丸山真男 「である」ことと「する」こと — 『日本の思想』から日本を知る 1/2

丸山真男の「『である』ことと『する』こと」は、1958年(昭和33年)の講演を下敷きに執筆され、『日本の思想』(岩波新書、1961年)に収録された評論であるが、21世紀の現在でも、日本社会や日本人の心理構造を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。

その理由は、政治学者である丸山の関心が、明治維新以降の近代化のプロセスにおいて、「少なくとも飛鳥時代から続く日本の伝統」と「開国を契機とした西欧文物の急速な移入」という、二つの大きな潮流の複雑な絡み合いを探ることにあったからだと考えられる。

このことは、丸山の思索が「自然と作為」「成ると為す」「『である』と『する』」といった二項対立の概念を軸に展開されていることからも窺える。「伝統と近代」もまた、この対比に対応するものだ。

現代の日本は、海外から「超近代的な側面を持ちながらも、他方で伝統文化を色濃く残す国」として知られ、時に驚きをもって語られる。「『である』ことと『する』こと」を読み解いていくと、まさに「である」の伝統と「する」の近代との葛藤が、今の日本でも地続きで存在していることに気づかされる。

60年以上も前に書かれた評論でありながら、丸山のまなざしは1000年以上の歴史を射程に収めており、現代社会の分析にとどまらず、「日本」という国や日本人の心のあり方を根底から知るための貴重な考察となっている。

(1)「である」vs「する」

丸山真男の専門は政治学であり、法律もその範疇に含まれる。そのため、彼は「である」と「する」の区別を最初に提示する際、法律における「時効」の例を取り上げている。

例えば、金を借りて返さずにいても、一定期間にわたり返済を請求されなければ、返済する義務はなくなる。これが「時効」という制度だが、ここで重要なポイントとなるのは「請求」という行為である。
金を返さない限り、どんなに時間が経過しても、借り手「である」という状態はずっと続く。しかし、貸し手が返済を求め、請求「する」という行為を怠れば、返済を求める権利は消滅し、時効が成立してしまう。

このような法律の仕組みは、「である」という状態と「する」という行為の関係性を明確に示している。近代社会においては、「行為が状態を作り出す」のであって、「状態が一度生まれればそれが永続的に存続する」わけではないと考えられているのである。

丸山はこの関係性を、さらに「プディングの味は食べてみなければわからない」というイギリスのことわざを用いて補足する。
プディングというお菓子は甘いもの「である」が、それが事実だとしても、実際に食べるという行為を「する」ことでしか、その甘さを真に味わう(検証する)ことはできない。

「プディングの味は食べてみなければわからない」という有名な言葉がありますが、プディングのなかに、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。身分社会を打破し、概念実在論を唯名論に転回させ、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ、政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威にたいして、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスは、まさに右のような「である」論理・「である」価値から「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動によって生まれたものです。もしハムレット時代の人間にとって“to be or not to be”が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ“to do or not to do”という問いがますます大きな関心事になってきたといえるでしょう。

この引用文を一読しただけでは、少し難解に感じられるかもしれない。漢字の熟語が連続し、「概念実在論」や「唯名論」といった哲学の専門用語が使われているからだ。
そうした場合も、丸山の基本的な思考形式が「二項対立」であることを思い出し、それぞれの要素がどちらの側に属するのかを分類していくと、文全体の構造がすっきりと理解できるようになる。

「属性」として味が内在食べるという現実の行為を通じて、美味かどうか、そのつど検証
概念実在論(甘いという概念が実在する)唯名論(甘いという概念は名前にすぎない)→現実に甘いかどうかは確認の必要あり。
「先天的」に通用していた権威現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックス
「である」論理・「である」価値「する」論理・「する」価値
to beto do

このように整理すると、ここでも「状態」か「行為」かという、先ほどの「時効」と同じテーマが扱われていることが見えてくる。

そして、これが「社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極」をなしているという。別の表現をすれば、「政治・経済・文化などいろいろな領域」において、どちらの価値を重視するのかの違いこそが、丸山の考える「伝統」と「近代」の差異にほかならない。

ここで、読者として特に注意すべき点がある。
それは、それぞれの時代に特有の価値付けがあるにせよ、私たち自身が予め先入観を持って価値付けをしないことだ。より具体的に言えば、現代を生きる私たちは近代的な価値観に慣れているため、無意識のうちに「する」ことを「である」ことよりも優位に置いて判断しがちである。しかし、それは一つの価値観にすぎず、世の中には「である」ことに重きを置く文化や領域も存在する。まずは両者を明確に区別し、価値判断をいったん保留する態度こそが、対象を客観的に理解する上で極めて重要な姿勢となる。

もう一点、少し本筋からは逸れるが、高名な丸山真男であっても、筆の勢いによって誤解を招く表現をしている箇所があることを指摘しておきたい。それはシェイクスピアの『ハムレット』からの引用についてである。
元来、 “to be or not to be” の “be” は「存在する(生きるか、死ぬか)」という意味であり、ハムレット自身の存在論的な決断に関わっている。これに対し、丸山がここで問題にしているのは「~である」という属性・状態を示すbe動詞としての機能であるため、厳密にはハムレットの文脈とは対応していない。

どれほど優れた学者であっても、このように論理の比喩として厳密さを欠く間違いを犯すことがある。これはその一例といえるだろう。 ただし、 “be” から “do” への移行という対比を提示したことで、「である」ことと「する」ことの違いが際立ち、彼の提唱する二項対立の図式をより明快に読者へ印象づける結果になっていることも、また確かである。

(2)「である」社会 江戸時代

「である」社会とは、一体どのようなものか。丸山はその具体例として「江戸時代」を取り上げる。この時代をひと言でいえば、「何をするか(行為)」よりも「何であるか(属性)」が決定的に重要な意味を持つ社会だった。

そこでは出生とか家柄とか年齢(年寄)とかいう要素が社会関係において決定的な役割を荷なっていますし、それらはいずれも私たちの現実の行動によって変えることのできない意味をもっています。したがって、こういう社会では権力関係にもモラルも、一般的なものの考え方の上でも、何をするかということよりも、何であるかということが価値判断の重要な基準となるわけです。大名や武士は一般的にいって、百姓や町人に何かをサービスするから、彼らにたいして支配権をもつとは考えられないで、大名であり武士であるという身分的な「属性」のゆえに当然 — 先天的に — 支配するという建て前になっています。

士農工商」という身分制度の中で、武士がもっとも高い地位にいるのは、下の身分の人たちに何か利益になることを「する」からではない。単に「武士という身分である」という、ただそれだけの理由だ。そしてこの身分は固定されており、個人の努力で変えることは許されなかった。

こうした社会の仕組みは、現代の私たちから見ると理不尽で、到底納得がいかないものに思えるかもしれない。しかし、本当に私たちは「である」社会と無縁なのだろうか。
現実を振り返ってみれば、個人の業績や実力よりも「血縁」や「学閥」が幅を利かせるシーンは、今の日本でも決して珍しくない。

さらに言えば、身分制に疑問を持つ人であっても、「血縁」によって続く天皇制に対しては、ごく自然に受け入れていることが多いはずだ。

歴史を遡ると、8世紀に日本の天皇制が確立した際、モデルにしたのは中国の律令制だった。
中国の「天子(支配者)」は、良い政治を「する」ことが前提であり、天下が乱れれば容赦なく別の血筋へと交代させられた(易姓革命)。
一方、日本は「天孫降臨」の神話を作り上げ、天皇を神の子孫とする「血縁主義」を仕組みの中心に据えた。つまり、日本の天皇は「民に何かを施すこと」で地位を保証されているのではない。むしろ「天皇は天皇らしく、そこに存在すること」が求められているのである。

こうした天皇に対する私たちの意識を補助線にすると、江戸時代の社会や道徳のあり方も、どこか腑に落ちてくる。武士は武士らしく、その身分にふさわしい振る舞いをすること、それこそが「である」社会における正義だった。

徳川時代のような社会では大名であること、名主であることから、その人間がいかにふるまうかという型がおのずからきまってきます。したがって、こういう社会でコミュニケーションが成り立つためには、相手が何者であるのか、つまり侍か百姓か町人かが外部的に識別されることが第一の要件となります。服装、身なり、言葉づかいなどで一見して相手の身分がわからなければ、どういう作法で相手に対してよいか見当がつかないからです。しかし逆にいえば、こういう社会では、人々の集まりで相互に何者であるかが判明していれば — また事実そこでは未知の者の集会はまずあまり見られないのですが ー べつだん討議の手続きやルールを作らなくても、また「会議の精神」を養わなくても、「らしく」の道徳にしたがって話し合いはおのずから軌道にのるわけなのです。

この「らしく」という道徳は、現在の日本からも決して失われてはいない。私たち日本人は、今でも無意識のうちに「らしさ」に基づいて行動し、また相手にも「らしさ」を求める傾向がある。

たとえば、現在(2026年6月)開催されているサッカーのワールドカップでの一幕だ。試合終了後、日本のサポーターたちがスタンドのゴミ拾いをして、自分たちのいた場所をきれいに清掃していく姿が、フランスのニュース取り上げられた。
これも、「日本人は礼儀正しくあるべきだ」という思いを持つ人々が、無意識に「日本人らしく」振る舞った結果だと言える。

私たちは、制度としての身分社会には断固として反対する。しかしその一方で、日常のなかでごく自然に「日本人らしくあろう」とする。そんな私たちの姿は、高度に近代化された今の日本社会の底にも、何百年の伝統がしっかりと息づき続けていることを、静かに物語っている。

(3)「する」組織 業績と検証

「である」社会の中では、武士は武士という身分「である」ことだけでよかった。しかし、「する」社会においては、何者であるかではなく、「何をするか(行為)」が決定的な意味を持つようになる。「状態」ではなく「行為」が価値を持ち、ある目的を設定して「結果(業績)」を出すことが何より重要視されるのだ。

近代社会を特徴づける社会学者のいわゆる機能集団 ー 会社・政党・組合・教育団体など ー の組織は本来的に「すること」の原理に基づいています。そうした団体の存在理由が、そもそもある特定の目的活動を離れては考えられないし、団体内部の地位や職能の分化も仕事の必要から生まれたものであるからです。封建社会の君主とちがって、会社の上役や団体のリーダーの「えらさ」は上役であることから発するものでなくて、どこまでも彼の業績が価値を判定する基準となるわけです。

家族のような血縁組織には、父、母、子どもという役割が最初から決まっており、何か特別な目的を達成するために作られたわけではない。 それとは対照的に、特定の目的のために組織された近代的な集団(会社や政党など)では、常に「結果」が求められ、その結果を最大化するために最適な役割分担がなされるのが原則となる。

また、ひとたびその組織の仕事から離れれば、割り当てられた役割も同時に消え去る。同じ人間であっても、オフィスを一歩出れば上司と部下という上下関係から解放されるのが、本来の「する」組織のあり方だ。

武士は行住座取つねに武士であり、またあらねばならない。しかし会社の課長はそうではない。彼の下役との関係はまるごとの人間関係でなく、仕事という側面についての上下関係だけであるはずです。

要するに、一人ひとりの人間の役割は、集団の中でその都度コミットする「行為」によって決まる。別の集団に入れば、また全く別の役割を担うことになる。

こうした「する」組織の意義がもっともシビアに現れるのは、やはり経済活動の局面だろう。無能な上司では業績が上がらず、会社は潰れてしまう。会社を所有しているという「状態」にあぐらをかくのではなく、実際に経営し、利益を出すという「行為」が求められる。「誰であるか」ではなく「何をするか」――それこそが、有能な経営者の条件なのだ。

政治学者である丸山真男の視線は、もちろん政治の領域にも注がれる。というよりも、彼の関心の核心はまさにここにある。

政治の世界では、政治において「する」原理を適用するならば、それは指導者の側についていえば、人民と社会に不断にサービスを提供する用意であり、人民の側からは指導者の権力乱用をつねに監視し、その業績を絶えずテストする姿勢をととのえているということになるわけです。

政治家は、江戸時代の武士とは違う。「政治家である」という肩書きだけで、その役割を果たしたことにはならない。社会の仕組みを整え、それを実行に移すための具体的な活動をして初めて、政治家としての価値が生まれる。

そして、この原理は有権者の側にも同じように適用される。市民の側も、政治家たちの行動をたえず監視し、社会生活を改善するために意味のある活動をしているかどうかをチェックし続けなければならない。
もし、市民がその監視を怠ってしまえば、政治家たちが何も仕事をしなくてもその地位に居座り続けるという、法律の「時効」に匹敵する政治的時効を発動させてしまうことになるからだ。
つまり、丸山真男にとって政治とは、政治家と一般市民の双方が、主体的に「する」ことによって初めて健全さが保証される、動的な営みなのだ。

このように「する」組織においては、経済活動でも政治活動でも、業績や結果に対する絶え間ない検証(テスト)が必要不可欠なのである。

(4)近代日本社会のあり方

このように「である」と「する」に基づく社会や組織のあり方を明らかにした上で、丸山真男が最終的に迫ろうとするのは、近代日本社会の構造そのものの解明である。

明治維新以来、急速に近代化が進んだ日本。一見すると「する」の原理に基づく合理的な社会が形成されているように見えるかもしれない。しかしその実態は、私たちの日常生活を見てもわかる通り、古くからの「である」の倫理観や道徳観もまた、根強く色濃く残っている。

丸山真男は、基本的には「する」こと(主体的な行為)によって社会改革が行われる方向性を支持する学者だ。その好例として、丸山は福沢諭吉の言葉を引用している。
福沢は、旧来の大名や侍が「その身分である」ということだけで高貴な存在とされていた従来の価値観を真っ向から否定し、「ただこの人たちは先祖代々から持ち伝えたお金や米があるゆえ、あのように立派にしているばかりにて、その正味はいやしき人なり」とまで言い切っている。

丸山はこの一節を受け、次のように続ける。

ここには、家柄や資産などの「である」価値から「する」価値へという、価値規準の歴史的な変革の意味が、このような素木な表現のはしにもあざやかに浮彫りにされております。近代日本のダイナミックな「躍進」の背景には、たしかにこうした「する」価値への転換が作用していたことはうたがいないことです。けれども同時に、日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで滲透しながら、他方では強じんに「である」価値が根をはり、そのうえ、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されて来たところに発しているわけなのです。

近代日本において、「である」価値と「する」価値の混乱が生じている。そして丸山は、それを「宿命的な混乱」と呼ぶ。

建前としては成果や実力を重んじる「する」組織(会社や官僚機構など)のはずなのに、一歩中に入れば、派閥や学歴、あるいは「先輩・後輩」といった「である」関係のモラルによってガチガチに固められている(セメント化されている)。そんな矛盾が、今の日本にも溢れてはいないだろうか。

この複雑に絡み合った問題を一気に解決することはできない。しかし、まずはその事実を直視し、構造を白日の下にさらすこと。それこそが、この『「である」ことと「する」こと』の中で丸山が目指したことにほかならない。

この対立的な二つの世界観が、なぜ現代の日本においてこれほど強固に併存できているのか。実は『「である」ことと「する」こと』のなかでは、その構造的な理由についてまでは明確に語られていない。
だが、同じく『日本の思想』に収録されているもう一つの評論、『思想のあり方』を紐解くと、丸山が日本文化や社会のあり方を「タコツボ型」という見事な言葉で説明している部分がある。

私はかりに社会と文化の型を二つに分けて考えることにしています。一つは妙な言葉ではありますが、ササラ型といい、これに対するもう一つの型をタコツポ型とかりに呼んでおきます。ササラというのは、御承知のように、竹の先を細かくいくつにも割ったものです。手のひらでいえばこういうふうに元のところが共通していて、そこから指が分れて出ている、そういう型の文化をササラ型というわけであります。タコツボっていうのは文字通りそれぞれ孤立したタコツボが並列している型であります。近代日本の学問とか文化とか、あるいはいろいろな社会の組織形態というものがササラ型でなくてタコツボ型であるということが、さきほど言ったイメージの巨大な役割ということと関係してくるんじゃないかと思うわけです。

丸山のいう「ササラ型」とは、要するに共通の基盤を持ち、そこから枝分かれしたものを指す。この構造であれば、どこか一つの枝で変化が起きれば、それは根元の共通基盤へと伝わり、結果として他の部分にも変化の波が及ぶ。すべてが有機的に連動している組織のあり方だ。

それに対して「タコツボ型」は、それぞれが完全に独立したまま、ただ横に並んでいるだけの状態をいう。タコツボ同士の間に横のつながりや、共通の土台は存在しない。だからこそ、明治維新によって激しい西洋化(「する」の近代)の波が押し寄せても、そのすぐ隣のタコツボでは、伝統的な生活習慣(「である」の文化)が何事もなかったかのようにそのまま存続できたのだ。

こうした、新旧や異質のものがお互いを排除せずに共存するスタイルは、まさに日本的な異文化受容の典型パターンと言える。

振り返れば、6世紀に仏教が伝来した際もそうだった。新参の「仏」は、日本古来の「神々」を追い出すことはしなかった。それどころか「神仏習合」という形で、神も仏も同じように拝む共存の道を選んだのである。
歴史的に見れば、これはかなり特殊なことだ。たとえばヨーロッパでは、キリスト教が支配的になるとそれ以外の神々は「異教」として徹底的に排除された。仏教の生誕地であるインドでも、のちに勢力を盛り返したヒンドゥー教(バラモン教)の基盤によって、仏教は国内からほぼ一掃されている。
こうした世界の歴史と比較したとき、日本の特異性は際立つ。

日本の社会や文化は、良くも悪くも「タコツボ型」なのだ。だからこそ、海外からどんなに新しい思想やシステムが入ってきても、古いものを壊す必要がない。ただ、新しいタコツボを横に一つ増やし、すべてを並列に置いておけばいい。丸山の鋭い分析を借りるなら、それこそが、日本が歩んできた歴史の本質的なメカニズムなのだと言えるだろう。

そして、政治学者としての丸山が『「である」ことと「する」こと』の中で最も焦点を当てるのは、この「である」と「する」のバランスの問題、とりわけ、本来は「する」的であるべき組織の中に「である」的な価値観が居座り続けることで起こる負の側面である。

たとえば、民主主義という建前の下で、政治のボスたちがあたかも江戸時代の武士であるかのように振る舞うとしたら、それはもう民主主義とは呼べない。

私たちの国の政治がどこまで民主化されているかを、制度の建て前が民主主義であるということからでなしに、右のような基準で測ってみたらどうでしょうか。現在何に貢献しているか、いかに有効に仕事をしているかにかかわりなく、ただコネとか資金の関係で、または長く支配的地位についていたとか、過去に功績があったとかいうことで、政治的ポストを保っている指導者が大は一国の政治家から、小は村のボスまで、右は自民党から左は共産党まで、どんなにうようよしていることか。派閥とか情実の横行ということも、つまりは「『する』こと」の必要に応じて随時に人間関係が結ばれ解かれる代りに、特殊な人間関係それ自体が価値化さるところから発生するものなのです。

「民主主義という制度(看板)がある」から日本の政治は健全だ、と思い込んでしまうこと。それこそが、まさに政治に「時効」を与えてしまう行為にほかならない。「する(不断の検証)」ことに基づくべき近代の制度のなかで、実質的には「である(身分や既得権益)」の論理を存続させているのだ。

そして、その責任は何も政治家だけにあるのではない。たえず彼らの業績を検証し、テストすべき市民の側にもある。

今から70年近く前(昭和33年)の丸山の指摘は、現代の日本政治にも恐ろしいほどそのまま当てはまる。世襲議員が多数を占める現状を口頭で批判しながらも、その一方で、彼らの政治活動を具体的に検証・評価するシステムを構築できずにいる現在の政治状況は、まさに丸山が指摘した病理そのものである。

私たちは、「我が国には民主主義という制度がある」という事実だけで満足し、ただそれだけの理由で全体主義の国家を批判してはいないだろうか。
丸山の用語を借りれば、民主主義や全体主義という制度を「である」的な状態として理解してしまっているため、その中身(実効性)を問うことがなく、政治の実績に対するシビアな検証が行われないという結果に陥っているのだ。

しかも、事態はさらに厄介な方向へとねじれている。

むしろ厄介なので、これまで挙げた政治の例が示しているように、「『する』こと」の価値に基づく不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしている部門では、かえって効用と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展しようとしている点なのです。

もっとも「する(業績主義的な検証)」が必要な政治の場ではそれが著しく欠けているのに、その一方で、さほど必要のない領域――あるいは世界的に「効率一辺倒でいいのか」と反省され始めている領域――において、かえって過剰な能率原理が猛スピードで浸透しているというのだ。

丸山のいう「『する』価値のとめどない侵入が反省されようとしている部門」とは、具体的には過度な業績主義や、文化があらゆるエンタメ(芸能)消費の対象になっていく傾向などを指す。そして丸山は、とりわけ芸術や学問の領域に関しては、目先の効率や成果を求める姿勢を「果実より花」という言葉で批判し、時代を超えて蓄積される「古典」の価値(「である」ことの価値)の重要性を強く訴えている。

(5)今を生きる私たちのための道標

繰り返すことになるが、丸山真男は『「である」ことと「する」こと』の中で、安易な解決策を提示しているわけではない。彼はただ、近代日本において「である」価値と「する」価値が複雑に絡み合い、「宿命的な混乱」を引き起こしているという冷徹な現状分析を突きつけたにすぎない。

しかし、その眼差しが捉えた状況は、約70年もの歳月が流れた現代の日本社会にも、驚くほどの正確さでそのまま通用している。

民主主義を「である」という状態として眠らせてしまうのか、それとも市民一人ひとりが「する」という行為によって日々新しく作り変えていくのか。丸山が遺した問いにどう応えるかは、いまを生きる私たち一人ひとりの双肩にかかっている。

私たちが無意識に甘んじている政治の「時効」、組織の「セメント化」、そして文化の「過度な効率主義」。これらすべての違和感を紐解く鍵が、このわずか数十ページの論考の中に今も鮮烈に息づいているのだ。

したがって、この評論を丁寧に読み解くことは、単なる過去の思想史の勉強ではない。いまの日本社会を俯瞰し、私たち自身の生き方や、他者との人間関係のあり方を見つめ直すための、きわめて強力な補助線であり続けているのである。

飛鳥時代から続く「伝統」と、明治維新から加速した「近代」。その1000年以上の歴史を射程に収めた丸山の洞察は、混迷を極める21世紀の日本を生き抜くための、色褪せない道標なのだ。

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