ボードレール 「芸術家の告白」Le Confiteor de l’artiste

第2段落では、ジャン・ジャック・ルソーが最初に発見した、自然と自己の一体化体験に基づき、美を前にした芸術家の姿が描き出される。

Grand délice que celui de noyer son regard dans l’immensité du ciel et de la mer ! Solitude, silence, incomparable chasteté de l’azur ! une petite voile frissonnante à l’horizon, et qui par sa petitesse et son isolement imite mon irrémédiable existence, mélodie monotone de la houle, toutes ces choses pensent par moi, ou je pense par elles (car dans la grandeur de la rêverie, le moise perd vite !) ; elles pensent, dis-je, mais musicalement et pittoresquement, sans arguties, sans syllogismes, sans déductions.

なんと素晴らしい喜びなのか、視線を空と海の広大さの中に溺れさせるのは! 孤独、沈黙、蒼空の比類なき純潔さ! 水平線で震える小さな帆船。小さく、孤立しているその姿が、救いようのない私の存在を象っている。波のうねりの単調な旋律、全てのものが私を通して思考する。あるいは、私が全てを通して思考する。(というのも、夢想の偉大さの中で、私という存在はすぐに失われるからだ。)繰り返すが、全てのものが考えている。しかし、音楽的に、そして絵画的にだ。細かな理屈を考えたり、三段論法を使ったり、演繹したりはしない。

真っ青な空と海を目にして、幸さを感じることは誰にでもある。詩人も同じように甘美な喜び(délice)を感じる。彼には、空と海の空間は果てしなく、その巨大さ(l’immensité)は「無限」を思わせることだろう。

その空間に向かって、視線を「向ける」のではなく、視線を「溺れさせる」。
視線を投げかけるのであれば、見る私と見られる海や空の間には距離があることになる。しかし、溺れさせることで、その距離がなくなる。見る者と見られる物の境界がなくなり、主客が一体化し、その逆転も起こりうる。海の上に浮かぶ小さな小舟が私になったり、物が考え、感じたりする世界。
ボードレールはそうした世界を、たった一つの動詞(noyer)だけで作り出す。その空間に視線を溺れさせることで、単に見ているのではなく、我を忘れて見ているという感じを出すことになる。さらに、死のイメージが予告される。

次に、3つの名詞が並列に置かれ、強い感嘆の感情が表現される。孤独(solitude), 沈黙(silence)、比較できないほど(incomparable)混じりけのない(chasteté)紺碧(azur)。この叫びは、広大な海と空を前にして、詩人が発する心の声だ。孤独は詩人の姿を、沈黙は詩人と青の両方を、紺碧の純潔は自然を指す。ここで人間の内面と外に広がる自然が並列されていることは、次の句の予告になっている。

小さな帆船(une petite voile)は、詩人の存在の小ささでもある。その小さな存在が、水平線の上で震え(frissonante)ている。詩人はその帆船から、自分の小ささと、どうしようもなく惨めな人生(mon irrémédiable existence)を連想する。その人生は、波(la houle)が立てる単調なメロディー(mélodie monotone)のようだと、詩人は再び慨嘆する。

ここまでは、芸術家が美を前にしたときに湧き出してくる心の動き。それ以降になると、考える(penser)という動詞をきっかけに、思考の世界に入っていく。

「全てのものが私を通して思考する。あるいは、私が全てのものを通して思考する。」

ここで中心になるのは、penser(考える)という動詞。ボードレールは、絵画や音楽、そして詩で表現されるものが感情ではなく、思考であると打ち明けている。言い方を変えれば、芸術はインスピレーションに基づくのではなく、思考に基づく、つまり人間の思考の表現ということになる。実際、ボードレールの詩作品でも、直感的ではなく、構成(composition)が大きな役割を果たしている。

そのことを前提にした上で、外に広がる世界と私が「考える」という動詞を軸に反転し、私と物が入れ替わり、私と物が一体化していることが暗示される。詩人は視線を巨大な空間に「溺れさせ」、自分と外の世界の区別が消滅するのだ。帆船と自己同一化しているだけではなく、海や空と溶け合ってもいる。

それはちょうど、ジャン・ジャック・ルソーがスイスの湖の畔で夢想しているうちに、自己と自然が一体化し、恍惚(エクスターズ)に達した体験と同じ状態。(ジャン・ジャック・ルソー『孤独な夢想者の散策』)
https://bohemegalante.com/2019/04/21/rousseau-reveries-extase/

ボードレールはその関連を論理的に行う。あえて挿入されたカッコと「なぜなら」(car)という論理的な接続詞を使うことで、冷めた意識でこの詩句が書かれていることを示す。その中で、「偉大な夢想」「私が失われる」と記すことで、ルソーの第五の散歩を暗示したのである。

その後、ルソーを離れ、ボードレール的世界とても呼べる表現を用いる。全てのものが音楽的に、そして絵画的に思考する。思考は論理的に表現されるのではなく、音楽や絵画を通して行われる。言い換えれば、視覚と聴覚を通して思考が表現されることになる。

ボードレールは美術評論の中で、自然は辞書であり、辞書をそのまま再現しても作品にはならないと主張した。辞書に掲載された単語は素材にすぎず、書き手は単語を組み合わせて新しい文を書き上げる。その文が作品なのだ。

広大な海と空、小さな帆船をそのまま再現しても、美を産み出すことはできない。自然を前にして、自然と闘い、自然を超える美を産み出す。それがボードレールの美学なのだ。

第三詩節では、この闘いの苦悩が告白される。

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