17世紀文学における演劇 日本の事情とフランスの状況

フランスの17世紀文学を代表するのは、3人の劇作家、コルネイユ、モリエール、ラシーヌ。
3人の芝居は、17世紀から今日まで、フランスではずっと上演され続けている。

ところが、日本では、モリエールの作品はかなり多く翻訳されているが、ラシーヌは少数、コルネイユに作品に至っては一般の読者が気軽に手に取ることができない状態にある。

その理由はどこにあるのか考え、日本ではなぜ演劇作品が読み物として受け入れられにくいのか、17世紀フランスにおいて演劇がなぜ文芸の中心だったのか、といった事情を探ってみよう。

日本の事情

第二次世界大戦の後、俳句は芸術ではなく、ただの芸であり、もし芸術と言うのであれば、「第二芸術」と呼ぶべきだという論が提出された。短歌や和歌も含め、前近代的であり、文学として質が落ちるというのがその主旨だった。

この「第二芸術論」自体はあまり意味のないものだが、しかし、論が基づく前提を考えることで、日本における「文学」や「近代」の中身を見直す機会になる。

第二芸術とされる和歌や俳句が「前近代的」だと見なされるとすると、「近代」の基準はどこにあるのか。
その答えは、明治維新。
江戸までが前近代であり、近代は明治から始まる。

黒船の来航(1853)に象徴される西欧列強の圧倒的な軍事力は、明治維新(1868)以降、日本に近代化を急がせる大きな要因となった。
仏教伝来(538)以来、日本のモデルは1300年にわたり中国であり続けたが、明治になると、日本の伝統は否定され、日本の追いつくべき理想は西洋となる。
社会のあらゆる層において改革が行われ、富国強兵といった国の政策だけではなく、例えば、和服が洋服に変わり、ちょんまげが切り落とされて洋風の髪型に変わるなど、人々の生活様式も一変した。

その時期、日本は西欧よりも劣った国であり、西欧に追いつかなければならないというコンプレックスが出来上がり、伝統的な文物を否定的に捉える傾向が強くなっていた。
その傾向を端的に示すのが、「脱亜入欧」というスローガン。日本は、遅れたアジアから脱し、先進国であるヨーロッパの一員になるという目標は、当時の価値観を端的に表している。

「文学」に関しても、同じことがいえる。
追いつくべき目標は、西洋の小説や詩となり、その結果、江戸時代までの文芸は劣っていると見なされることになった。それが第二芸術論の基本的な考え方のベースである。

ところで、「文学」という言葉は、明治時代に、英語のliterature、フランス語のlittératureを翻訳するために使われた当て字であり、江戸時代までの文藝とは違う、新しい言語芸術のジャンルを指していた。

そして、19世紀後半、「文学」として日本に輸入されたのは、主に小説であり、詩だった。
フランス文学であれば、ゾラ、モーパッサン、メリメなどの小説が翻訳され、詩では象徴派の詩人たちの作品が紹介され、大きな影響を与えた。

ここで注目したいのは、「文学」の中心が小説と詩であり、演劇は含まれていなかったということ。
17世紀から19世紀前半まで、フランスにおいては、演劇が文学の中心にあったと言えるほどの重要性を持っていた。
ロマン主義の作家たちでさえ、最初の目標は演劇で認められることだった。ヴィクトル・ユゴーも、アレクサンドル・デュマも、芝居小屋が主戦場だったと言っていいほど。
アルフレッド・ミュッセは、「肘掛椅子の中の芝居」という題名で、上演を前提とせず、椅子に座って読む芝居を執筆したが、その題名は、逆接的に、芝居が上演されることの意義を明らかにしている。

そうした状況は、1830年代後半に劇的に変化する。
当時、ジャーナリズムが飛躍的に発展し、日刊紙が創刊され、新聞の一面の下段に掲載された連載小説が人気を博した。それ以降、文学の中心が、演劇から小説へと移っていく。
詩は少数者のためのやや高級な文学、小説は大衆の文学。人気を博した小説が、舞台作品に翻案され、上演されることもあった。

フランスのこうした状況に対応して、日本に「文学」が輸入された時代、中心は小説と詩であり、演劇は片隅に置かれていた。その結果、日本の読者にとって、「文学」の中に芝居を含めることのない状況が出来上がった。
17世紀文学に関して言えば、残念なことに、中心となる3人の劇作家の作品さえ十分に紹介されることのない状態が現在でも続いている。

日本において、芝居はあくまでも劇場で観るものであり、演劇作品として読む人は少ない。セリフだけで構成された台本が出版されることもほとんどないし、一般の読者の間で流通することはない。江戸時代以前も含め、上演される作品を「読む」習慣が日本に根付くことがなかった。

演劇作品を読む時、読者はまずブロッキングに記された場所の設定を思い描き、次に誰が話の主なのか、人名を常に確認しながら読み進めなければならない。そのリズムに慣れないと、作品を読み進めることができなくなってしまう。読むためには慣れが必要なのだ。

しかし、一度そのリズムを覚えると、言葉だけで構成された文学作品を読むのが楽しくなってくる。それは、現実の私たちの体験そのものなのだ。
私たちの現実は、多くの場合、誰かと出会い、話をすることで成り立っている。人とのやり取りは言葉を中心に行われる。
演劇を読むことは、それと同じ体験。しかも、舞台の上で観る芝居とは違い、全ては読者の頭の中で展開する。登場人物は、半面が他者でありながら、半面は読者自身。そのように考えると、演劇作品を読む楽しみがどれほど大きなものか理解できるだろう。

17世紀フランスの演劇

読書という行為について、最初に確認しておきたいことがある。
本を読むという行為が、一人で黙読する作業になったのは、フランスでは18世紀だと考えられている。
それ以前、本は一人で黙って読むものではなく、声を出して読む人と、それを聞く人々がいるという状況が一般的だった。文字は、声に出されることで、人々の間に流通した。

17世紀において、書籍を朗読し、それについて会話をする場所は、宮廷かサロンだった。
サロンというのは、広間とか居間という意味だが、当時は、貴族たちの館で、女主人が主催者となり開催される集いのこと。
そこには思想家や文学者たちも招かれ、自作を朗読するなどして、会話を盛り上げることに一役買った。
フランス語の洗練がとりわけ17世紀前半の大きな課題であり、そのためにアカデミー・フランセーズが設立されたことからも、言葉が社会的に大きな役割を果たしたことがわかってくる。

その時代は、宗教戦争が終わり、王権の強化に向けた動きが出てきていた。戦争の無骨な時代から洗練された宮廷生活の時代への移行期。世紀前半のアンリ4世、ルイ13世の時代から、社会の混乱を収拾し、王の下に全てを統一しようとする動きが徐々に強まっていった。

そうした中で、社会の支配者層の間でも、繊細で品位のある言葉遣い、身分に相応しい物腰や振る舞いが要求されるようになってくる。荒々しさは遠ざけられ、洗練された上品さを身につける必要があった。
全てが理性によって支配され、美しく整えられることが、宮廷やサロンにおいて求められた。
そこに、宮廷社会の中で文芸の果たす役割があった。

そのことは、書簡や箴言だけではなく、芝居についても当てはまった。
演劇は、言葉だけではなく、俳優の身体的な動きを通して、言葉以上の情報を伝えることができる。音声情報だけではなく、視覚情報によって、観客に働きかける。そのために、より大きな効果を持つ文芸ジャンルだといえる。
しかも、社会のより広い層に向けた情報発信が可能となる。

モリエールは最初、民衆向けの役者グループの座長として、フランス各地で公演を行った。民衆向けの芝居は、野卑で素朴な笑劇だった。ただ楽しませることが目的であり、風俗の浄化とはかけ離れていた。
粗野な芝居の様子は、1645年のモリエール劇団の様子を描いた映画の一場面で見ることができる。

文字を読めない民衆の間でこうした芝居が受け入れられていたとすれば、文化を担う階層に向けては、立ち居振る舞いも言葉遣いも洗練された演劇が上演された。

同じモリエールが、ルイ14世の前で上演した『町人貴族』の一場面を見るだけで、その違いを感じ取ることができるだろう。(セリフのない、音楽とダンスだけの場面。)

パリの劇場やヴェルサイユ宮殿を初めとする宮廷で上演される演劇は、政治的な意味を持ち、絶対王政の政策と合致し、さらには、時代精神に適合したものだったはずである。

宮廷という場、サロンという場に相応しい振る舞いをすることは、その場を支配する社会秩序に従うことを意味し、社会の安定につながる。当然、言葉遣いも上品で洗練されたものになる。そうした振る舞いや言葉遣いは「プレシオジテ(préciosité)」と呼ばれ、その場に集う人々の行動原理になった。
演劇はその原理を伝達する最も有効な手段だといえる。

ルイ14世の絶対王政の確立へと向かう時代の中で、演劇が政治と同じ精神性に基づいていたことは、その時代に成立した「三単一の規則」からも推定できる。
1)中心となる筋は一つでなければならない。
2)物語は限定された時間の中で展開しなければならない。
3)物語が展開する場所は一箇所でなければならない。

劇の筋があまりにも複雑になると、観客は理解できなくなってしまう。観劇の時間が2時間であるのに、舞台上の時間が数ヶ月経過すると、実感が伴わない。場所も様々な所に移動すると、本当らしさが失われる。
従って、「三単一の規則」は、約2時間程度の上演時間の間に、一つの舞台の上で演技が行われるという物理的な制約に基づいていると考えることもできる。

しかし、それ以上に時代精神に則っていた。そのことは、その規則以外にも別の了解事項があったことから推測することができる。
4)調子の統一。
悲劇であれば悲劇、喜劇であれば喜劇というように、一つの劇の中では一つのジャンルで統一しなければならない。
5)社会通念の尊重。
芝居は集団で観るものであり、礼儀正しい振る舞いや言葉遣いを乱すような内容であってはならない。大切なことは、抑制と中庸。
6)本当らしさの重視
その場に相応しい外見を常に保ち、本当らしさを失ってはならない。

このような規則に則って作られた演劇作品は、過激さを避け、抑制の利いたものとなる。それは17世紀のフランス社会全体が向かう方向であり、観客たちが自分たちの時代のあり方を確認したり、あるいは時代精神をいつの間にか自分の中に内在化させるのに役立ったに違いない。

コルネイユ、モリエール、ラシーヌが、こうした原則とどのように向き合い、実作の中でどのように表現したのか? 
原則が確立しつつあった時代を生きたコルネイユと、それ以降のモリエール、ラシーヌに違いはあるのか?
モリエールの喜劇とラシーヌの悲劇というジャンルの違いが、どのような意味を持つのか?
17世紀の演劇作品を単に読み、自分なりの感想を持つというのではなく、原則を知った上で作品を理解することで、作品に接する面白さは全く違ってくる。

最初はセリフだけで成り立つ演劇作品を読み慣れていないために違和感を感じるかもしれないが、一旦慣れてしまれば、作品の内部が統一されているために、容易に作品世界に入っていけるようになる。
すると、登場人物が古代ギリシアの神々だろうと、17世紀フランスのブルジョワだろうと、人間の理性と情念の葛藤を巡るドラマが様々な形で展開する姿が目に入ってくる。
それが見えてくれば、17世紀のフランス演劇の世界に入り込んでいることになる。

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