摩耶山 「母なる山」に刻まれた信仰の記憶

神戸の北側にたたずむ摩耶山は、現代でこそ観光スポットとして多くの人々が訪れる場所だが、歴史を紐解くと、日本における信仰の一つの形を体現した山であることが見えてくる。

実際、過去と現在を繋ぐ糸を意識してみると、山中に点在する様々な痕跡が私たちに密かに語り掛けてくるような気がする。
そして、その声は、日本人が神や仏とどのように接してきたのかを、静かに伝えてくれている。「摩耶山は私たちを見守り続ける”母なる山”なのだ」と。

(1)古代の山岳信仰

六甲山系の一角をなす摩耶山は、大阪湾に近接し、斜面が急峻で谷川も短いため、雨が降ると、水が一気に海へと流れ落ちる。また、雲や霧が発生しやすい地形でもあり、古代の人々にとっては「天から水が降り、山がそれを受けとめ、再び海へと返す場所」として、大きな水の循環を象徴する存在と受け止められていたに違いない。

山を信仰の対象とすることは各地に見られるが、摩耶山のような水源を抱く山は、とりわけ「水分(みくまり)の神」と結び付けられ、命の水を生み出す聖なる場所として意識されていたと考えられる。

また、水の源としての山は、同時に死生観とも深く関わっている。
日本各地の民間信仰においては、人が死ぬと魂は山へ帰り、祖霊となって子孫を見守るとする観念が広く見られる。
山は、生命の源であると同時に、死者の還る異界としての性格も併せ持っていたのだ。

こうした二重性は、神々の性質にも重なっている。神は必ずしも常に善を行う存在ではなく、時に災厄や疫病をもたらす「荒ぶる神」として現れることもあった。そのために人々は、神を鎮め、その力を正しい方向に向かわせるために、「マツリ」を行った。

「マツリ」とは、神を招き、供物を捧げ、その力を調える行為である。その際、神が降臨する依代(よりしり)として選ばれたのは、巨石・滝・巨木といった自然物であった場合が多い。また、山そのものがご神体とされることも少なくなかった。

「滝」は、水の奔流に生命の力を見いだす場であり、「巨石」は不動性によって永遠性を象徴し、「巨木」は長い時間を生きる存在として、超越的な生命力を体現している。こうした圧倒的な存在感のために、それらは人間の力を超えた存在を感じさせ、神と人間をつなぐものと見なされたのだろう。

したがって、山は神が降臨する聖域であると同時に、人間が容易に立ち入ることのできない畏怖の空間でもあった。祭祀などの特別な機会を除けば、みだりに山へ入ることは避けられていたと考えられる。

摩耶山もまた、麓を流れる生田川(いくたがわ)の源流を抱く山である。
その急峻な地形は、巨岩の間を流れる水を激しく落下させ、深い谷と豊かな植生を育んできた。このような自然環境そのものが、山を聖なるものとして意識させる基盤となり、摩耶山に対する信仰を形づくっていったと考えられる。

(2)修験道の山

6世紀に大陸から仏教が伝来すると、日本人の宗教観にも大きな変化が生じた。
古代の人々にとって山は神々や祖先の霊が宿る特別な空間であり、祭祀などの特別な場合を除き、安易に入り込む場所ではなかった。
しかし、仏教が日本各地に広まると、山は修行によって悟りや霊験を求める場となり、山岳における修験道が発展していった。

その中心的な存在として語られるのが、役小角(えんのおづぬ/一般には役行者〈えんのぎょうじゃ〉)である。役小角は後世において修験道の祖として仰がれ、日本独自の山岳修行の伝統を象徴する人物となった。

ここで興味深いのは、「本来は神々の住まう聖なる場所であった山が、なぜ人間の修行の場となり得たのか」、という点である。

現代の日本人にとっては、神と仏はほとんど区別されないほど一体化している。しかし、仏教が伝来した当初から両者が調和していたわけではない。むしろ、新たにもたらされた仏教と古来の神々との関係は、長い時間をかけて形づくられていったのである。

摩耶山の山頂近くには天上寺がある。その創建は大化2年(646年)、インドの高僧・法道仙人によると伝えられ、本尊は十一面観音とされている。
この起源説話もまた、神々の山であった摩耶山が仏教と結び付けられていく過程を物語る伝承として読むことができる。

ここでは修験道という視点から、仏教が日本古来の神々とどのような関係を築いていったのかを簡単に振り返ってみたい。

「神身離脱」と「法楽」

仏教受容の過程で、崇仏派と排仏派の対立があったことはよく知られている。しかし、初期の段階では、外来の仏が古来の神々と異なるものとして理解されていたわけではなかった。

それ以前の6世紀後半から7世紀前半には、聖徳太子らによって中央集権国家への方向性が示されていた。こうした流れの中で律令国家の形成が進み、仏教が国家を支える重要な思想として位置づけられるようになると、神と仏の関係にも新たな解釈が生まれた。

仏教では、あらゆる生きものは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)の世界を輪廻転生すると説く。この世界観の中で、日本の神々はしばしば六道の最上位である天界の存在として理解された。
しかし、それは同時に、「神々もまた輪廻の世界に属する存在であり、究極的には仏の教えによる救済を必要とする」という意味でもあった。

こうして生まれたのが、「神々自身が神の身を離れ、仏法に帰依して成仏を願う」という考え方であり、「神身離脱(しんしんりだつ)」と呼ばれる。

そして、そこから発展したのが「法楽(ほうらく)」だった。
今の私たちにはとても考えられないのだが、「人間は自らで修行をし功徳を積むことができるが、神は仏教修行をすることができない」とされた。そのために、神は自らの救済のために人間の力を必要とする。したがって、人間が神の代行をしなければならない。その実践が、神域に寺院を建立したり、仏像を安置したりすることだった。(伊藤聡『神道とは何か』中公新書)

例えば、神宮寺の縁起には、神が夢に現れて寺院建立を願う説話が数多く残されている。
ある説話では、神が「私は過去世からの業によって神の身に留まっている。仏法に帰依したいが、その機会を得られない。どうか寺を建てて救ってほしい」と人間に願う。
こうした伝承は、神もまた仏による救済を求める存在として理解されていたことをよく示している。

「山岳修験道」

このような神と仏の関係の変化を背景として、古来の山岳信仰と仏教の修行が結び付き、日本独自の修験道が発展していったと考えられている。

もともと山は神々の宿る聖地として崇敬されていた。一方、仏教には険しい山中に分け入り、厳しい修行を通して悟りや霊験を求める伝統が存在していた。

両者は本来異なる性格を持っていたが、「神もまた仏法による救済を求める存在である」という思想が広がるにつれて、山中で行われる修行は、自らの解脱を目指すだけでなく、その地に鎮まる神々への供養や救済とも結び付けられるようになった。

その象徴的な存在として語り継がれているのが役行者(えんのぎょうしゃ)である。彼が鬼神を使役し、自在に呪術を操ったという数々の伝説は、山岳修行者に対する人々の畏敬の念をよく物語っている。

以上のような宗教史的背景を踏まえると、生田川の源流域に広がる深い森と険しい岩峰を擁する摩耶山の山頂に、法道仙人が天上寺を開いたとする伝承も理解しやすくなる。

古来の山岳信仰の上に仏教的な修行と救済の思想が重ねられ、この山は行者たちの修行の場として新たな意味を与えられていったのである。
現在も山中には「行者尾根」や「行者堂」といった地名が残されており、その伝統を今に伝えている。

また、山上付近には「天狗岩」と呼ばれる巨岩があり、そこには「天狗岩大神」と「石丸猿田彦大神」の石碑が建てられている。

この地には、修行僧が山中に出没する天狗を封じたという伝説が伝えられ、修験者が山の霊威と対峙する存在として認識されていたことをうかがわせる。

猿田彦は、日本神話の天孫降臨の物語において、天から降るニニギを導くため、高天原から葦原中国までを照らしたとされる神である。
その姿は、鼻が高く、赤く輝く体をしていたと伝えられ、後世には天狗を連想させる存在として語られることもあった。そして、道を開き、人々を正しい方向へ導く神として広く信仰されている。

現在でも見ることのできるこれらの信仰の痕跡は、古代以来の山岳信仰と修験道が重なり合いながら形成されてきた信仰の系譜を今に伝える遺構の一つといえる。

もう一つ興味深いのは、天上寺の本尊が法道仙人によってもたらされたと伝えられる十一面観音である。

本来、観音菩薩に性別はない。しかし十一面観音は、頭上の十一の顔によってあらゆる方向を見渡し、人々の苦しみを見つけ出して救済する存在として信仰され、その慈悲深い姿は、古くから母性的なイメージと結び付けられることも少なくなかった。

このような十一面観音への信仰は、生命を育み、水を湧き出させる山のイメージともよく響き合う。そのため、摩耶山が人々にとって「母なる山」として受け止められていく素地の一つとなった可能性もあるだろう。

そして、このような信仰的土壌があったからこそ、後世になって空海が摩耶夫人像を奉安したとする伝承が生まれ、釈迦の生母である摩耶夫人への信仰がこの山と強く結び付けられていったのかもしれない。

(3)摩耶夫人と「胎蔵界」

天上寺の起源については、7世紀に法道仙人によって創建されたという説と、9世紀に唐より帰国した弘法大師(空海)が摩耶夫人像を奉安したという伝承が併存している。

しかし、これらを直接裏付ける同時代史料は確認されておらず、歴史的事実としては慎重に扱う必要がある。むしろこれらは、寺院の由緒や聖地性を説明するために後世に形成された縁起的物語として理解する方が適切だろう。
それでもなお重要なのは、こうした伝承が長く受け継がれてきたこと自体が、摩耶山が古代から特別な宗教的意味を付与された場所であったことを示していることである。

一般に、山岳修験道における峻険な山中での修行は、修行者にとって現世における一度の「死」を意味した。そして、過酷な練行を経て山を下りることは、新たな生命を授かる「再生」を意味していた。
民俗学や宗教学においても、原始林に覆われた深い山そのものを「母親の胎内」と見立て、そこでの死と再生の儀礼(擬死再生)を通じて魂の浄化を目指す営みが、山岳修行の重要な点であったと指摘されることがある。

こうした山岳的身体経験を、より体系的な宇宙論として整理したものが密教である。
密教では現象世界そのものを大日如来(だいにちにょらい)の顕現と捉え、その宇宙構造を「胎蔵界(たいぞうかい)」と「金剛界(こんごうかい)」という二つの視点から表現する。

「胎蔵界」とは、万物を包み込み育てる働きを象徴する世界であり、しばしば母胎に喩(たと)えられる。そこでは、世界は「生成と受容の場」として描かれる。
一方の「金剛界」は、智慧や真理の明晰さを象徴する世界である。「金剛」という語が示す通り、それは破壊されることのない堅固さと鋭い認識作用を特徴とし、世界は「秩序と構造」として把握される。
密教はこの二重構造を「両界曼荼羅」として視覚化し、宇宙全体を一つの体系として捉えようとした。

こうした密教の世界観は、後世において山岳空間の解釈と結び付けられていく。
たとえば宗教史や民俗学の分野では、吉野を金剛界的空間、熊野を胎蔵界的空間として見立てる説明がなされることがある。こうした理解は当時の実践そのものというより、後世における象徴的読解かもしれない。しかし、このような解釈を可能にするほどに、人々の山への信仰心が強かったことをを疑うことができない。

摩耶山において、こうした密教的な見立てが実際に行われていたことを文献的に確証することは難しい。 しかし、天上寺の起源説話において、法道仙人と空海という二つの伝承的要素が重ねて語られている点は、単なる歴史的事実の記録というよりも、山岳信仰と仏教的世界観とが長い時間をかけて重層的に結び付いていった過程を示すものとして理解できる。
そして、そのような宗教的重層性の中で、十一面観音や摩耶夫人信仰は、摩耶山が山麓の人々にとって救済や保護のイメージを伴う聖地として受け止められてきたことを物語っている。

象徴的に言えば、摩耶山は立体的な「胎蔵界曼荼羅」として捉えうる空間なのである。


現在、摩耶山中腹の上野道・青谷道周辺には、「観音寺堰堤(えんてい)」と呼ばれる堤防が築かれているが、その名称は、かつてその地帯に観音を祀る寺院かお堂のあったことを示している。

仏教の世界では、観音菩薩はしばしば水のイメージと結び付けられ、慈悲や浄化を象徴する存在として理解されてきた。そのため、この山域において観音信仰が一定の広がりを持っていたことは、水をめぐる信仰との関連からも理解することができる。

とりわけ、山頂の天上寺の本尊は十一面観音である。十一面観音は古くから山岳信仰や水辺の霊場との結び付きが指摘されており、その慈悲はあらゆる方向に及ぶものと解釈されてきた。頭上に配された諸面は多様な姿で衆生を救済する働きを象徴し、その普遍的な救済のイメージは、万物を潤し育む水の性質とも重ねて理解されることがある。

さらに摩耶山では、釈迦の生母である摩耶夫人(まやぶにん)への信仰も重ねられている。摩耶夫人は死後に、神々が住むとされる「忉利天(とうりてん)」に転生したとされる。ちなみに、現在の寺院が、忉利天上寺と呼ばれるのはそのためである。
いずれにしろ、摩耶夫人は、仏陀誕生に関わる母性的存在として理解され、その受容性や生命を育むイメージは、観音信仰における慈悲の性格と響き合う。

このように、観音信仰と摩耶夫人信仰は、歴史的に直接連続するというのではないにしても、「母性的存在」という共通性を媒介として、摩耶山を「母なる山」として人々の胸に刻む役割を果たしてきたに違いない。

摩耶山中腹の上田道(青谷道と旧摩耶道を結ぶルート)には、「七面大天女」の石碑と小さな祠がひっそりと祀られている。

七面天女は日蓮宗で篤く信仰される守護神。
その起源については、日蓮が巨石の上で法華経を説いていた時、美しい女性の姿となった龍が現れ、「法華経を修め広める人々を末代まで守護し、その苦しみを除いて安らぎを与える」と誓ったという説話が伝えられている。

巨岩や龍神、そして女性神格という組み合わせは、山岳信仰においてしばしば見られる象徴的な要素である。摩耶山に残る七面大天女の祠もまた、この山において多様な信仰が重なり合いながら受け継がれてきたことを示す一例と見ることができる。

摩耶夫人、十一面観音、七面天女。いずれも異なる由来を持ちながら、慈悲や守護、包容といった性格を帯びた女性的な神仏である。その一方で、山中には巨岩信仰の痕跡も残されている。これらを重ね合わせるとき、摩耶山は単なる修行の場ではなく、生命を育み、守護し、包み込む母性的な霊山として立ち現れてくる。


戦乱の時代から現代へ

こうした信仰の山としての摩耶山ではあったが、他方で、六甲山脈を形成する他の地域と同様に、奈良・平安時代以降になると山林の開拓が進められるようになる。

とりわけ平安時代末期からは、平氏と源氏に代表される武家が台頭し、その戦乱に巻き込まれていった。特に平氏による福原京の造営に際しては、六甲山で大規模な木材の伐採が行われた。

鎌倉時代以降も環境の悪化は続く。元弘3年(1333年)の摩耶城の戦いで拠点となる城が築かれるなど、戦火によって六甲山の中腹や山奥まで森林が荒廃し始めた。
その状況を最もよく物語るのが、天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城の築城に際して下した「武庫山の樹木伐採勝手たるべし」という布令である。これを機に、六甲山では薪炭材(しんたんざい)としての乱伐に一層拍車がかかり、地肌の露出による山火事も多発した。こうして、六甲山の「禿山(はげやま)化」は急速に加速していったのである。

明治時代、植物学者の牧野富太郎が、瀬戸内海の海上から六甲山を望んだ際の驚きを、その著書のなかで次のように綴っている。
「私は瀬戸内海の海上から六甲山の禿山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかと思った。」

現代の姿からは想像もつかないが、かつての六甲山系は、遠目には雪と見紛うほどに花崗岩の地肌が剥き出しになった、峻烈な禿山になってしまっていたのだ。
そして、摩耶山もまた、この広域的な荒廃の波に呑み込まれ、天上寺の境内であった山頂付近をのぞき、一時は山肌が激しく傷ついた状態に陥った。

この危機的な状況に転換期が訪れるのは、明治時代の中期である。
1895年(明治28年)の大水害を契機に本格的な防災工事が実施され、緑化を目的とした山腹工事が六甲山系東側の逆瀬川上流で開始、砂防堰堤(さぼうえんてい)などが建設された。
さらに翌1896年(明治29年)にも神戸を襲った大水害を受け、明治34年(1901年)からは兵庫県による本格的な六甲山全体の緑化・災害対策事業が始動した。

私たちが今日目にする緑豊かな摩耶山の姿は、決して手つかずの原生林ではない。中世から近世にかけて人間の営みによって禿山化し、それを明治以降の人々の治水と植林の努力によって奇跡的に回復させた、自然と人間の歴史の結晶なのである。
だからこそ、現在の豊かな姿の中に潜む、過去の信仰の歴史を知ることは、摩耶山が持つ文化的な魅力をさらに深いものにしてくれるに違いない。


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