清岡卓行  ミロのヴィーナス 解読からリテラシーへ 1/2

清岡卓行(きよおか たかゆき、1922年 – 2006年)の『手の変幻』(美術出版、1966年)に収められた「失われた両腕」と題するエッセイは、「ミロのヴィーナス」という題名で高校の国語教科書にしばしば採用されている。その理由の一つは、冒頭の一節がきわめて謎めいた文章で綴られているからではないかと思われる。

ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、僕はふと不思議な思いにとらわれたことがある。

通常であれば、完全なものが美しく、そこから何かが欠ければ美しさは損なわれると考えられる。ミロのヴィーナスについて、「欠損があるにもかかわらず美しい」と言うのであればまだ理解できる。しかし清岡は、「両腕を失っていなければならなかった」と、むしろその欠損を積極的に肯定する。腕がないからこそ、彼女はこれほどまでに魅力的なのだ、と。腕がないにもかかわらず美しいのではない。腕がないからこそ美しいのである。

その「逆説」を不思議に思うのは清岡だけではない。この一節を読む私たち読者もまた同じである。そして、その違和感ゆえに、私たちは一気にこのエッセイへと引き込まれる。

教科書に採用されるもう一つの理由は、抽象的な用語が随所に散りばめられ、それらの言葉を具体的な記述と結び付けながら読み解くことが、このエッセイの読解の鍵となるからだ。(そのうえ、こうした語句は漢字テストの題材としても格好の素材となる。)

このことは、僕には、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄であるようにも思われる。

この一節を読んだだけでは、多くの読者にとってその意味を理解することは容易ではないだろう。だからこそ、作品中の具体的な記述を手がかりとして、「特殊」「普遍」「具象」「全体性」といった用語が何を指しているのかを考えることが必要となる。

こうした読解の作業を通して、高校生たちは、ほとんど思考することなく流し読みできるSNSの短文からは得られない種類の読解力を身につけていく。その価値は、情報が洪水のように押し寄せる現代において、むしろますます大きくなっていると言えるだろう。

しかし、「失われた両腕」(教科書では「ミロのヴィーナス」)の読解は、そこで終わらない。
テストの正解を求めるためだけに読むのではなく、作品の内容を理解したうえで、さらにもう一歩踏み込んで考えることによって、私たちは現代社会において重要なリテラシーを養うことができる。

それは単に「何が書かれているかを理解する」ための読解力ではない。詩人であり作家でもあった清岡卓行の評論を通して、性急に理解したつもりになることなく、その前提にある事柄を探り、「疑う力」を養い、自らの美意識や世界観を見つめ直し、既成の価値観を問い直す思考の営みである。
この作品は、そのような思索へと読者を誘う評論なのである。

(1)書かれている内容を理解する ー 読解力の育成 

A)3つのレベル

冒頭の一節をあらためて読んでみると、そこには三つの要素が重ね合わされていることがわかる。

ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、僕はふと不思議な思いにとらわれたことがある。

まず、物理的・物質的なレベルにおいて、「完全」と「不完全」という対立が示されている。これはミロのヴィーナスという彫刻の外見、具体的には両腕があるかないかという問題である。(1・2)

これに対して、「魅惑的」や「不思議な思い」という言葉は、見る者の意識や感覚に関わる非物質的なレベルを示している。そして、「美」もまた、このレベルにおいて感知される。(3)

つまり、この冒頭の一節には、「完全」と「不完全」という物質的な対立と、それを見つめる人間の内面に生じる「美」や「魅惑」といった精神的なレベルとが重ね合わされているのである。

この三つの要素を意識しておくことで、『ミロのヴィーナス』の理解は格段に容易になる。

B)逆説

一般的には、「完全」(1)と「美」(3)が対応する。
ヨーロッパでは古代ギリシアの時代から、人間が最も美しいと感じ、最も調和が取れていると感じられる比率を「黄金比」と呼び、理想的なプロポーション(均整)の基準とされてきた。

ミロのヴィーナスもまた、その均整の取れた姿によって人々を魅了してきた。清岡は次のように述べている。

その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中の広がりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魔がそこにはたたえられている。

目で見ることができる「均整」は(1)であり、それが人間に及ぼす力、つまり人に美しいと感じさせる力を、清岡は詩人らしく「魔」(3)と呼ぶ。

この一般論に対して、腕が欠如している「不完全」(2)な彫刻が美しいと感じられる(3)というのが、「逆説」である。

清岡卓行は、そのことについて「逆説」ではなく、「実感」なのだと言う。

僕はここで逆説を弄しようとしているのではない。これは僕の実感なのだ。

「逆説」と言うと、どこか理論的で理知的な営みのように受け取られるかもしれない。しかし、「実感」と言われると、それはより率直で感覚的なものとなり、まさに非物質的なレベル(3)に属するものとして響いてくる。

ではなぜ、「不完全なもの」(2)、つまり腕のないミロのヴィーナスに対して、そのような魅力を「実感」(3)するのだろうか。

清岡はその点について、次のように説明する。

失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕 が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。

腕が存在しないからこそ、ヴィーナス像を見る人々は、「存在すべき無数の美しい腕」を想像することができる。そのようにして想像される腕は、現実に存在する腕ではなく、「心象的な表現」(3)にほかならない。

だからこそ、腕が欠如していること(2)は、「ある捉え難い神秘的な雰囲気」(3)や「生命の多様な可能性の夢」(3)を呼び起こす。そして、そのことによって、ヴィーナス像は単なる「不完全な彫刻」ではなく、見る者の想像力を無限に広げる存在となるのである。

別の言葉で言うと、清岡は「欠損そのものが美しい」と言っているのではなく、欠損によって想像力が解放されることに美の根拠を見ているのである。

C)偶然

美術作品において、「欠如」から美が生まれる条件として、清岡はもう一つの要素を指摘する。それが「偶然」である。

ミロのヴィーナスは、ギリシアの島で農民によって偶然発見されたが、その時にはすでに両腕を失っていた。
その後、フランスに購入され、パリのルーブル美術館に収蔵されることになる。
こうしたヴィーナス像のたどった「運命」は、決して彫刻家があらかじめ予定していたものではなく、「偶然」の積み重ねにほかならない。

これを物理的なレベルで考えると、彫刻家が意図して造ったのは、両腕を備えた完全な女神像(1)だった。しかし、その後の偶然の連鎖によって腕が失われ(2)、さらに発見され、遠くパリへと運ばれたことになる。

別の言い方をすれば、ミロのヴィーナスは最初から腕のない像として造られたのではない。誰かの意図によって腕を切り落とされたわけでもない。偶然によって腕を失ったのである。そして、その偶然の結果として生じた欠如が、かえって像に特別な魅力を与えることになった。

清岡卓行は、ここでもいかにも詩人らしく、そのことを、ヴィーナスをあたかも生きている一人の女性であるかのように「彼女」と呼び、「偶然」をまるで彼女自身の意志であるかのように語る。

彼女はその両腕を、故郷であるギリシャの海か陸のどこか、いわば生臭い秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。いや、もっと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。よりよく国境を渡っていくために、そしてまた、よりよく時代を超えていくために。

もちろん、現実にはヴィーナス像に意志などない。腕を失ったのは歴史の中で起きた偶然の出来事である。しかし清岡は、その偶然を単なる事故としては捉えない。まるでヴィーナス自身が、自らの美しさを完成させるために無意識のうちに両腕を隠したかのように語るのである。

彫刻そのものは物理的なレベル(1・2)に属する存在である。しかし、それを生きた人間のように捉えるなら、「彼女」は感覚的・心象的なレベル(3)の存在となる。したがって、「うまく忘れてきた」あるいは「無意識的に隠してきた」という行為もまた、(3)のレベルに属する表現である。

ここで興味深いのは、「偶然」が単なる歴史的事実ではなく、詩的な解釈によって「運命」へと転化されている点である。本来であれば無意味な事故でしかないはずの出来事が、美を生み出す契機として読み替えられているのである。

そして、物理的な制約を超えた存在として語られるからこそ、「彼女」は国境を越え、時代を超えることができる。言い換えれば、古代ギリシアで生まれた一体の彫刻が、日本に生きる現代の私たちに対しても、なお強い魅力を放ち続けているのである。

清岡が見ているのは、単なる彫刻の美しさではない。偶然によって生じた欠如が、人々の想像力を呼び覚まし、その結果として作品が本来の時代や場所を超えて生き続けるという、美の不思議な働きなのである。

D)「特殊」と「普遍」、「部分」と「全体」

以上のように、三つのレベルを前提としてこのエッセイの前半を読み解いてみると、最初に掲げた抽象的な言葉が、それぞれどのレベルに対応しているのかが見えてくる。

このことは、僕には、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄であるようにも思われる。

この中で最もわかりやすいのは、「部分的な具象の放棄」という表現だろう。これが女神像の腕の欠如(2)を言い換えたものであることは、比較的容易に理解できる。

そして、その欠如した腕は、「存在すべき無数の美しい腕」への暗示を生み出す。つまり、腕の欠如(2)は、感覚的・心象的なレベル(3)へとつながっていくのである。

そう考えると、「ある全体性」とは、この(3)のレベルを指していることがわかる。それは単に彫刻全体の形を意味するのではない。一対の現実の腕を超えて、見る者の心の中に広がる無数の可能性を含み込んだ全体である。

しかも清岡は、その過程を「偶然の肉薄」と表現している。ヴィーナス像は、彫刻家の意図によってではなく、偶然によって腕を失った。しかし、その偶然の結果として生じた欠如が、かえって作品を「全体性」へと近づけることになったのである。

一方、「特殊から普遍への巧まざる跳躍」も同じ構造を持つ。
「巧まざる」とは、ほぼ「偶然」と対応し、意図的な技巧や理論によるのではなく、自然に、あるいは結果としてそうなったことを意味する。

ここでいう「特殊」とは、まず第一には、失われたこの両腕という具体的で個別的な事実である。しかし、その特殊な欠如は、見る者の想像力の中で「存在すべき無数の美しい腕」へと開かれていく。
そして、そう考えるなら、「普遍」とは、みんなに共通するものであり、単に多くの人が共通して感じる美というだけではない。個別の形を超えた無数の可能性そのものを意味していることになる。

つまり、一対の具体的な腕という「特殊」が失われたとき、その背後にある無限の可能性という「普遍」が立ち現れる。その跳躍は、誰かが計画したものではない。「偶然」によってもたらされた欠如が、結果として実現したものなのである。

清岡卓行は、ミロのヴィーナスの失われた両腕を通して、欠如とは単なる不足ではなく、個別的なものを超えて普遍的なものへと私たちを導く契機になり得ることを示しているのである。

E)「量」と「質」、「有」と「無」

ミロのヴィーナス像は、腕があるよりも、むしろない方が魅惑的である。その考えをさらに明確にするために、清岡は失われた両腕を復元しようとする試みについて言及する。しかし、その試みに対する彼の評価は最初から定まっている。

したがって、僕にとっては、ミロのヴィーナスの失われた両腕の復元案というものが、全て興ざめたもの、滑稽でグロ テスクなものに思われてしかたがない。

もし腕を付け加えれば、「存在すべき無数の美しい腕への暗示」は消えてしまう。そうなれば作品は「興ざめたもの」、つまり味気なく情緒を失ったものとなるだろう。また、その姿が像にふさわしくないと感じられれば、滑稽なもの、あるいはグロテスクなものにさえ見えるかもしれない。

この点について、清岡は再び抽象的な言葉を用いて一般論として論じる。

ここで問題となっていることは、表現における量の変化ではなくて、質の変化であるからだ。表現の次元そのものが既に異なってしまっている時、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へ遡ったりすることができるだろうか?一方にあるのは、おびただしい夢をはらんでいる無であり、もう一方にあるのは、たとえそれがどんなにすばらしいものであろうとも、限定されてあるところのなんらかの有である。

ここでいう「量の変化」とは、物理的なレベルにおける変化である。欠如した腕(2)に対して、新たに腕を付け加え、完全な姿(1)へ戻そうとする試みがそれにあたる。

実際、ヴィーナス像の復元案としては、左手にリンゴを持つ姿や槍を持つ姿、あるいは群像の一部として構成する案など、さまざまな説が提唱されてきた。

しかし、そのような形態上の変化は、単なる物理的な変化にとどまらない。そこには感覚的・心象的なレベル(3)の変化が伴う。清岡が言う「質の変化」とは、そのことを意味している。
そして、その「質」とは、具体的には「対象への愛と呼んでもいい感動」のことである。

さらに清岡は、その理由を「無」と「有」という対比によって説明する。
ここでいう「無」とは、単なる不存在ではない。失われた腕によって生じた空白が、「存在すべき無数の美しい腕」を想像させる状態である。だからこそ、それは「おびただしい夢をはらんでいる無」なのである。

それに対して「有」とは、具体的な形を持つ存在である。
しかし、どれほど美しい腕であったとしても、それは一つの形に限定された存在にすぎない。清岡が「限定されてあるところのなんらかの有」と呼ぶのは、そのためである。
つまり、一対の具体的な腕を与えれば、そこにあった無数の可能性は失われる。無限に広がっていた想像力は、一つの形へと固定されてしまう。

だからこそ私たちは、「腕のないヴィーナス」に深く魅了されるのであり、そこから「腕のあるヴィーナス」へ戻ることを望まないのである。

清岡卓行にとって芸術とは、そのように人間の想像力を解放するものであった。だからこそ、たとえ復元された腕が歴史的に正確であり、本来の姿を忠実に再現したものであったとしても、彼はなおそれを受け入れない。

僕は一種の怒りをもって、その真の形を否認したいと思う。

それは歴史的事実への反抗ではない。むしろ、「無」が生み出した豊かな可能性を守ろうとする、詩人としての美意識の表明なのである。

F)手・腕の表情 人間存在における象徴的な意味

清岡がミロのヴィーナスの腕にこだわるのには理由があった。
そのことは、「失われた両腕」(「ミロのヴィーナス」)が収録されている『手の変幻』というエッセイ集を貫くテーマが、「人間のあるときの手の表情が、その人間全体とどのように関わるかという問いを密かに持ち続けて、奇妙な強迫観念」であったことからもわかる。

だからこそ、彼にとってヴィーナス像に欠けているものは、「両腕」でなければならなかった。

失われているものが、両腕以外の何ものかであってはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われていたとしたら、僕がここで述べている感動は、恐らく生じなかったにちがいない。(中略)
なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? 僕はここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっと切り詰めて言えば、手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。

「トルソ」とは、頭部や四肢を欠いた胴体中心の彫像を意味する。そして「トルソの美学」とは、顔の表情などの具体的な感情表現を排し、肉体そのものの形態や量感を通して生命力や精神性を表現しようとする美学だと言える。

清岡が問題にしているのは、そのような意味での肉体美ではない。これまで見てきた「ほとんど飽きさせることのない均整」の問題を論じようとしているのでもない。
彼が注目するのは、腕や手が持つ「人間存在における象徴的な意味」である。

では、その象徴的な意味とは何か。

ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段である。言い換えるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喩はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよなくたたえた、ある文学者の述懐は不思議に厳粛な響きを持っている。どちらの場合も、極めて自然で、人間的である。

ここでいう「実体」と「象徴」は、これまで見てきた物理的なレベル(1・2)と非物質的なレベル(3)に対応している。そして、両者が「合致」し、「交渉」するところに、人間の感情や意味が生まれるのである。

その意味で、「手」は単なる身体の一部ではない。世界との関係、他者との関係、さらには自己との関係を媒介する、人間存在の根本的な器官なのである。

だからこそ清岡は、機械を「手の延長」と呼ぶ哲学者の比喩に美しさを感じる。機械とは、人間が世界へ働きかける能力を拡張するものであり、手と同じく人間と世界との関係を媒介するものだからである。

また、恋人の手を初めて握る幸福が特別な意味を持つのも、手が他者との最も直接的な接触の場だからである。

つまり、「手」とは単なる物体ではない。そこには常に感情や意味が宿っている。そして人間は、手を通して世界と結びつき、他者と触れ合い、自分自身を表現しているのである。

だからこそ、ミロのヴィーナスは腕を失うことによって、逆説的に腕や手の意味そのものを浮かび上がらせる。

美術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。

ここでいう「アイロニー」は、単なる皮肉ではない。むしろ、本来なら失われたことで価値が減少するはずのものが、その欠如ゆえにかえって豊かな意味を獲得するという「逆説」を指している。

腕が存在していれば、それは一対の具体的な腕にすぎない。しかし腕が失われたことで、私たちは「存在すべき無数の美しい腕」を想像することができる。欠如が想像力を解放し、存在そのものを超えた可能性を開くのである。

だからこそミロのヴィーナスは、単なる欠損した彫刻ではない。失われた両腕によって、世界との関係、他者との関係、そして人間存在そのものを象徴する「手」の意味を、かえって鮮やかに語り続けているのである。


このように、「失われた両腕」(「ミロのヴィーナス」)というエッセイを構成する言葉を一つ一つたどりながら読んでいくと、清岡卓行の関心が単にミロのヴィーナスという彫刻そのものにあるのではないことが見えてくる。

彼が注目しているのは、本来であれば欠陥であるはずの「両腕の欠如」が、かえってその彫刻の魅力の源泉となっているという逆説である。そして、その逆説を手がかりとして、芸術とは何か、人間とは何かを問い続けているのである。

ミロのヴィーナスは、一個の大理石の彫刻にすぎない。物理的な存在という意味では、それは単なる「物」である。しかし、その欠如は見る者の想像力を呼び覚まし、「存在すべき無数の美しい腕」を思い描かせる。そして、その想像力の働きによって、私たちは作品を通して世界や他者、さらには自分自身との関係を見つめ直すことになる。

だからこそ、清岡にとって重要なのは「量」ではなく「質」であった。つまり、芸術の価値は物としての豊かさという「量」によるのではなく、人がどれだけ豊かな気持ちになれるか、また、その感受性や想像力をどれほど深く広げることができるかによって決まる。その意味で芸術とは、「世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段」にほかならない。

清岡卓行は、ミロのヴィーナスが両腕を失っているにもかかわらず魅惑的であるという一つの実感から出発し、欠如が想像力を解放し、人間をより広い世界へと開いていく過程を描いた。「失われた両腕」(「ミロのヴィーナス」)とは、単なる美術評論ではない。芸術を通して、人間と世界との関係を見つめ直すための人間論なのである。


ここまでの解説を通して、清岡卓行の思考の流れをたどり、具体的な内容と抽象的な言葉との対応関係を整理することで、高校生たちにも「失われた両腕」(「ミロのヴィーナス」)に何が書かれているのかを理解する手がかりを示すことができたのではないだろうか。

しかし、このエッセイの魅力は、そこに書かれている内容を理解するだけでは尽きない。

さらにもう一歩先へ進み、「唯一の正解」を求めるのではなく、清岡の文章から派生するさまざまな視点を探り、その意味をより深く読み解いていくこと――ここではあえて「リテラシー」と呼ぶことにしたい――は、大人になってからの読書の楽しみを味わわせてくれる。

そこで次は、この「リテラシー」の世界へと進んでみることにしよう。(2/2に続く。)


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