野矢茂樹 日本語は非論理的か — AIが示す新しい言語観

日本語が「非論理的」だと言われることがあるのは確かである。過去には、そのことを日本人の思考や国際社会における発信力の弱さと結び付けて論じる議論も見られた。多くの場合、その対比として挙げられるのは英語である。英語は論理的であるため、自分の意思を明確に表現し、相手を説得しやすい言語だと語られることがある。それに対して、日本語は曖昧さが多いため、自国の立場を十分に主張することが苦手なのだ、といった見方である。

その一方で、日本語はむしろ論理的な言語だという反論や、日本語は繊細で微妙な表現を可能にする豊かな言語であり、「非論理的」という評価自体が日本語への不当な見方だという意見も少なくない。

その背景には、「論理的」の反対語としてまず思い浮かぶ「非論理的」という言葉が、「筋道が通らない」「支離滅裂である」といった否定的な印象を伴っていることがあるだろう。また、「感情的」という言葉も、理性的な判断を欠いた状態を意味する場合には、やはり否定的な響きをもつ。そのため、「日本語は非論理的」と言われると、日本語そのものが劣った言語であるかのような印象を受けやすいのである。

しかし、現代言語学では、言語そのものに優劣はないという考え方が広く共有されている。それ以前に、言語活動において「論理的」とは何を意味するのか、そのこと自体を改めて考えてみる必要がある。

野矢茂樹の「日本語は非論理的か」(『言語』2005年12月号所収)という評論は、この問題を考える上で、多くの示唆を与えてくれる。

(1)言語における「論理」

「論理」という言葉を聞くと、多くの人は数学や論理学を思い浮かべるだろう。論理学では、「Aが真であれば、Aではない(¬A)は偽である」といった論理法則や、「AまたはBであり、AでなければBである」といった推論の規則が扱われる。こうした形式的な推論こそが、論理学における「論理」である。

しかし、私たちが日常生活で話したり書いたりするとき、日本語であれ英語であれ、そのような記号論理学の規則を意識しながら言葉を使っているわけではない。したがって、「日本語は非論理的である」という議論も、まずこの意味での論理を問題にしているわけではない。

論理学者である野矢茂樹も、その点を明確にした上で、日常の言語活動における「非論理性」について、次のように述べている。

だが、私の感じでは、日本人が非論理的だと言われるのはこの意味においてではない。誤推論を犯してしまうのは、とくに日本人に特有のことではないだろう。むしろ、言葉の使い方があいまいであるとか、断片的であるとか、一貫しないといった意味で、日本人は非論理的だと言われるのではないだろうか。

ここで野矢は、日本語が「非論理的」と言われる理由として、「あいまいであること」「断片的であること」「一貫性に欠けること」の三点を挙げている。たしかに、私たちも日常的に耳にする説明である。しかし、これだけでは、具体的に何が「非論理的」なのかはまだよくわからない。

そこで野矢は、さらに次のように説明を続ける。

このような意味で「非論理的」と言われるときの「論理」の意味は、「言葉の意味の連関性」であると考えられる。たとえば、「姉の息子」という言葉と「甥」という言葉の連関性である。推論というのは、そうした連関性を利用して、ある根拠からある結論を導き出すことにほかならない。そのとき、とくに論理に違反しているわけではなくとも、そうした言葉の意味の連関性を強く意識したものから、ほとんど無視したものまで、程度の差が生じてくることになる。日本人が非論理的と言われるのは、まさに、その言語使用に連関性が乏しいということであると思われる。いわば、つながりがゆるく、コマ切れなのである。

この一節によって、野矢のいう「論理」が何を意味しているのかが明らかになる。

ここでいう論理とは、記号論理学の推論規則ではなく、「言葉と言葉の意味がどのようにつながっているか」という連関性である。そして、その連関をたどりながら、ある前提から結論へと至ることが、日常の言語活動における「論理的な説明」なのである。

逆にいえば、その連関が十分に示されなかったり、途中の前提が省略されたりすると、聞き手や読み手には話の筋道が見えにくくなる。そのような言語使用が、「非論理的」という印象につながることがあるというわけだ。

この点について、日本語と英語を比べると、両者には確かに違いがある。

英語は、日本語に比べると主語や目的語を省略しにくく、文の構造を言語表現の中で比較的明示する傾向がある。そのため、「誰が」「何を」「どうしたのか」という関係が文章の中にはっきり現れやすい。

一方、日本語では、主語や目的語がしばしば省略され、その意味は会話の流れや状況から理解されることが多い。また、文と文とのつながりも、接続詞だけではなく、共有された文脈や話の流れによって補われることが少なくない。そのため、日本語の文章は、一見すると断片的で飛躍しているように見えることがある。

有名な「ぼくはうなぎだ」という文も、その典型的な例である。文だけを見れば、「ぼく」と「うなぎ」が同一であるかのように読める。しかし、実際には「ぼくはうなぎを注文します」という意味で理解される。この文は、日本語では文脈が意味理解に大きな役割を果たしていることを示す例として、しばしば取り上げられる。

では、なぜ西洋では、このように文の構造や論理的なつながりを明示することが重視されるようになったのだろうか。

その背景の一つとして考えられるのが、古代ギリシア以来の論理学の伝統である。
アリストテレスは、物事について何かを述べるとき、「何について語るのか」と、「それについて何を述べるのか」という区別を重視した。このような主語と述語によって命題を構成する考え方は、その後の西洋論理学に大きな影響を与え、さらにラテン文法や近代ヨーロッパの文法観にも受け継がれていったと考えられている。

英語の subject という語も、語源をたどれば「下に置かれたもの」「基盤となるもの」を意味するラテン語に由来している。つまり、まず「何について語るのか」という対象を据え、その対象について性質や行為を述べるという発想が、その言葉の中にも残っているのである。

もちろん、英語の文法そのものがアリストテレスの論理学から直接生まれたわけではない。しかし、「主語について述べる」という命題の考え方が、西洋の論理学や文法観に長く影響を与えてきたことは確かである。

そのような伝統の中から見ると、日本語のように主語がしばしば省略され、文と文とのつながりも文脈に委ねられることの多い言語は、「論理が見えにくい」「非論理的である」という印象を与えやすいのかもしれない。

しかし、本当にそうなのだろうか。

日本語では、前提や意味の連関を必ずしも言葉の上に明示しない。それにもかかわらず、私たちは日常生活の中でほとんど支障なく意思を伝え合っている。もしそうだとすれば、日本語には、西洋の論理観とは異なる、別の仕方で意味を組み立てる原理があるのではないだろうか。

この点について、次に野矢の議論を手がかりに考えてみたい。

(2)文脈を読む高級な技術

私たちは普段、「日本語はあいまいで、断片的で、一貫性に欠ける」と言われても、それほど実感をもたない。日常生活では、それで困る場面がほとんどないからである。むしろ、日常会話のたびに「誰が、何を、なぜ、そしてその結果どうなったのか」を一つ一つ明示していたら、「理屈っぽい人だ」と思われてしまうかもしれない。

では、なぜ日本語では、言葉と言葉の意味の連関をすべて明示しなくても、十分に意思が通じるのだろうか。

野矢は、その理由を「文脈」に求めている。私たちが実際に口にしている言葉は、氷山の一角にすぎない。その背後には、話し手と聞き手が共有している知識や経験、その場の状況、人間関係など、目には見えない広大な背景が存在している。私たちは、その共有された背景を手掛かりにして、省略された情報を自然に補いながら会話を理解しているのである。

野矢は、このように述べている。

私の見るところでは、「日本的」と形容したくなる言語使用の特徴は、相手の文脈をとことん読みとろうとするところにある。いま話しかけている相手がどういう考えや知識をもっているのか。どういう文化的背景に立っているのか。そしていま現在、自分と相手が立つこの状況はどういう「場」を形成しているのか。そうしたことを読み、その上に立って、発話を行うのである。これは非常に重要な言語的技術であるが、日本人は他の外国人たちよりもその技術に長けているのではないだろうか。だが、私の考えでは、実は、日本人が研ぎ澄ませてきたこの技術こそが、日本人の「非論理性」と呼ばれてしまう特質を生み出しもしているのである。

野矢が強調しているのは、話し手は言葉を発する前に、相手がどのような知識や経験をもち、その場で何を共有しているのかを推し量っている、という点である。そのうえで、「これだけ言えば伝わるだろう」と判断して、あえて必要最小限の言葉だけを発する。このような意味の補完を相手に委ねる能力を、野矢は日本語の特徴として捉えている。

そのため、日本語では主語や目的語が省略されても、あるいは文と文とのつながりが明示されなくても、会話が支障なく進むことが少なくない。「日本語は文脈に依存する言語である」と言われるのは、このような特徴を指しているのである。

野矢は、この能力を否定的には捉えていない。むしろ、「非常に重要な言語的技術」「研ぎ澄ませてきた技術」と表現し、その価値を積極的に評価している。

こうして相手につながせようとするためには、それだけ相手の文脈をきちんと読み取っていなければならない。相手の知識はどうであり、相手はどういう人かということを把握し、さらに「場」を読んで、その上で、この場面でこの相手ならばこれでつなげられると判断して、あえて断片を送るのである。かなり高級な技術であるが、実のところ、ふつうの日本人の場合、日常のかなり低級な会話においても、それとなく発揮されている技ではある。

たしかに、親しい友人や家族との会話を思い浮かべれば、そのことはよく理解できる。「昨日のあれ、どうだった?」「うん、大丈夫だったよ」といった短いやり取りだけでも、当事者どうしには十分意味が通じる。「好き」「白い」「カレー」といった単語だけで会話が成立することさえある。これは、話し手と聞き手が多くの前提を共有しているからである。

しかし、この優れた技術には、一つの条件がある。それは、話し手と聞き手が、ある程度共通の文脈を共有していることである。もし相手が異なる文化的背景をもち、経験も知識も異なっているならば、省略された情報を同じように補うことはできない。そこでは、言葉と言葉の意味のつながりを、言葉そのものによってより丁寧に示す必要が生じる。

野矢は、この問題はもはや外国人とのコミュニケーションだけに限られない、と指摘する。

事情はいまやけっして外国人相手だけの話ではない。日本人同士であっても、その文脈や背景が読めない相手が増えてきた。この異質さに取り囲まれて、なおもこれまでのような「相手の文脈にのせて発話する」という技術で押し通そうとすると、これら異質な「読めない相手」は「話にならない相手」となり、単純に無視するということにもなる。この閉塞を破るのは、相手につなげてもらおうとするのではなく、発者の側が自分の言いたいことをきちんとつなげて相手にとどけること、つまりは、論理的に話すことだろう。

現代社会では、日本人どうしであっても、育った環境や価値観、専門知識の違いが大きくなり、以前ほど共通の文脈を前提にできなくなってきている。そのような状況で、従来と同じように「相手なら察してくれるだろう」と期待し続ければ、意思疎通はかえって難しくなる。

だからこそ、これからは話し手自身が、自分の考えを言葉のつながりに沿って丁寧に説明し、前提から結論までを相手に伝えることが重要になる。野矢は、そのことを「論理的に話すこと」と呼んでいるのである。

この点は、日本語の文法そのものとは区別して考える必要がある。日本語は英語のように主語を必ず書かなければならない言語ではないし、そのこと自体が欠点でもない。問題は、「文脈に依存できる場面」と「言葉そのものによって説明しなければならない場面」とを区別できるかどうかにある。

親しい相手との会話では、省略や含みのある表現は豊かなコミュニケーションを生み出す。一方で、背景を共有しない相手に対しては、前提を明らかにし、言葉の意味の連関を丁寧に示すことが求められる。

私は、日本語の課題もまさにそこにあるのではないかと思う。日本語そのものが「非論理的」なのではない。むしろ、文脈を共有できることを当然視し、その前提が成り立たない場面でも、なお相手に理解を委ねてしまうことがある。その結果として、「論理的ではない」という印象を与えてしまうのである。

私たちが英語やフランス語を用いるとき、SVの構文に従うのは、そうしなければ言語として成立しないというシステム上の要請による。しかし、日本語における本質的な問題は、そのような構文の形式にあるのではない。お互いの立場や背景が「異なっている」という大前提を意識せぬまま、安易に同じ文脈を共有していると思い込み、言葉によって前提から結論への推論を自力で繋げていこうとしないこと、その姿勢にこそあるのではないだろうか。

この意味で、論理的に話すとは、相手との共有された文脈に頼るだけでなく、必要に応じて、自ら言葉と言葉のつながりを丁寧に示していく姿勢なのである。これが、野矢の議論から私たちが学ぶことのできる最も重要な点ではないだろうか。


(3)一つの反論 — 相手の文脈を読んでいる?

私は、野矢茂樹の「日本語は非論理的か」を読んでいて、どうしても疑問に思うことがある。それは、日本語は「相手の文脈を読む」ことを前提として用いられている、という説明である。

野矢の意図は、日本語が「非論理的」であることを欠点として捉える見方への反論にあるのだろう。日本語では、主語や目的語がしばしば省略され、言葉と言葉の論理的なつながりが明示されないことがある。しかし、それは言語として未熟だからではなく、話し手と聞き手が状況や文脈を共有し、その中で意味を補い合う仕組みを持っているからだ、というのである。

私は、この指摘そのものに異論があるわけではない。たしかに、日本語には文脈への依存が大きい場面が少なくない。また、日本語が他の言語と異なる特徴を持っているからといって、それだけで「論理的ではない」と非難される理由もない。それは、それぞれの言語が異なる歴史や文化の中で育んできた個性と考えれば十分である。

ただ、その上で一つ疑問が残る。日本語の特徴を、「相手の文脈を読む言語」と一つにまとめてしまってよいのだろうか。

このことを考えるために、吉田兼好の『徒然草』と、16世紀フランスの思想家モンテーニュの『エセー』という、二つの随筆の冒頭を比べてみたい。

つれづれなるままに、日くらし、(すずり)にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(『徒然草』)

一方、モンテーニュは『エセー』の冒頭で、読者に向かってこう語りかける。

これは誠実な本である、読者よ。最初から予告しておく。私がこの本で自分に課した目的は、自分の家の中だけのプライベイトなもの。あたなの役に立つことも、私の名誉になることも考えてはいなかった。(中略)
このように、読者よ、私自身が私の本の素材なのだ。あなたが、こんなに軽薄でこんなに虚しい主題のために時間を使うのは理屈に合わない。では、さらば。

モンテーニュの文章では、「読者よ」という呼びかけが繰り返される。彼は、誰に向かって書いているのかを明確にし、そのうえで、この本を書く目的や題材を説明している。「役に立つためではない」「私自身が素材である」といった表現には反語的な響きもあるが、それも読者との対話を意識しているからこそ成立する修辞である。

これに対して、『徒然草』の冒頭では、読者は前面に現れない。兼好は、ただ「つれづれなるままに」、心に浮かぶことを書きつけていくという姿勢を描いている。
もちろん、だからといって兼好が読者をまったく意識していなかったと断言することはできない。この書き出し自体が、一つの文学的な演出である可能性も十分にある。しかし少なくとも、文章の出発点は、読者との対話ではなく、自らの思考や感覚の流れに置かれているように見える。

もちろん、この二つの作品だけを比べて、日本文化と西洋文化全体の違いを論じることはできない。西洋文学にも独白的な作品はあり、日本文学にも読者を強く意識した文章は数多く存在する。したがって、この比較から一般論を導くことは避けるべきだろう。
しかし、この対照は一つの示唆を与えてくれる。少なくとも日本語の表現には、「相手の文脈を読む」という側面だけではなく、「まず自分の思考や感覚の流れに従って語り始める」という伝統も存在しているように思われる。

もしそうだとすれば、日本語を「相手の文脈を読む言語」とだけ特徴づけるのは、やや単純化しすぎではないだろうか。日本語には、聞き手との共有された状況に依存する表現もあれば、読者を前面に置かず、自らの内面や思考の運動をそのまま言葉にしていく表現もある。その両方が、日本語という言語の豊かさを形づくっている。

私はむしろ、この後者の特徴こそ、日本語のもう一つの重要な側面ではないかと考えている。そして、この視点に立つと、日本語は「相手の文脈を読む言語」というだけでなく、「出来事や関係性を中心に意味を理解する言語」と見ることもできるのではないか。この点は、現代のAIの言語モデルにも通じる問題であり、次に考えてみたい。

(4)AIの言語モデル 

現在、爆発的に利用が広がっている生成AI(大規模言語モデル=LLM)は、私たちに「言語とは何か」という新しい見方を示している。

ここで「トムがリンゴを食べる」という文を考えてみよう。

従来、学校文法では、文は「主語」と「述語」を中心に組み立てられるものとして説明されてきた。
「トム」が主語、「食べる」が述語、「リンゴを」が目的語であり、英語文法でいえばSV(O)の枠組みである。この考え方は現在でも文法教育の基本であり、もちろん重要なものである。

しかし、現代の計算言語学や形式意味論では、文を別の角度から捉える考え方が広く用いられている。その中心にあるのが、「動詞を関数、名詞を引数として捉える」という関数・引数モデルである。

この考え方では、中心になるのは動詞「食べる」である。
「食べる」という動詞は、「誰が食べるのか」「何を食べるのか」という二つの情報を必要としている。
そこで、「食べる」という動詞には二つの空欄(スロット)があり、そこへ名詞が入ることで意味が完成すると考えるのである。
数式風に表せば、「食べる(x, y)」という関数があり、xに「トム」、yに「リンゴ」を代入すると、一つの出来事が成立する。「与える」であれば、「与える(x, y, z)」となり、「誰が」「何を」「誰に」という三つの要素が必要になる。
このように、動詞を「空欄をもった関数」、名詞をその関数に入る「引数」と考える見方は、論理学者フレーゲ以来、現代の形式意味論において広く用いられている。

この考え方は、プログラミングにもよく似ている。プログラムでは、関数f(x, y)に値を与えることで計算が実行される。同じように、言語においても、動詞という枠組みに必要な名詞が与えられることで、一つの意味が成立すると考えることができる。もちろん、人間の言語をそのままプログラムに置き換えられるわけではない。しかし、「ある処理の枠組みに必要な要素を与える」という発想には、共通するものがある。

現在の生成AIも、このような考え方と無関係ではない。ただし、LLMが内部で「食べる(x, y)」という関数を直接計算しているわけではない。LLMの基本的な仕組みは、膨大な文章を学習し、「ある語のあとに、どの語が続く可能性が高いか」を統計的に予測することにある。

しかし、その予測は単純な単語の並びだけを見ているわけではない。文全体の関係や文脈を同時に考慮しながら、もっとも自然な続き方を計算している。その結果として、動詞と主語・目的語との関係や、文の意味構造に対応するような内部表現が形成されることが、多くの研究によって示されている。たとえば、
・ある主張があれば、そのあとには理由や根拠が続きやすい。
・ある反論が提示されれば、それに対する再反論や別の視点が続きやすい。
・ある原因が述べられれば、そのあとには結果が現れやすい。
LLMは、このような文章全体のつながり方を膨大なデータから学習し、もっとも自然な文章を生成している。そのため、人間から見ると、あたかも論理的に推論しているかのように見えるのである。

しかし、その本質は「もっとも続きそうな文章」を予測しているシステムであって、人間のように事実そのものを理解しているわけではない。そのため、知らないことについてもっともらしい説明を作ってしまったり、古い知識をもとに回答したりして、事実とは異なる情報を生成することがある。これがハルシネーションと呼ばれる現象である。また、悪意のある指示がWebページや文書に埋め込まれていた場合、それをAIが信じてしまい、本来とは異なる応答を行うこともある。これがプロンプトインジェクションである。

このように見てくると、現代の計算言語学では、「主語から文を組み立てる」という伝統的な見方だけではなく、「動詞を中心とした関係のネットワーク」として文を捉える考え方が重要になっていることがわかる。そして、この視点から見ると、日本語にはきわめて興味深い特徴がある。

有名な例として、「ぼくはうなぎだ」という文がある。学校文法だけを見ると、「ぼく=うなぎ」と述べている奇妙な文のように思える。しかし、私たちはこの文を聞けば、「ぼくは、うなぎを注文します」という意味であることを、ごく自然に理解する。つまり、人間は単語だけを機械的に解釈しているのではなく、「注文する」という出来事全体を頭の中で補いながら意味を理解しているのである。

現代の意味論や計算言語学でも、このように出来事(イベント)や関係性を中心として文の意味を捉える考え方が重視されている。その意味で、日本語のように助詞によって名詞同士の関係を表し、文全体の意味を組み立てていく言語は、関数・引数モデルや現代の意味論と親和性が高いと言うことができるだろう。

もちろん、日本語そのものがAIの計算方法と同じであるわけではない。しかし、「言葉とは、主語と述語を積み重ねるものではなく、出来事や関係性の中で意味が成立するものだ」という発想は、現代の言語学、計算言語学、そしてAI研究が共有しつつある重要な視点である。

このような視点から、野矢茂樹の「日本語は非論理的か」を読み返してみると、また新しい発見があるかもしれない。


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