
2026年6月、ユネスコの諮問機関が「飛鳥・藤原の宮都」の世界文化遺産への登録を勧告したというニュースが流れた。対象となるのは飛鳥時代の宮殿や仏教寺院の遺構、墳墓などで、「文化的伝統や文明を伝承する物証として無二、あるいは少なくとも稀有な存在」との評価を受けたという。
世界遺産への登録を推進する側からは、以下のような趣旨が発表されている。
『飛鳥・藤原』−この言葉から多くの方が連想されるのは「日本の心のふるさと」です。これは、この地で東アジアとの政治的・文化的交流によって中央集権体制に基づいた宮都が誕生し、日本国誕生の舞台となったから、そして、その歴史の舞台が、1300年以上も経た現在も、田園景観の中に良好に伝えられてきたからです。
https://asuka-fujiwara.jp/asuka-fujiwara/
こうした言葉を読むと、なんとなく納得するところもあるのだが、具体的に掘り下げてみると、例えば「日本国誕生の舞台」という言葉が本当は何を意味しているのか、はっきりとわからなかったりする。
それに、そもそも飛鳥時代とはいつ頃のことで、その前はどの時代だったのか、あるいは藤原京がいつ・どこに存在したのか、すぐに答えられる人はそれほど多くないのではないだろうか。
しかし、少し調べてみると、現在の日本の骨格が飛鳥時代に出来上がったことが見えてくる。この時代を知ることは、まさに「今」を理解することにつながっているのだ。
これから少しだけ、飛鳥時代へとワープしてみよう。
(1)「日本」と「天皇」という呼称
私たちはごく自然に、「日本」という国が縄文時代から連続して存在していたかのように捉えがちである。一方で、かつてこの地域が「倭国」と呼ばれていたことも、ある程度は知られている。しかし、「倭」から「日本」へと国号がどのような背景のもとで転換されたのかについて、意識的に考える機会は多くない。
この点については歴史家の間でも見解が分かれるが、「天皇」という称号とともに、「日本」という国号も7世紀の飛鳥時代にその形成過程が進んだとする見方が有力である。
「日本」という国号については、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇の治世(673〜686年)において対外的・内的に使用が進み、その後、689年に発布されたとされる「飛鳥浄御原令」において制度的に位置づけられたとする説がある。他方で、「倭」に代わって「日本」という名称が公的に広く定着するのは、大宝律令(701年)の制定以降とみる立場もある。
一方、「天皇」という称号については、『万葉集』に見られる「大王は 神にしませば」といった表現に示されるように、もともとは「大王(おおきみ)」が一般的な呼称であったとされる。この称号が「天皇」へと転換した時期については、法隆寺薬師如来像光背銘(607年と伝えられる)を根拠に推古朝に求める説と、天武天皇の治世に制度化されたとする説があり、現在では後者を重視する見解が比較的有力とされている。
こうした歴史的経緯を踏まえると、「日本」という国号と「天皇」という称号はいずれも、飛鳥時代において国家の枠組みが再編されていく過程の中で形成されていったものと理解することができる。
(2)「飛鳥時代」

学校時代の歴史の時間を思い出してみると、縄文時代や弥生時代の印象が強く、その後少し時代が下がって、奈良時代、平安時代へと続く流れは記憶にある。
また、古代の日本では前方後円墳などの古墳が盛んに造られ、邪馬台国には卑弥呼という女王がいたらしいことも知っている。
しかし、「飛鳥時代」という名前は、少なくとも私の記憶の中ではおぼろげな像しか結ばないものだった。
そこで昔の歴史年表を開いてみると、弥生文化時代の次は古墳文化時代、そして白鳳(はくほう)時代、奈良時代と続いている。他方、Wikipediaの「日本の歴史」の項目を見ると、古墳時代(大和時代)、飛鳥時代、奈良時代という順だ。
要するに「飛鳥時代」とは、古墳時代と奈良時代の間にある時代だということがわかる。
そしてその事実を知ると、なぜ世界文化遺産の構成資産の中に、石舞台古墳(いしぶたいこふん)や高松塚古墳、キトラ古墳といった「古墳」が含まれているのかが納得できる。
石舞台古墳に埋葬されているのは、蘇我馬子(そが の うまこ)だと考えられている。彼の没年は626年であるため、石舞台古墳は、7世紀の飛鳥時代に入ってもなお古墳が造り続けられていたことを示していることになる。
「西壁女子群像壁画」でよく知られる高松塚古墳に関しては、被葬者は確定していない。だが、天武天皇の皇子とする説もあることからもわかるように、藤原京期(694〜710年)に築造された終末期古墳だと考えられている。
キトラ古墳の被葬者に関しても、同じく天武天皇の皇子などの可能性が指摘されていて、7世紀末から8世紀初頭に造られた古墳だとみなされている。



こうした古墳が世界文化遺産の構成資産に含まれていることは、古墳時代と飛鳥時代がある年代を境に明確に区切られるのではなく、古墳の文化が7世紀になってもまだ継続していたという事実を、私たちに教えてくれている。
そう考えると、Wikipediaの「日本の歴史」の項目において、古墳時代が「7世紀まで」とされ、592年から始まる飛鳥時代と期間が重複しているという、一見すると少し矛盾した記述になっていることにも合点がいく。
(3)天皇を中心とする律令国家の形成
すでに見てきたように、「天皇」という呼称が公式に使用されるようになったのは、7世紀後半の天武天皇以降だと考えられている。しかし、その後の歴史においては、それ以前の大王(おおきみ)に対しても「天皇」の名称が使われるのが通例であるため、ここでもその慣例に従うことにする。
聖徳太子の国家政策

飛鳥時代の始まりについては歴史家の間でも見解に幅があるが、一般的には592年に推古天皇が即位し、翌593年にその甥である厩戸王(うまやどのおう/聖徳太子、574〜622年)が摂政となった頃を画期として捉えられることが多い。なお、推古天皇は『日本書紀』において確認できる範囲では、最初期の女性天皇の一人である。
この時期、蘇我馬子らとともに、天皇を中心とする中央集権体制の構築が志向された。その過程で遣隋使が派遣され、中国大陸の進んだ政治制度や文化、さらに仏教・儒教などの思想体系が積極的に導入されていく。
とりわけ6世紀半ばに伝来した仏教をめぐっては、その受容の是非をめぐり激しい対立が生じたが、最終的には受容派が優勢となり、仏教が国家秩序の中に組み込まれていくことになる。
蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営された「飛鳥寺」は、本格的な伽藍を備えた日本最初期の寺院の一つとされる。
その創建の背景について、『日本書紀』は、蘇我馬子が仏教排斥派との対立に際して、「諸天と大神王の奉為に寺塔を起立てて、三宝を流通せむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建立したと伝えている。



604年に聖徳太子が制定したとされる日本初の成文法ともいわれる「十七条憲法」においても、第2条に「篤く三宝を敬え」と記され、仏・法・僧の三宝を尊び、心の拠り所とすることが説かれている。
また聖徳太子は、飛鳥から斑鳩へと居所を移し、法隆寺の建立に関わったとされる。
法隆寺は後に保存・修理を経て現存し、1993年には「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。



当時の国家としての高揚感は、聖徳太子が遣隋使に託して隋の煬帝(ようだい)に届けたとされる国書の文面からも窺い知ることができる。そこに記された「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや(つつがなきや)」という文言は、煬帝を激怒させたという。これは、倭国が隋に対して対等な外交関係を求め、中国を中心とする冊封(さくほう)体制には組み込まれないことを宣言したものだった。
「大化」の改新
その後、7世紀の半ばになると蘇我氏の一族がさらに勢力を伸ばす。例えば、舒明(じょめい)天皇が崩御すると、その皇后を皇極(こうぎょく)天皇として即位させ、蘇我入鹿(いるか)が実質的な権力を握るようになった。

こうした状況に対し、645年に中大兄皇子(なかのおおえのみこ/後の天智天皇)が中臣鎌足(なかとみのかまり)の協力を得て立ち上がり、蘇我氏を打倒する(乙巳(いっし)の変)。そして、日本で最初の年号を「大化」と定め、都を飛鳥から難波(なにわ)へと移すなどして人心の一新を図った。これが「大化の改新」の始まりである。
新政府は、皇室や豪族の私有地・私有民を廃止して国家の管理下におく「公地公民制」や、戸籍を作製して人々に土地を分け与え、税を徴収する基盤とする「班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法」などを打ち出し、中央集権国家の確立を目指す抜本的な改革を遂行していった。
現代の日本においてごく当たり前に使われている「元号(元号制度)」の歩みは、まさにこの645年に制定された「大化」から始まっている。その意味でも、飛鳥時代こそが「日本国誕生」の時代であると言える。
ただし、天皇の交代時にのみ元号を変える「一世一元(いっせいちげん)の制」が定着したのは明治時代以降のことであり、それ以前の長い歴史においては、天変地異や疫病などの災害、あるいは吉祥(めでたい出来事)を理由に、頻繁に元号が改められていた。
壬申の乱と律令国家の確立


現代の日本にとっても最も大きな意味を持つのは、まさに壬申の乱と、それを主導した天武天皇から始まる天武・持統朝の政策である。
その最大の理由は、天武天皇が編纂を命じた『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)の存在にある。
現存する最古の書物であるこの二つの書は、神話と古代史の基礎であり、日本の歴史におけるすべての出発点となっている。
そこで語られるのは、世界が初めて生まれた瞬間を描く「天地開闢(てんちかいびゃく)」から始まり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)がその孫であるニニギを天から地上へと降ろす「天孫降臨(てんそんこうりん)」へと続き、そのひ孫にあたる神武天皇が国土を平定して、辛酉(しんゆう)年1月1日、橿原宮(かしはらのみや)で初代天皇として即位する、という一連の物語だ。

では、こうした日本の神話・歴史書の基層を形作る『古事記』『日本書紀』の記述の中に、天武・持統朝の出来事が反映されていることはあるのだろうか。
そこでしばしば指摘されるのが、「天孫降臨」における「祖母と孫」の関係である。実際、天照大御神とニニギの関係は、持統天皇と文武天皇の関係を想起させる。
女帝である持統天皇が、子である草壁皇子の早世を経て、孫の文武天皇に皇位を継承するという歴史的事実が、神話においては、女神(天照大御神)の子であるオシホミミが降臨を辞退し、最終的に孫のニニギに地上の統治権を授けるという物語に投影されている、と解釈できるのである。

もちろん、歴史学的な観点から、この対応が意図的なものであったと断定することはできない。天孫降臨神話そのものは、『古事記』『日本書紀』の編纂以前から存在していたと考えられており、その構造には古い宗教的・祭祀的背景が含まれている可能性も指摘されている。しかし、当時の人々がこの神話の中に持統・文武への継承を重ね合わせて理解した可能性は十分に考えられる。
その視点から見ると、「天孫降臨」の物語は政治的に大きな意味を持つ。天皇が天照大御神の子孫であることを示すことは、皇統の正当性を裏付けることにつながるからである。そこで最も重要な意味を持つのが、「血統」であった。
この点は、中国の政治思想と比較するとより明瞭になる。
中国では、「天は徳のある者に天下を委ねる」と考えられ、皇帝は「天子」と呼ばれた。もし皇帝が徳を失えば、天命は別の者へ移り、新たな王朝が成立する。この思想は「易姓革命(えきせいかくめい)」と呼ばれ、中国史においては王朝交代を正当化する理論として機能した。
一方、日本では、歴代天皇は太陽神である天照大御神の血統を受け継ぐ神聖な存在として位置づけられてきた。そのため、皇位の正統性は天照大御神へと連なる血統に求められ、王朝交代という観念は基本的に生じなかった。
この考え方は後世の武家政権の時代にも受け継がれ、実質的な政治権力が将軍に移った後も、将軍はあくまで天皇から任命される征夷大将軍として統治を行った。こうした権威と権力の分離は、天皇を中心とする統治理念が長く維持される一因となり、結果として「万世一系」と称される皇統の継続を支えることになった。
こうした血統による皇位継承の正当化は、壬申の乱によって皇位を獲得した天武天皇が、その皇統を自らの系統へ継承させようとした政治的意図とも重ね合わせて理解することができる。
天武・持統朝において、「日本」という国号が確立し、「天皇」が神の「血統」を引く存在であるという信仰が定着したのだとすれば、この時代こそはまさに「日本国誕生」の時代だったと言っても過言ではない。そして、その誕生の舞台となった空間が、「飛鳥・藤原の宮都」だった。
そのような視点に立ち、改めて壬申の乱以降の歴史的状況を俯瞰していこう。
壬申の乱は、672年に天智天皇が崩御した後の皇位継承をめぐって勃発した、古代史上最大級の内乱である。
天智天皇の皇子であり近江朝廷を担った大友皇子に対し、吉野に退いていた天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)が挙兵し、約一か月にわたる戦乱が畿内とその周辺を舞台に展開された。その過程で大海人皇子は東国の軍事力を巧みに掌握し、最終的に勝利を収めた。
その後、大海人皇子は天智天皇の都であった近江大津宮(現在の滋賀県大津市)を廃し、再び飛鳥へと拠点を移す。そして「飛鳥浄御原宮」を造営し、天武天皇として即位した。




天武天皇は、壬申の乱をともに戦った鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ/後の持統天皇)を皇后に立て、特定の有力豪族に大臣職を独占させない「皇親政治」を推進した。
これにより、天皇および皇族を中心とする政治運営が志向され、後の律令国家形成の基盤が整えられていく。
『日本書紀』によれば、天武天皇9年(680年)、鸕野讃良皇后が病に倒れた際、天武天皇はその平癒を祈願し、「薬師寺」の建立を発願したとされる。
後に平城京遷都に伴い寺院が西ノ京へ移転したため、旧地の寺は「本薬師寺」と呼ばれるようになった。



天武天皇の崩御後、その政治理念は持統天皇に引き継がれ、律令国家の制度整備とともに、後世に続く日本の統治機構・宗教秩序・歴史観の基礎が形作られていくこととなった。
その象徴的な事業の一つが、本格的な「都」の建設である。
天武天皇は、一代ごとに、あるいは一人の天皇の治世中に何度も遷宮を繰り返していたそれまでの慣例を改め、恒久的な首都となる「藤原京」の造営を構想していたと考えられている。そして、その巨大プロジェクトを完成させたのが持統天皇だった。
事実、藤原京は、日本で初めて南北の中央に「朱雀大路(すざくおおじ)」を配し、南北の道路(坊)と東西の道路(条)を碁盤の目状に組み合わせた、左右対称の方形都市プラン「条坊制(じょうぼうせい)」に則って造られた中国式の都城だった。
ここには持統天皇をはじめとする三代の天皇が居住し、和銅3年(710年)に平城京へ遷都されるまで、日本国の首都としての機能を果たした。



明日香村には、天武天皇と持統天皇の二人が埋葬されている夫婦合葬陵がある。もともとは天武天皇のために造られ、持統2年(688年)に埋葬されたが、その後、702年に亡くなった持統天皇も火葬され、同じ墓に合葬されたとされて、現在では、持統天皇陵古墳(野口王墓古墳)と呼ばれている。



政治制度の面においては、持統天皇の孫である文武(もんむ)天皇の時代、大宝元年(701年)に「大宝律令」が完成・発布される。
このようにして、聖徳太子の時代に蒔かれた種が「大化の改新」を経て「大宝律令」に至り、天皇を中心とする律令国家の集大成がついに完成を迎えたといえる。
こうした制度的完成と並行して進められたのが、『古事記』(712年)および『日本書紀』(720年)の編纂だった。これらは単なる歴史書ではなく、天皇の支配の正統性を神話的に基礎づける国家的プロジェクトだといえる。
そこでは、天照大御神から天皇家へと至る系譜が明確に示され、天孫降臨神話や神武東征といった物語を通じて、天皇の支配が神意に由来するものであることが体系的に説明される。そのようにして、政治制度としての天皇制と、神話的世界観としての王権起源が一致する形で再構成されたのだった。
「飛鳥・藤原の宮都」の世界文化遺産への登録勧告というニュースを契機に、飛鳥時代をほんの少し振り返ってみるだけでも、私たちの「今」が当時の歩みと地続きで直結していることがひしひしと感じられる。
「日本国誕生の舞台」という言葉の真意を探り、私たちが過去から続く歴史を問い直すこと。それは、日本とはいかなる国家なのかを見つめ、これからどのような方向へ進むことが国民の幸福につながるのかを考える、大きなきっかけになるに違いない。
構成される遺産は以下のHPに記されている。