フランソワ・ラブレーは、『第一の書(ガルガンチュア物語)』(1534)の最初に「前書き」を付け、ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語の読み方を指定している。

最初に、プラトンの対話編『饗宴』を取り上げ、アルキビアデスがソクラテスについて、見かけと違い、自制心と勇敢さを持っていたと褒め称えたことを思い出させる。
そして、外見と中身の対比を、「シレーノスの箱」に喩える。その箱の表には他愛のない絵がたくさん描かれているが、中には貴重な香料が入っている。
この部分は、エラスムスの『格言集』に含まれる「アルキビアデスのシレーノス」を参照している。シレーノスとは、小さな木でできた醜い笛吹きの彫像。しかし、中を開けて見ることができ、神の像が姿を現す。
ソクラテスも姿形は醜いが、しかし最高の賢者である。
ラブレーは、こうした外見と内実の対照について語った後、骨を見つけた犬の例を取り上げる。
その犬は、熱心に骨を砕き、ほんの僅かしかない滋味豊かな髄を食べる。
この犬の姿こそ、ラブレーの望む読者像だと考えることができる。
その場合には、シレーノスの箱やソクラテスの外見に留まることなく内部に至り、犬が骨をかみ砕き髄を味わうように、読者には、巨人族の物語の表面を覆う雑多な言葉の山をアレゴリー(寓意)として読み説き、その内部に潜む意味にまで至ることが期待されていることになる。
エラスムスによれば、ソクラテスは、「他の人々が地を駆け回り、海を渡り、汗を流し、言い争い、戦争を起こしてまで求めようとする全てを蔑み、どんな侮辱も超越し、財産が彼を動かすこともない。彼は何も恐れない。全ての人が恐れる死さえも蔑んでいた。」
これはルネサンス的人間の理想像であり、ラブレーは、ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語の滋味豊かな髄を食べた読者が、この理想像に近づくことを願っていたはずである。
ただし、ラブレーは一筋縄ではいかない。物語の表面を色どる滑稽な笑いは笑いのままで、気晴らしだけのために読むのも悪くないと考える余地も残されている。
滑稽な装い
私たち現代の読者が「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」を読むにはかなりの苦労がいる。名作という言葉につられて読み始めても、幾つもの障害があり、読み続けることはかなり難しい。
日本の読者には、翻訳の問題もある。
ラブレー自身が言葉遊びを多く使い、固有名詞にも工夫を凝らしているのだが、最初の訳者である渡辺一夫もラブレーに劣らない工夫を凝らしている。
例えば、ガルガンチュアが戦争をする相手、ピクロコル王の軍隊の司令官の名前はRacquedenare。
Racqueはrâcle(かき集める)、denareはdenier(小銭)に由来し、Racquedenareという音は「小銭を集める」という意味を連想させる。そこで、渡辺一夫は「銭掻強欲」という名前を作り出す。
こうした力業には感嘆するしかないが、固有名詞が頻出すると、読み進める度に注を参照するなどしないといけなくなり、苦痛になってくる。
より本質的な問題として、ラブレーが中世の民衆文化や人文主義の膨大な知識を含め、あらゆる事柄を総合した表現を物語の外見にしたことにある。
別の言葉で言えば、限りなく言葉が連射され、一つのことに関してだけでも膨大な固有名詞が列挙される。
物語や思考の進行とは関係なく、むしろ進行を意図的に止めるようにして、事物のリストアップが行われる。
例えば、すでに言及した「シレーノスの箱」に関する記述を読んでみよう。
そもそも「シレーノスの箱」と申すものは、昔用いられていた小型の箱であるが、現今薬種屋の店先に見られるものとそっくりで、その表には、愉快なまた他愛もない画像が色々と描いてあった。例えば、女面鳥身怪だとか、半人半羊だとか、鼻の穴に羽根を通されたガチョウの雛だとか、角の生えた野兎だとか、荷鞍を置いた雌家鴨だとか、空翔る山羊だとか、轅に繋がれた鹿だとか、その他、人々を笑わせるような画像が楽しそうに描いてあった。善良なバッカスの師匠シレーノスはそんな風だった。その一方、その箱の中には、バルサム香、龍涎香、アモモン香、麝香、鹿猫香、様々な薬石、その他の貴重な香料が容れてあった。
箱の表面に描かれた絵は7種類以上、内部に収められているものは7種類以上、名指されている。それら一つ一つに意味があるのかないのかわからないまま、読者はとにかく読み進めるしかない状態に置かれる。
これらの言葉の連鎖の中から、本質的なものとして取り出すとしたら、次の要素になる。
表面の絵に関しては、それらが「笑い」を引き起こすものであるということ。
中身に関しては、「貴重」なものということ。
ラブレーと同時代の読者たちは、こうした言葉の連射を面白がり、大笑いしたのかもしれない。
私たちも同じように面白がることができれば、はっきりと分からないままに読み進めることができるだろう。しかし、リストアップされたものにこだわり始めると、前に進むことができず、読書が止まってしまう。
ソクラテスについても同じことが繰り返される。
ソクラテスという人も正にその通りだったというわけなのだが、つまり、彼の姿を外面から眺め、上辺から考えてみる場合には、葱の皮一枚ほどの値打ちもなかろうと思われるくらいに、体の格好は醜く、立ち居振る舞いは滑稽、鼻はとがり、眼差しは雄牛のよう、顔つきはフウテンも同然、生活は簡単、粗野な衣を纏い、金運に乏しく、女運にも恵まれず、一切の国家公共の責務に適せず、常に笑いこけ、常に誰とでも酒を酌み交わし、常に嘲り笑って、常にその神々しい智恵を隠していたという。ところで、この箱を開いてみると、なかには、高貴無上の神薬が秘めてあったのだ。即ち、人間のものとは思われぬほどの思慮や、驚くべき才徳や、不屈の勇気や、並びない節制力や、揺るぎない恬淡無欲や、完璧な確信や、浮世の人間どもが不眠不休で、東奔西走し、汗水流したり、海へ乗り出したり、戦いあったりして尚も願い求める一切のものに対する、信じられぬほど侮蔑の念が見られるに違いない。
先に引用したエラスムスのソクラテス像と比較すると、ラブレーがどれだけ饒舌かが理解できるだろう。
こうしたリストアップは、中世からルネサンスにかけての知識のあり方と対応している。新大陸の発見や科学的な思考の発展に伴い、様々な物が収集され、蓄積された。
教会の規範に従った知のあり方に限定されていた好奇心が解放され、レオナルド・ダ・ビンチのような万能の天才が生まれた時代。

パンタグリュエルという名前が「全て(パンタ)に飢えている(グリュエル)」という意味だとすれば、事物の列挙は、その全てを具体的に表現しているということになる。
極端な場合には、パリでパンタグリュエルが訪れたサント・ヴィクトワール図書館の蔵書約140の書名が書き連ねられたり、ガルガンチュアの遊びの名前を200以上も列挙した部分さえある。

ミハイル・バフチンという学者は、知識が盛大にばらまかれた文章を、中世のカーニバル的と見なし、民衆的な笑いと繋げて考えた。
笑いに関しては、饒舌さよりも、糞尿譚的な要素で見た方が、私たちにはわかりやすい。
実際、ガルガンチュアが生まれてくるところからして、荒唐無稽で滑稽な糞尿譚になっている。
妊娠して出産が迫ったガルガメルは,大食いをして下痢になってしまう。強力な下痢止めを飲むと、体の穴が収縮し、胎児が下から出られなくなる。そこで胎児は子宮から上に飛び出し,静脈に入って体を上り,母の左耳から外に出る。誕生したガルガンチュアは、「飲もう! 飲もう! 飲もう!」と泣き声を上げる。
その後からも、子供が脱糞する時にどのような布でお尻を拭くのがいいかといった議論に、一つの章が費やされたりする。
『第二の書 パンタグリュエル物語』にも下ネタはことかなない。ここではクスッと笑えるエピソードを紹介しておこう。
巨人パンタグリュエルの口の中に入り込んだ作者(アルコフリバス)は、六ヶ月以上そこで暮らした後、現実世界に再び戻ろうと考えて口から出てくる。
パンタグリュエルに何を食べて暮らしていたかと尋ねられる。すると、「王様の喉を通過したご馳走から関税を取り立てておりました。」と応え、さらに「大便はどこでしたのか?」という問いには、「王様の喉の中です。」と答える。パンタグリュエルの反応は、「お前は愉快な奴だな」。
こうした笑いは、ガルガンチュアの起源が、民衆の間で伝わっていた物語にあることから来ている。
民間の笑話では、欺瞞、不倫、エロス、暴力などがテーマとなることが多く、下ネタも溢れていた。
後の時代の児童文学は、そうした伝承からエロスと暴力などを取り除くことで、市民の家庭で受け入れられるようになっていった。その最終的な結果がディズニー・アニメであり、不道徳と見なされる要素は全て取り払われている。
ラブレーの笑いは、ディズニーとは正反対に位置し、中世の笑いの伝統をそのまま引き継いでいる。
そうした部分は、現代の読者の中でも好みが分かれ、百科全書的なリストアップと同様、ラブレーを遠ざける可能性がある。
逆に猥雑な笑いを好む読者になると、そうした楽しみだけでラブレーを読み、それだけで終わることもあるだろう。
博識と猥雑のごった煮。ラブレーはそれを笑いの源泉と考え、「ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語」の表の面とした。
その表紙をアレゴリーとして理解することもできる。現代の読者にとっては、そうした読み方の方が実りが多いといえるだろう。
では、内部に何が秘められているのか?
その回答は、エラスムスのソクラテス像でも示されているが、ラブレー的には次の様に表現される。
「良心なき知識は、霊魂の破壊に他ならない。」
ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語を通して、この表現に示されるルネサンス的理想がどのように描かれているかを見ていくことで、現代の読者も骨の中の髄を滋養とすることができるようになる。