摩耶山城

摩耶山城(まやさんじょう)は、1333年(元弘3年)、赤松則村(のりむら/円心)あるいはその長男・赤松範資(のりすけ)によって築かれたとされる山城。
単一の巨大な城郭ではなく、山の斜面や尾根を防御陣地として利用した「砦(とりで)」の集合体であり、本丸を中心に曲輪(二の丸・三の丸など)が連なるように配置された、小規模な塞群(さいぐん)のネットワークであったと考えられている。

本城は標高約500メートル、現在の摩耶ケーブル「虹の駅」西側の尾根一帯に位置していたとされる。

さらに、標高約270メートル付近(現在の五鬼城展望公園周辺)には、前線拠点として「上野塞(うえのさい)」が置かれていたという。
上野塞は、麓の灘方面から本城へ攻め上がる敵軍を、本城到達前に迎え撃つための防御拠点であったと考えられている。
なぜ摩耶山城が築かれたのだろう? (歴史)
12世紀後半に源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、権力の中心は京都の朝廷から武士へと移行していた。それから100年以上が経過した頃、後醍醐天皇が天皇中心の政治を取り戻そうと、幕府に不満を抱く武士たちと結び、幕府打倒を図った(元弘の乱 1331年)。
この動きに対し、赤松一族はいち早く後醍醐天皇側に味方し、挙兵。足利尊氏や新田義貞らも加わることになる倒幕運動の、大きなうねりを作り出した。
これを脅威とみた京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)は、摂津国へ大軍を派遣して赤松氏の討伐を試みる。そして、両軍の激しい戦いの舞台となったのが、灘の地だった。
当時、六波羅軍は圧倒的な多勢であり、少数の赤松軍は平地での正面衝突を避け、険しい摩耶山中に敵を誘い込んで迎え撃つ戦略を採った。そのゲリラ的な防衛作戦の中心拠点となったのが、まさに摩耶山城だったのである。

『太平記』巻第八に描かれた「摩耶合戦」(現代語訳)

(幕府側の)軍勢(五千余騎)は、閏二月五日に京都を出発し、同十一日の卯の刻(午前六時頃)に、摩耶城の南の麓、求塚(処女塚。現兵庫県神戸市東灘区にある前方後円墳)・八幡林(現兵庫県神戸市灘区)の方角から攻め寄せた。
赤松入道(円心)はこれを見て、わざと敵を険しい場所に引き込もうと考え、足軽の弓兵百二、三十人を麓に下ろして、遠くから矢を少し射かけさせたうえで城へ引き上げた。攻め手はその勢いに乗じて、五千余騎が険しい南の坂を、人も馬も息もつかせぬ勢いで揉みに揉んで駆け上った。
この山に登るには「七曲り」と呼ばれる急で細い道があった。その場所にさしかかって、攻め手がなかなか上れずに立ち往生したところへ、赤松律師則祐(あかまつ りっし のりすけ)と飽間九郎左衛門尉光泰(あきま くろうざえもんのじょう みつやす)の二人が南の尾根の端へ下りてきて、矢を惜しまずさんざんに射かけた。
攻め手はその矢に射すくめられ、互いに相手を盾にしてその陰に隠れようとざわめいた。 その様子を見て、赤松入道の息子たち ―― 信濃守範資(しなののかみ のりすけ)・筑前守貞範(ちくぜんのかみ さだのり)・佐用(さよう)・上月(こうづき)・小寺(こでら)・頓宮(とんぐう)の一党五百余人が、刃を揃えて大山が崩れ落ちるように二の尾根から打って出た。攻め手は後ろから「退くな、引き返せ!」と叫んだが、誰も耳を貸さず、我先にと逃げ出した。
その道は、あるところでは深い泥田で馬の蹄が膝まで沈み、あるところでは茨や草木が生い茂って進むほどに道は狭まるばかりで、引き返そうにもできず、踏みとどまって防ごうにも手がかりもない。そのため城の麓から武庫川の西岸まで三里の道のりの間に、人も馬も折り重なって死に、通る者は道を塞がれて進めなかった。攻め寄せた時には七千余騎とも聞こえた六波羅の軍勢が、わずか千騎にも満たない数で逃げ帰ったので、京中・六波羅の動揺は並々ならぬものがあった。
現在、なぜ五鬼城山と呼ばれるのか?(伝承)

地元の伝承によれば、かつてこの地域には「五鬼(ごき)」という名の非常に裕福な豪族が住んでおり、貧しい人々を救済したことから、のちに守護神として祀られたという。
こうした事実は歴史の表舞台の記録としては確認されていない。しかし、かつて五鬼城山展望公園の周辺や上野道の登山道沿いに設置されていた古い案内板などの記述をまとめた『六甲山もの知り帳』といった資料を通じて、現代に伝えられている。
この「豪族説」以外に有力な可能性として考えられるのが、修験道(山岳信仰)との深い関わりである。
摩耶山は古くから高名な修験の山であり、吉野などの修験者集団や、彼らと結びついた土豪(山を拠点に武士化した在地勢力)が摩耶山の中腹に砦を築いていた可能性は極めて高い。
その中で「五鬼」という言葉には、修験道特有の背景が見え隠れする。


修験道の開祖として知られる役行者(えんのぎょうじゃ)は、山中で人々に災いをなしていた鬼の夫婦「前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)」を改心させ、従者とした。
この鬼の夫婦の間に生まれた5人の息子たちは「五鬼の御子(ごきのみこ)」と呼ばれ、それぞれが「五鬼」を冠する姓(五鬼継、五鬼熊など)を名乗って吉野の宿坊を守る一族となった。つまり、摩耶山に拠点を置いた土豪や修験者たちが、吉野の修験道とのつながりや自らの正統性を示すために、この「五鬼」の名を砦や山に冠したのではないか、という推測が成り立つ。
摩耶山の山頂付近にある「天狗岩」や「行者尾根」といった信仰の地は、かつて多くの修験者たちが実際にこの山で過酷な修行を行い、確かな足跡を残したことを証明している。

摩耶山という名前の由来

修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)とほぼ同時期にあたる646年(大化2年)、孝徳天皇の勅願により、インドの高僧・法道仙人(ほうどうせんにん)によって摩耶山の山頂に天上寺が開創されたと伝えられている。
ちなみに、この法道仙人は播磨や摂津の山岳寺院の伝承に数多く登場する伝説的な存在である。同時代の一次史料が存在しないため、歴史学的には、古代の六甲山系で活動していた無名の山岳修行者たちの記憶や足跡が、のちに「法道仙人」という一人の象徴的なキャラクターに集約されていったものと解釈されている。

その後、9世紀に入ると、806年(大同元年)に唐から帰国した真言宗の開祖・弘法大師(空海)にまつわる伝承が登場する。諸説あるものの、825年(天長2年)頃に空海が天上寺に逗留し、釈迦の生母である「摩耶夫人(まやぶにん)」の像を奉納したといわれている。
この空海によってもたらされた摩耶夫人への信仰が山全体へと広がり、いつしか山そのものが「摩耶山」と呼ばれるようになったのが、現在の地名の由来である。