
ゴッホが画家としての活動をしたのは、1881年から1890年の間の、僅か10年弱。
しかも、1886年にパリにやってきてから、アルル、サン・レミ、オヴェール・シュール・オワーズと、彼のパレットの上に明るい色彩が乗っていた期間は、4年あまり。
フランス詩の世界で言えばアルチュール・ランボーに比較できるほど、短い期間に流星のように流れ去っていった。
そして、ランボーと同じように、生前にはまったく評価されなかった。
しかし、ゴッホの死後、比較的早く、彼の絵画を評価する動きが始まり、現在では、世界で最もよく知られ、人気のある画家の一人になっている。
彼の死を境に、何が起こったのか、当時の美術界の状況を含めて見ていこう。
印象派絵画に対する評価
フランスの画壇は、17世紀に成立した古典主義的な伝統が続き、19世紀においても、画家として公に認められるためには、毎年行われるサロンに入選する必要があった。
美を一定の規範に閉じ込める伝統的な絵画観に対する反発は、1820年代に始まるロマン主義、1850年付近の写実主義など、何度か試みられたが、伝統を打ち破るまでにはいたらなかった。

1860年代になると、エドワール・マネを中心に新しい絵画に対する動きが明確になり、1874年の第一回印象派展で、一つの形を示すことになった。
しかし、印象派的な絵画が、画壇の承認を得ることも、一般の人々の評価を獲得することもなかった。要するに、印象派の絵は売れなかった。
1880年代にも状況はそれほど変わっているわけではないが、徐々に変化の兆しを見せ始めていた。
ポール・デュラン=リュエルやジョルジュ・プティのように、反伝統的な絵画を扱う画商もいた。
ゴッホの弟であるテオドルス・ファン・ゴッホも、ブッソ・ヴァラドン商会のパリ支店責任者として、印象派の絵を買い集めた。
ゴッホがパリで世話になった画材屋ジュリアン・タンギーも、売れない多くの画家の面倒を見ていた。
彼らの後には、画商アンブロワーズ・ヴォラールも、印象派の画家たちの支えになった。
サロンとは別に展覧会を定期的に企画するようにもなっていた。
印象派展は、1874年の第1回展から、1886年の第8回展まで、8度開催された。
1882年には、画商ジョルジュ・プティが、「フランス人画家および外国人画家による国際美術展」の開催を始めた。
1883年、ベルギーのブリュッセルで、「20人展(レ・ヴァン Les XX)」というグループが、保守的な伝統に対して不満を持つ画家たちによって設立された。グループの活動は10年に渡り、展覧会が毎年行われ、ベルギー以外の国の画家たちも招待された。
1884年、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックによって、パリに、「独立芸術家協会(Société des Artistes Indépendants)」が設立され、アンデパンダン展が初めて開催された。展覧会の原則は、無審査であり、誰でも自由に出品することが可能だった。
ゴッホがパリにやってきた1886年の状況は、どうだっただろう。

スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」が大論争を巻き起こした第8回印象派展は、5月15日から一ヶ月間に渡り開催されたが、失敗に終わった。
最終日、出展した画家たちは、「まるで本当に卑怯者のように解散していった。」とスーラは述べている。

ずっと印象派の画家たちに経済的な支援をしてきたポール・デュラン=リュエルは、1886年3月にニューヨークで、「パリの印象派の画家たちによる油彩画およびパステル画展」を行った。
そこで展示されたのは、モネ、ピサロ、ルノワール、マネ、ドガ、シスレー、ベルト・モリゾ、そしてブーダンなど。
その評価は、概ね好評だった。デュラン=リュエルは、手紙の中で、アメリカ人が野蛮などということはなく、フランスのコレクターと比べて無知でもないし、型にはまってもいない、と述べている。
ある批評記事の中でも、既存の規則を無視しているのは、そこから脱却しようとしているからであり、印象派の画家たちは明確な意志を持って描いている、といった記述がある。
デュラン=リュエルの展覧会が好評だったことは、期間が1ヶ月延長されたことからも推測できる。
ただし、経済的には成功したとはいいがたく、絵に買い手がつくことはそれほどなかった。
フランス国内で注目に値するのは、二つの重要な出版物があったこと。
フェリックス・フェネオンが、『1886年の印象主義者たち(Impressionistes en 1886)』を出版し、「新印象派」という名称の下で、モネやルノワールたち第1世代と、より学問的で化学的なスーラやシニャックなど第2世代を区別し、後者が新しい時代の流れであるを主張した。

エミール・ゾラが、画家を主人公にした小説『制作(L’Œuvre)』を出版したのも、1886年。一般的には、マネとセザンヌをモデルにしていると言われる主人公クロードは、最後に息子ジャックを失い、画壇でも無視され続ける。そして、完成することができない描きかけの絵の前で、首を吊る。
この結末のために、ゾラが、友人のセザンヌやマネを始めとする画家たちを否定した、と受け取られた。
クロード・モネは、ゾラに次のように書き送る。
「私はこれまでかなり長い間戦ってきており、成功しつつあるその瞬間に、私たちの敵対者が、私たちを打ちのめすために、あなたの本を利用するのではないかと恐れています。」
この言葉は、1886年の前後で、反伝統を掲げる印象派の画家たちが、やっと認められつつあるが、まだまだ高い評価を受けるまでには至っていないことを物語っている。

ゴッホが肖像画を描いていることで有名なジュリアン・タンギーは、モンマルトルで画材屋兼画商を営んでいた。彼の店を訪れたデンマークの画家が、その様子を回想している。
風変わりな年老いた絵具屋の取るにたらない店は、印象派や総合主義の画家たちが主に利用する店のようだ。そこには、明らかに画材の代金代わりと思われる多くの絵があり、中にはとても価値のあるものも含まれていた。(中略)そこでは、たくさんの素晴らしい絵を、とても安価で見つけることができるだろう。(中略)
ファン・ゴッホは、この家を訪れる極めて特別な友人であったようだ。そこには、彼の絵のリストがあり、なかには素晴らしいプロヴァンスの風景の数々。そして、老人タンギーを、とても個性的ではあるが、荒っぽく描いた肖像があった。(中略) カミーユ・ミサロ、ギヨーマン、セザンヌ、シスレーなどの、素晴らしい作品もあった。シスレーはちょうど、公式に芸術家の一人として受けいられようとしていた。

ゴッホの弟であるテオも、ブゾ・ヴァラドン商店の店員として、反伝統の画家たちの作品を積極的に購入していた。
そのために、テオが1891年1月に亡くなった時、店の主人であるブゾは、こう言った。
現代の画家たちのひどいものをたくさん集め、それによって会社は信用をなくした。
店には、ピサロを始め、シスレー、ドガ、ゴーギャン、ロートレック、ギヨーマン、ルドン、モネなどが残されていた。
ブゾによれば、これらの画家の中で、モネの作品だけが売れるものだった。
実際、1889年のパリ万国博覧会の折に、テオはモネの絵を9000フランで購入し、アメリカ人に売却していた。
1889年には、モネが中心になり、エドアール・マネの「オランピア」を国に寄贈するための募金が行われ、2万フランを集めることができた。
そのエピソードが、ゴッホがフランスで活動した人生最後の4年間における、反伝統的な画家たちの置かれた状況を物語っている。
ゴッホの評価
ゴッホは生前ほとんど評価されることはなく、彼の絵は、ジュリアン・タンギーの店か、弟テオの所で見るしかなかった。
1890年5月、フィンセント・ファン・ゴッホは、サン・レミからオヴェール・シュール・オワーズに向かう途中、テオの住まいに数日滞在する。
その時の様子を、テオと結婚したばかりのヨハンナが描写している。

(フィンセントは)、最初の日は早朝から起きて、シャツ1枚になって、私たちのアパートに充満した、自分の絵を眺めていました。壁という壁は絵で一杯になっていました。寝室には「花咲く果樹園」。食堂の暖炉の上には「ジャガイモを食べる人たち」。居間には大きな「アルルの風景」と「ローヌ河の夜景」。それから、主婦には閉口でしたが、寝台の下にも、ソファーの下にも、戸棚の下にも、開いた小部屋にも、額縁のないキャンバスが積んでありました。それらが、みんな引きずり出され、床に広げられ、義兄の厳重な点検を受けたわけです。
売れない絵が、額縁にも入れられず、アパートに山積み状態で置かれていた。

彼の作品で、売れたのが確認されているのは、1枚だけ。
「赤いブドウ畑」。
1890年2月にベルギーが開催された「20人展(Les XX)」に出展された際に購入された。
買ったのは、アンナ・ボック。ゴッホがアルルで知り合った詩人ウジェーヌ・ボックの姉であり、画家だった。
彼女は、無名の画家を積極的に支援し、シニャック、スーラ、ゴーギャンなどの作品も購入している。
ちなみに、「赤いブドウ畑」の代金は、400フラン。(フランスのwikipediaには、現在の価格として800−850ユーロと記されているので、約10万円ほどと考えられる。)

ゴッホの生前、一度だけ、彼の作品を好意的に扱った批評記事が出たことがある。
それが、1890年1月、『メルキュール・ド・フランス』という雑誌に掲載された、アルベール・オーリエの「孤立した人々:フィンセント・ファン・ゴッホ」。

その中で、オーリエは、ゴッホの作品を「奇妙で、強烈、熱に浮かされたよう」と形容する。そして、エミール・ゾラの「気質(tempéramant)を通して見た自然」という表現を借用し、ゴッホを、気質を通して描くレアリストであるとした。
彼の絵画は、描く対象の形を捕らえながら、主観による変形があり、それが率直な真実性や、ヴィジョンの純粋さを作り出している、ということになる。
弟からその記事を送ってもらったゴッホは、返信で、「僕は嬉しいし、感謝している。— 人間には誉められることが本当に必要なのだ。」と書いている。
1月のこの記事と、2月に1枚の絵が売れたこと。この二つだけが、生前のゴッホに対する評価の印だった。
他方、1890年7月の彼の死の後から、彼の作品が公開され、評価を高めていく。タンギーの店とテオのアパートに閉じ込められていた多くの鳥たちが、開け放たれた窓から一斉に羽ばたき、飛び立つように。
1891年2月には、ブリュッセルの「20人展(Les XX)」に、油絵8点と素描7点が出品される。
同じ年の3月、パリのアンデパンダン展で、ゴッホを追悼する企画として、油絵10点が展示される。
その際には、作家のオクターブ・ミルボーや批評家のアルベール・オーリエたちから、熱のこもった賛辞が送られた。
ミルボーの「素晴らしい天分に恵まれた、直情と幻視の画家」という言葉を、もしゴッホが目にしたら、どれほど彼を喜ばせたことだろう。
1892年から93年には、亡くなったテオの妻、つまりフィンセントの義理の妹のヨハンナ・ボンゲルが中心となり、アムステルダム、デン・ハーグ、コペンハーゲンなどで展覧会が行われた。
とりわけ1892年12月のアムステルダムの芸術ホールの展示会は、122点の作品が展示され、ゴッホの知名度を高めることに貢献した。
パリでは、画商のアンブロワーズ・ヴォラールが、1895年と96年の展覧会で、ゴッホ作品を取り上げた。

こうした作品の展示の一方、ゴッホの人間としての側面を明らかにする書籍も出版される。
1893年には、画家のエミール・ベルナールが、ゴッホとの間に交わした書簡の一部を、『メルキュール・ド・フランス』誌に掲載。
その後、彼は、1911年になり、二人の書簡全てを出版することになる。
1895年になると、アルルでゴッホと一緒に暮らしたポール・ゴーギャンが、回想録を出版する。
耳切り事件など、彼しか知らない出来事が当事者の口から語られ、狂気の画家ゴッホというイメージが定着する。
伝記的な事実に関しては、ヨハンナ・ボンゲルが1914年に出版した『ファン・ゴッホ書簡集』が決定的な役割を果たした。
このように、20世紀の初頭までに、ゴッホの評価は急速に高まっていった。
それは、印象派、新印象派と呼ばれる画家たち、モネ、ルノワール、ベルト・モリゾ、スーラ、ゴーギャン、セザンヌ等の評価の高まりの中で起こったことであり、ゴッホ単独の問題ではない。
しかし、生前にはまったく無名だった画家が、わずか10年程度で広く知られるようになった理由は、時代の流れというだけではなく、ゴッホの絵画の独自性によるところも大きいだろう。

さらにゴッホの名前を世界的に有名にしたのは、1934年にアーヴィング・ストーンが出版した小説『炎の人ゴッホ(Lust for Life)』。アメリカでベストセラーになった。
1956年、この小説を原作とした映画「炎の人ゴッホ」(ヴィンセント・ミネリ監督)が公開される。主演のゴッホは、カーク・ダグラス。
ゴッホの名前と作品は、こうした媒体を通して世界中の人々に知られることになり、現在では最も人気のある画家の一人に数えられている。