丸山真男 「思想のあり方について」 — 『日本の思想』を通して考える「今」 2/2

丸山真男の『日本の思想』に収録されている「思想のあり方について」を読んでいる。1957年に行われた講演の原稿を元にした評論だが、21世紀に入り、SNSによって変容してしまった現代の日本、さらには世界のあり方を驚くほど鮮やかに先取りしている。

一言で言えばこういうことだ。人々はSNSによって広く繋がっているように見えて、その内実は思考のコミュニティが「タコツボ化」し、仲間内だけで通用する言葉や考え方に閉じこもっている。その結果、他者への差別的な意識と言語が強化され、その反作用として被害者意識が生まれるという悪循環が形成されてしまう。そうした社会構造が、いまや完全に出来上がっているのが現状だ。

丸山がここで描いたのは、明治維新を契機に伝統的な日本の価値観へと西欧思想が急激に入り込み、そのために起こった弊害が第二次世界大戦後も地続きで残っている状況だった。しかし、そこで指摘された「タコツボ化」という構図が、いまや21世紀の世界全体にまで広がっている事実には、深い驚きと切なさを禁じ得ない。

それでも、これが私たちの生きるリアルなのだ。まずはこの現実を冷徹に認識することこそが、次の一歩を踏み出すための確かな足場になるに違いない。

(1)タコツボ化した世界

「タコツボっていうのは文字通りそれぞれ孤立したタコツボが並列している型であります。近代日本の学問とか文化とか、あるいはいろいろな社会の組織形態というものがササラ型でなくてタコツボ型である」、と丸山は言う。

では、この二つの型の違いはどこにあるのだろうか。

タコツボとは、文字通り小さな壺のことだ。横並びにどれほどたくさん並べられていても、一個一個は完全に孤立していて、他の壺との横のつながりを持たない。

丸山はこの孤立のあり方をより明確にするために、料理道具の「ササラ」を対比させる。細く裂いた竹や木を束ねたササラは、一本一本の先端こそ独立しているが、根元の軸の部分でしっかりと一体化されている。そのため、一箇所で起きた変化が、全体へと連動していく可能性を秘めている。

この対比から見えてくるのは、タコツボ型の社会では小さな集団がどれほど乱立しようとも、それらの間は断絶し、共通の基盤が存在しないという事実だ。そこでは、他者との真のコミュニケーションなど成立するはずもない。

私は、かつて丸山が日本社会に見出したこの病理が、現代において、世界規模でパンデミックのように広がっていると考えている。

確かに、SNSは一見すると世界中を繋ぎ、膨大な情報を絶えず私たちに届けてくれる道具に見える。しかし、その情報の「質」に目を向けたとき、現実はどうだろうか。

私たちが日々受信しているのは、自分と同じ価値観や思想に基づいた情報ばかりではないか。どんなに情報の数が多くても、それを共有する人間の数がどれほど膨大であっても、それは一つのタコツボのサイズが巨大化したにすぎない。そこでの「いいね」は、多様性の広がりではなく、むしろ同質性の証明でしかないのだ。

しかも恐ろしいのは、これが私たちの主体的な選択によるものではなく、アルゴリズムによって自動的に最適化(配給)されている点だ。
こうした情報を受け取り続けると、やがて同種の情報にしか触れなくなり、あたかも見えない膜に包まれたかのような「フィルターバブル」と呼ばれる状態に陥ってしまう。
このバブル(泡)の内側では、自分と似た考えや意見だけが響き合い、それ以外のものは自動的に排除(フィルタリング)される。そのため、私たちはバブルの外側にある「他者の存在」そのものに気づかなくなっていくのだ。
その意味で、私たちはすでにITに内面を支配されているとさえ言える。しかも最悪なのは、自分がそのバブルに閉じ込められていることにすら、誰も気づいていないという点だ。これこそが、いま現代の世界で起きていることなのだ。

世界中が、かつてない規模で、まさに巨大なタコツボの群れと化している。これが現代社会の偽らざるポートレート(肖像)ではないだろうか。

(2)タコツボ内の隠語の発生と偏見の沈澱 

タコツボ化した集団の内部で一体何が起こるのか。この問いに対する丸山の考察もまた、驚くほど現代社会にそのまま当てはまる。

まず、同質の壺の中では、「そこに属している仲間だけで通用する言葉なりイメージなりがおのずから発生するということになる」と丸山は言う。

同じ価値判断が何の疑いもなく流通し、それを語るための特別な言葉――いわば「隠語」のようなものが発明されるのだ。その言葉を使うこと自体が仲間である証となり、それを口にしさえすれば、論理的な検証を経ることなくすべてがそのまま受け入れられる。

その結果、強固な仲間意識が形成されると同時に、外部との決定的な断絶が生まれる。丸山の言葉を借りれば、「インズ(内輪)とアウツ(よそ)というものが峻別される」ことになるのだ。

かつての日本で言えば、これは完全な「村社会」の構図である。よそ者に閉ざされているだけでなく、内輪の掟に従わない者は「村八分」として容赦なく排除される。丸山は当時の状況をこう描写している。

こういうふうになりますと、会社であれ、大学であれ、組合であれ、当然うち同士だけで通用するいろんな価値基準なり、言葉というものが発生し、そこから集団内部の言葉の隠語化がおこってくるわけであります。その集団の内部だけで通用するものの考え方感じ方が発生し、しかもそれがだんだん沈澱してくるわけです。つまりアウツに対してインズの了解事項が集団の下層に沈澱してきますと、お互いの間同士ではそんなことは当然でいまさら議論の余地がないと思われることが、だんだん多くなってくる。

この「お互いの間同士ではそんなことは当然でいまさら議論の余地がないと思われることが、だんだん多くなってくる」という事態こそが、タコツボ化した集団の最も根深い病理だ。

「議論の余地がない」とは、裏を返せば「異論を一切受け付けない」ということであり、同質でないものは最初から存在しないものとして扱うことを意味する。彼らの世界からは他の壺の存在が消去され、自分たちの壺だけが世界のすべてであるかのような錯覚が生まれる。

ここで丸山が指摘した「隠語の発生」と「思考の固定化(沈殿)」は、現代のネット社会におけるスラング(特定のコミュニティで使われる隠語や俗語)やミーム(SNSを通じて人から人へ模倣・拡散される画像、動画、フレーズ)の蔓延にそのまま重なる。
しかし現代には、丸山の時代には見られなかった、さらにタチの悪い現象が加わっている。それが「エコーチェンバー(共鳴室)」だ。

エコーチェンバーとは、閉ざされた小部屋の中で音が反響し、増幅していく物理現象を指す。これがSNS空間に持ち込まれるとどうなるか。閉鎖的なタコツボの中で、自分と似た意見を持つ人々だけが繋がり、互いの主張に「いいね」を送り合う。すると、その言葉は何度も反響(エコー)しながら肥大化し、やがて極端な思想へと先鋭化していくのだ。

かつてのタコツボ化は、地縁や組織といった物理的な「小さな集団」の集まりにすぎなかった。しかし現代のタコツボは、SNSのネットワークによって世界規模に巨大化し、その数も無数に増殖している。

その結果、人々はタコツボの外側にいる「サイレントマジョリティ(声を上げない多数派)」の存在を忘却してしまう。あるいは、その見えない外部を心のどこかでおぼろげに恐れているからこそ、防衛本能のように言葉を過激化させ、他者への攻撃性をより一層強めていくのではないだろうか。

(3)被害者意識の氾濫 

昭和時代における「タコツボ」は小さく、その内部にいる人々も自分たちの属する世界が狭いものであるという自覚を持っていた。したがって、自分たちがどれほど正論を主張しているつもりでも、それはあくまで「小さな集団の中の正義」に過ぎないという意識があり、それが社会の巨大化と相まって特有の被害者意識を生み出すこととなった。以下の一節は、そうした丸山の考えを明確に映し出している。

しかもこういうふうに個別的な集団がタコツボ化し、しかもわれわれのコミュニケーションの範囲がますます拡大する、つまり社会がだんだん大社会になっていくということになると、各自の属している集団相互のイメージのぶつかりあいがますます強く印象づけられる。しかも自分の属している集団というものは、社会が厖大化(ぼうだいか)するに従って、実質的には大きな勢力をもつものも、その集団自身の眼には非常に小さなものとして受けとられてくる、そこでこういうふうなところでは、おのおののグループというものが、それぞれ自分たちをマイノリティとして意識するという現象が発生することになります。つまり、おのおののグループがそれぞれ一種の少数者意識、やや誇張していえば強迫観念 — 自分たちは、何か自分たちに敵対的な圧倒的な勢力に取り巻かれてるっていうような、被害者意識を、各グループとくに集団のリーダーがそれぞれ持ってるということになるわけであります。

どれほどタコツボ化した集団の中に閉じこもっていても、その外側に異質な集団が存在することは意識せざるを得ない。すると、たとえ自分たちの集団の方が規模が大きく、かつ自分たちの正義と優位を確信していたとしても、巨大な社会全体の中では、他集団の方が優位にあるのではないかという不安が生じてくる。その結果、それぞれの集団が自らをマイノリティ(少数者)であると感じ、周囲を取り囲む他集団や環境全体を敵対的な存在と見なす傾向が生まれる。これこそが、被害者意識の源泉にほかならない。

この丸山の分析は、現代の「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」によって、より強固に構造化されたインターネット空間の病理を的確に照射している。仮想空間のタコツボ(コミュニティ)において、どれほど「いいね」やフォロワー数が膨らもうとも、構成員のマイノリティ感は消えない。むしろ、目に見えない「メジャーな敵」から不当に軽視されているという、過剰な被害者意識ばかりが肥大化していく。

厄介なのは、この被害者意識を反転させる形で、外部への執拗な攻撃が始まる点である。彼らはタコツボ内部でのみ通用する隠語を駆使し、外部の敵を叩く。 集団の同質性によって「自分たちの絶対的正義」が内々で保証されているため、彼らの攻撃にブレーキはかからない。それどころか、攻撃すればするほどタコツボ内の結束は強まり、非難は過激化する。 SNS上で見られる執拗な誹謗中傷や脅迫の根底には、まさにこのタコツボ的空間がもたらす集団心理が存在していると考えても、間違いではないだろう。

(4)テック・エリートの黄金のタコツボ

タコツボ化し、分断された社会において、それぞれのタコツボが特有の被害者意識を生み出していくプロセスを、丸山眞男の論をたどりながらSNS社会の現状とともに確認してきた。しかし、2020年のコロナ禍を経て、2025年に発足した第2次トランプ政権下において、丸山の分析では想定されていなかった新たな現象が明確な形を取り始めたように思われる。

それは、被害者意識とは正反対の、「勝ち組意識」に貫かれた一部の人間たちの活動が、国家という枠組みすら超える権力を発揮しつつあるという現実である。

シリコンバレーをはじめとする巨大IT企業(GAFAMなど)の経営者や幹部、高度な技術を有するエンジニア、そして莫大な資本を動かす投資家たち ― これら「テック・エリート」は、巨万の富と圧倒的な社会的影響力を独占する特権階級であり、まさに「黄金のタコツボ」とでも呼ぶべき閉鎖空間に君臨している。

ここでの深刻な問題は、SNSがもたらした仮想タコツボ化によって社会が分断され、一つ一つの「壺」が互いに関連性を持たずに並置された結果、「公共(パブリック)」という概念そのものが崩壊の危機に瀕している ― あるいは、すでに失われてしまった ― という点に由来する。

本来、公共(パブリック)とは、個と個の間に存在し、私と他者を繋ぐ空間である。それは特定の誰かに属するものではないが、同時に、私たち全員に開かれたものでもある。いわば「私の空間」ではないが、「私たちの空間」ではあるのだ。私有地ではないため、一個人が自由に私物化することはできないが、そこが放置され荒廃すれば、巡り巡って「私」自身にもその不利益が及ぶ。

かつては、こうした公共(パブリック)への意識が社会の共通資本として機能していた。そのため、プライベートな利益のみを最優先し、パブリックな領域に損害を与える行為は明確な倫理違反と見なされ、多くの人々にとって、それを慎むことが自然な社会的道徳であった。 しかし、パブリックという概念自体が機能不全に陥った社会では、自らのタコツボにのみ引きこもり、その内部における利益の最大化を追求することが、何ら悪びれることなく許容されてしまう。

例えば斎藤幸平は、『人新世の「黙示録」』の中で、こうした現代の傾向を「選民ファシズム」と名付けた。黄金のタコツボに立てこもるごく少数の勝ち組たちが、富を独占して格差を固定化し、圧倒的多数の他者を切り捨てようとしているという指摘である。

その結果、近年では、かつて公共の利益として要請されていた「エコロジー(環境保護)」への配慮が語られる機会は急速に減少しつつある。地球規模の気候変動を食い止めようとする連帯の動きよりも、むしろ地政学的リスクや紛争の激化をも利用し、自らの技術覇権や資本利益を貪欲に追求する動きさえ目立つようになった。

その結果、近年では、かつて公共の利益として要請されていた「エコロジー(環境保護)」への配慮が語られる機会は急速に減少しつつある。地球規模の気候変動を食い止めようとする連帯の動きよりも、むしろ地政学的リスクや紛争の激化をも利用し、自らの技術覇権や資本利益を貪欲に追求する動きさえ目立つようになった。

このような状況下において、黄金のタコツボがもたらす結果は、かつて小さなタコツボが内向的な被害者意識を発生させていたものとは本質的に異なる。彼らにとって、圧倒的多数の人間は、自らの提供するITシステムに依存することで利益をもたらしてくれる「市場」や「資源」にすぎない。そうして他者を都合よく位置づけた上で、彼らは自らの利益と欲望を最大化することに、何のためらいもなく邁進する。

現在、私たちの目の前で起こりつつあるのは、まさに斎藤が考察したような、「欠乏と格差を固定化させるテクノ資本主義」が前進を続ける状況かもしれない。

としたら、そこにストップをかけるものは、分断された小さなタコツボを少しずつ連動させることで、社会を多少なりとも「ササラ」型へと変質させ、世界全体に「公共性」を回復させる試みということになるだろう。


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