泉鏡花が友人から贈られた摩耶山の絵はがきを目にしたとき、その風景は、幼くして失った母への思いと、摩耶山山頂の天上寺に祀られる釈迦の生母・摩耶夫人(まやぶにん)のイメージと重ね合わさって、いかにも鏡花らしい幻想の世界を生み出していった。それが、『峰茶屋心中』(『新小説』大正6年4月号)の冒頭に描かれた摩耶山にほかならない。

ここでの目的は、作家の想像力の働きを辿ることにある。そこで、まずは大正期の古い文体ではなく、現代語訳によってその世界に触れ、その後、『峰茶屋心中』に関しては、時代の息遣いを感じさせる鏡花の文章を読んでみることにしよう。
『一景話題』(明治44年)に収められた「夫人堂」の冒頭には、摩耶山の絵はがきを受け取ったときの思い出が綴られている。
神戸にいる親しい友人の西本氏が、先日、摂津国の摩耶山の絵葉書を送ってくれた。その便りには、次のように書き記されていた。
「亡くなった母が恋しくてたまらなくなり、二里(約8キロ)の山道を一気に駆け登りました。たなびくかすみの向こうに、慈愛に満ちた光を放つ(摩耶夫人の)尊いお姿を拝むことができました。」
これを行間から読み取るだけで、言葉にできないほどの懐かしさが胸に込み上げてくる。実は、私もまったく同じ思いを抱えている身なのだ。はるか遠くから摩耶山のあたりに思いを馳せるだけでも、あの端正で美しい(お母様の、そして仏様の)お姿が、ちょうど芽吹いたばかりの若葉の梢に包まれて、まるで紫色の薄い衣をまとっていらっしゃるかのように目に浮かんでくる。
泉鏡花は、1枚の絵はがきと母親への強い愛着に導かれ、実際には訪れたことのない摩耶山を、想像力によって幻想的な色彩に染め上げながら描き出していく。その結実が、『峰茶屋心中』にほかならない。
『峰茶屋心中』は、山道の茶屋を舞台とする恋愛悲劇である。男女の愛は現実社会のしがらみの中で破綻し、やがて死と異界へと向かっていく。その舞台となる摩耶山は、人間世界から異界への境界領域として描かれ、愛の浄化、異界への旅、そして母性的な救済といった、鏡花作品にしばしば見られる主題を包み込んでいる。そこには、生を超えたところで愛が完成されるという、鏡花文学に特徴的な世界観を見て取ることができる。
それでは、主人公・松山樫吉が摩耶山へ登っていく場面から読んでいこう。
I
樫吉(けんきち)は、その日うまく都合をつけることができ、武庫郡(むこぐん)にある摩耶山の夫人堂(ぶにんどう)へと参詣した。……それはふと思い立ったにすぎない登山ではあったが、彼にとっては、何年も前からずっと願い続けていた宿願を果たすためのものであった。そのため、せめて心の中だけでもと、心身を清めて忌みを慎む(精進潔斎する)ほどの覚悟で臨んでおり、決して軽薄な物見遊山などではなかったのである。
空は花曇りになることもなく、春もすっかり深まったその日の朝は、まばゆく輝いていた。ただ、どこか頼りなげで、地を這うような軽い風が、なんとなく不穏に周囲のものを揺り動かすように吹いていた。それが、のちに大地を震撼させることになる大風大雨の前触れだったのだ。
身支度を整えて下宿を出発し、さあ、摩耶山の麓(ふもと)に到着したという時点までは、風が少し強まった程度にすぎなかった。晩春には珍しいほどに空は青々と晴れ渡っていたのだが、いよいよこれから登ろうと山頂を仰ぎ見た、その時のことである。
ここから、鏡花が想像の中で作り上げた摩耶山が描き出されていく。
山頂の瑞々しい新緑の中には遅咲きの桜が咲いており、あたかもこれから参拝する(摩耶夫人の)尊いお姿のようであった。しかし、その峰には、ぼんやりと霞んだ別の不気味な峰が重なり、陰気な山の影がぴったりと寄り添っていた。峰に峰が重なり、山に山が重なり合って、それはまるで、天空に浮かぶきらびやかな竜宮城を、巨大な海坊主が遮って隠そうとしているかのように見えた。これこそが、不気味に湧き起こった怪しげな雲の仕業であった。
日の光は次第に、次第に陰っていき……それが、見る見るうちに、たちまち足元まで真っ黒な影に覆われた。ちょうど通りかかったこのあたりには木立など一本もないというのに、まるで鬱蒼とした枝葉に包まれてしまったかのような暗さである。
次の場面では、山を下りてくる人々と、ただ一人山頂を目指す樫吉との対照によって、現実世界から異界への移行が象徴的に示される。その境界を越えなければ、彼が追い求める夫人、すなわち母の姿を拝することはできないのである。
しばらくの間、風はぴたりと止み、あたりはしんと静まり返って、雨粒はまだ一滴も落ちてこない。
けれども、まるで激しい雨のようにせわしなく、突風のように慌ただしく押し寄せてきたものがあった。それは、峰から、山頂から、まるで巻き落とされるようにして必死に下山してくる大勢の参拝客の足取りであった。
その身なりも姿もさまざまで、男も女も、老いも若きも、着物の裾をたくし上げ、手には木履(下駄)を持ち、動転して羽織を裏返しに着たまま走っている者さえいる。……日傘を肩に担いだ商人も、売り物の玩具を背負った行商人も、その群衆の中で、まるで何かから逃げ出すかのようにして走っていく。
そんな中、山頂を目指して進む者は、ただ一人、自分の影だけを連れた樫吉だけであった。
「おもしろいものだね、京都へお参りする道は、 上っていく人々もいれば、下っていく人々もいる……」
彼の故郷(金沢)では、これは信徒が本願寺へ参詣する道中に歌う小唄であった。かつて耳にしたその小唄は、松並木の街道を大勢の人々が絶え間なく行き交う様子を、のどかで楽しく思い起こさせるものだった。しかし、いま目の前にあるのは、ただ慌ただしさと、気ぜわしさと、不穏な行く末を案じる不安、そしておぞましい雨雲だけであった。
しかし、誰一人として、親切心から彼の登山を引き留めようとする者はいなかった。それもそのはず、柄(ガラ)に合わない場違いな行動だからだ。たとえば、電信柱の作業員がワイヤーを伝って高い煙突の上へと飛び移るのを見て、「これこれ若い者、危ないぞ」とわざわざ叫ぶようなお爺さんやお婆さんがいないのと同じことなのである。
彼の年齢(三十歳)といい、身なりといい、山登りをするには見た目にも申し分のない屈強な若者であった。そのため、山の上から真っ逆さまに襲いかかってくる暴風雨に追われ、命からがら逃げ下りてくる群衆のために、たった一騎で敵陣に取って返し、矢を放って敵の猛追を食い止めようとする勇敢な武者のようでもあった。
樫吉はにわかに闘志を燃やし、意気揚々とした。 「槍でも降れ、雹(ひょう)でも来い! 俺は里芋の葉っぱじゃないんだ、これしきの嵐で破れはしないぞ。」
実際、尊くも美しい摩耶山の貴女(摩耶夫人、ひいては亡き母)に、自分が三十歳になって初めてお目にかかろうというのだ。それなのに、ウグイスのさえずりや、蝶の舞う穏やかな風、小鼓のように優しく響く滝の音などという生ぬるい演出では、あまりにも俗世間(シャバ)じみていて退屈すぎる。これからの拝謁には、阿修羅が妨害のために打ち鳴らす激しい風太鼓や、海坊主が激しく浴びせかける激しい雨の槍襖(やりぶすま)こそが、おあつらえ向きではないか。

現実世界から異界へ至るには、必ず境界を越えなければならない。『峰茶屋心中』において、その境界として現れるのが「不動滝」である。
人間というものは、恋しさも、懐かしさも、慕わしさも、そして愛おしさも、すべてに命を懸けることこそが幸福なのだ。
この颯爽とした彼の勇気を真っ向から迎え入れるように、激しく、そして清らかに音を立てて鳴り響いたのは、忉利天上寺(とうりてんじょうじ)へと続く雲と霧の道中にある、その名も「不動滝」であった。
よし、ここまで来ると、すでに人間どもはすべて下界へと掃き出されてしまったかのようで、垢(あか)ほどの人の影すら見当たらない。空はまるで一面に墨を流したように真っ黒になり、白い滝つぼへと矢のように激しく流れ落ちる水は、やがて血にまみれて濁ろうとする大濁流の前兆として、青白く澄みきっている。それはまるで、水面が稲妻をいっぱいに湛(たた)えているかのようであった。そして、漆のように真っ黒に濡れた岩肌を砕いて、青いしぶきが、まるで燃え盛る炎を注ぐかのように激しく飛び散っていた。
II
坂道は、この不動滝を境目にして一変した。――それまでは左右の崖を見渡しても目立つような松の木など一首もなかったのに、ここへ来ると、たちまち一本の道が急にうねり、険しく折れ曲がって、生い茂る巨木の密林の下をくぐり抜けていくようになる。――ここがいわゆる「七曲り」と呼ばれる難所である。――生えているのは、天を突き刺すような大木の杉や、ツガやモミといった、年中青葉を絶やさぬ常緑樹(常盤の木)であり、それが鬱蒼と繁茂して暗闇を作り出している。むき出しになった樹木の根とゴツゴツした石が、激しく、鋭く、険しく重なり合っていた。
樫吉は(それまでの高揚感から一転して)眉を険しくひそめた。
やがて、第一陣となる摩耶山特有の激しい山おろしが、密林の梢を激しく吹き抜け、まるで天狗が巨木を投げ落とすかのような凄まじい轟音を立ててドッと通り過ぎた……と思ったのは、ほんの一呼吸の間のこと。生い茂る枝葉が、上空からの激しい雨をかろうじて受け止めていたのだ。そう思う間もなく、大粒の雨がパラパラと激しく落ちてきた。とその途端、一陣の突風がサッと吹き荒れ、足元の石を巻き込み、ゴロゴロと雷鳴が轟いて、吹き上がった砂煙で視界が真っ赤に染まった。風はもはや虚空を渡っているのではない。大地を削り取るようにして、凄まじい勢いで這い飛んでいるのである。


泉鏡花は、わずか一枚の絵はがきを起点として、実際には訪れたことのない摩耶山を、現実と幻想とが溶け合う独自の世界へと昇華している。
そこに働く想像力の力には、あらためて驚嘆せずにはいられない。