中期に書かれた源信の『往生要集』などで説かれた六道、つまり、 「地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人」を映像化したものと考えられる。

鴨長明は、実際に自分が体験した悲惨な状況、しかも1177年から1185年というわずか8年のあまりの間に起こった度重なる災禍を、六道に匹敵するものとして、絵画ではなく言葉で描き出したのだった。

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鴨長明『方丈記』を読む 3/4 日本伝統の美的生活

1155年に下鴨神社の神官の次男として生まれた鴨長明は、成長するとともに琵琶の名手として知られ、和歌でも『千載和歌集』や『新古今和歌集』に句が採用されるほどになる。
しかし、1204年に河合 (ただす) 社の神官の職を得る希望が叶わず、出家を決意し、都を離れて東山に遁世。
1208年、54歳の頃になると、山科の日野山にある庵に居を移し、1212年に『方丈記』を執筆した。

『方丈記』の前半では、京の都での大火事や地震などの大災害の様子が目の前に甦るかのように語られ、この世の無常が実感される。
後半になると、山奥の方丈(約3m四方)ほどしかない小さな庵での暮らしが綴られ、富や地位を求めず、物や人に執着しない心持ちこそが、この世で平穏に暮らす術であることが語られていく。

ここで注目したことは、後半の隠遁生活において、物質的には方丈に象徴される鴨長明のミニマリストな生活が、実は、非常な豊かさに裏打ちされていることである。
現代人には見えにくいその秘密を見ていくことで、日本の伝統文化が美的生活に基づいていたことがわかってくる。

まずは日野山の庵の外と内がどのようなものだったのか見ていこう。

(朗読は、23分48秒から26分11秒まで)
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