
柄谷行人の「場所と経験」(『意味という病』所収)は、1972年(昭和47年)に発表された評論である。しかし、この作品は、21世紀に入って加速度的に進行しているさまざまな社会問題がどこから生じているのかを考えるうえで、多くの示唆を与えてくれる。

そして、その問題の本質を理解することは、現在の世界的な政治状況が今後どこへ向かうのかを考える手がかりにもなる。その際、紀元前4〜5世紀のギリシアの哲学者プラトンが『国家』で展開した政治論は、約2500年の時を経た今日においても、私たちに有益な視点を提供してくれる。
人間の本質は古今東西それほど変わるものではない。だからこそ、過去に書かれた書物であっても、私たちが「読む」ことによって常に「今」という時代に甦り、進むべき道を照らし出してくれるのだ。
(1)柄谷行人 「人間の空間」
「人間の空間」という表現は奇妙に思われるかもしれないが、あえて「人間の」という言葉を付けたのには、はっきりとした理由がある。つまり、人間が属さない空間があるのだ。そして、その二つの異なる空間の区別を、私たちは意識しないままに過ごしている。柄谷行人の「場所と経験」を私たちが読む意味は、その区別に気づくところにある。
そのエッセイ(評論)は、次のような身近で非常にわかりやすい一節から始まっている。
私は阪神間、つまり東西を大阪と神戸に、南北を海と山に囲まれたところに生れ育った。こういう地形感覚はいまでも根深く残っている。つまり、なにかに囲まれていないと心理的に安定しないのである。
柄谷行人は兵庫県尼崎市に生まれ、実家の周囲には田んぼが広がっていたという。しかし、その近くには阪急・南塚口駅があり、田園風景と近代的な鉄道が同居する環境の中で育ったらしい。そうした阪神間の一角は、東京や大阪のような大都市と比べるまでもなく、本当に小さな空間であり、「なにかに囲まれている」という感覚を抱いていたとしても不思議ではない。
柄谷が問題にするのは、空間に対するそうした「感覚」であり、そこから生じる「心理」である。そして、その点について、彼はさらに具体的な例を紹介する。
たとえば、私は東京で計六回引越したが、どの土地も住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。それより先はよくわからないのだ。むろん地図をみればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。結局私が知っている場所は、いわば数多くの小さい円から成っていて、その間には何のつながりもない。不思議なことに、それらの円の規模は子供時代のそれとあまり変らないのである。小さくもなければ大きくもない。このことは親しい交際範囲についてもいえる。円の数は増えても、円の大きさはほぼ一定しているからである。
たとえ東京という大都市に住んだとしても、「人間の空間」が巨大化するわけではない。結局のところ、人は自分が育ってきた環境の中で培われた空間感覚によって場所を実質的に感じ、その中で生きているのである。「それらの円の規模は子供時代のそれとあまり変らない」という実感には、多くの人が共感するだろう。
その一方で、この一節には「感覚的・心理的ではない空間」の存在も示されている。それは「地図の上に描かれた空間」である。
山があろうと谷があろうと、それらの凹凸は単なる図として表現されるだけであり、地図を見る者に感覚的な刺激を与えることはない。柄谷は、そのような感覚や心理から切り離された空間を、「密度も濃度も均質な空間」と説明する。
この二つの空間とは別に、柄谷はもう一つの空間感覚を指摘し、それを「幻想的な空間」と呼ぶ。
今は知らぬが、私が小学生のころは校長室が怖かった。その場所が危いからではなくて、それが学校という「共同の幻覚」(柳田国男)によって区切られたタブーの場所だったからである。おそらく、こういった幻想的な空間が廃絶されることはないだろう。たんにかたちを変えるだけだろう。中学生になれば、もはや校長室などを馬鹿にするが、やはりまた別の何かに恐怖するように。いたる所にこういう幻想的な空間がある。
校長室が怖いという感覚は、少なくとも私にはあまりピンとこないのだが、それを職員室と置き換えると少し理解できるような気がする。つまり、生徒たちの教室も職員室も物理的には同質の空間である。しかし、職員室に入る時には多少なりとも緊張したことを覚えている。
もしかすると、柄谷の学校では生徒が校長室に自由に入ることはタブーとされていたのかもしれない。その際、「共同の幻覚」という言葉が示すように、タブーは個人的な感覚によるものではなく、共同体によって共有される規範として課せられる。
こうした区別をした上で柄谷が問題にするのは、一人ひとりの人間の中で、感覚や幻想に支えられた空間が縮小し、地図上の空間の占める割合が増大しているという点である。
直観的にいえば、われわれが新聞やテレビで知るような場所や事件はこういう空間に属しているように思われる。それは近所で見聞する事柄のようなリアリティをもたないし、肉眼で見るような切実感もない。その上、それは妙に国際的である。沖縄、ベトナム、ビアフラ、テルアビブ・・・・・・これら各地で起っていることにわれわれは均質な関心を寄せることができる。なぜなら、それは均質な空間で起っているからである。
こういう空間は、先にあげた二種の空間からみれば、まったく擬似的なもので、何の実質ももっていない。(中略)
われわれは多くのことを知らされ、また知ったような気になっている。しかし、そんなものは実は知っても知らなくてもどうでもいいことなのである。われわれは大事件をテレビでみる。が、すぐ忘れてしまうし、忘れてしまうのも当然である。テレビには、感性的な空間におけるような経験がなくて、擬似的な経験しか与えないからだ。また、この種の知識は安全でもなければ危険でもない。もともと抽象的なものだからであり、均質な世界地図の上で起っているにすぎないからである。
1972年(昭和47年)の時点では、新聞やテレビが大量の情報を提供し、人々は実際の体験ではなく、擬似的な経験としてさまざまな事件に接していた。
そうした事件はセンセーショナルであり、一時的に世間の話題をさらったかもしれない。しかし、「近所で見聞する事柄のようなリアリティをもたないし、肉眼で見るような切実感もない」。要するに、それは地図の上で場所を確認するのと同じようなものであり、「抽象的なもの」にとどまるのである。
この柄谷の考察は、21世紀をすでに20年以上経過した今、ますます切実な問題として私たちに迫っている。テレビや新聞に代わり、SNSが膨大な情報を絶え間なく拡散するようになった。その結果、「擬似的な経験」が「実体験」を圧倒し、「人間の空間」と「地図上の非人間的な空間」との区別を曖昧にしてしまう。
さらに深刻なのは、その影響が現実の行動にまで及んでいることである。本来なら切実な実感を伴うべき事柄に対してさえ、どこか現実感を欠いたまま接し、行動してしまう事態が各所で見受けられる。
こうした「人間の空間」の縮小が、世界的にどのような事態をもたらすのか。次に、そのことについてプラトンに基づきながら考えていこう。
(2)プラトン 民主から僭主(暴君)へ
「擬似的な経験が実体験を圧倒する」という状況の中で、「人間の空間」が減少するに従い、あたかもすべてが「地図上の空間」であるかのようになってしまう。そうした事態に対する危機感は、AIが兵器に実装されるという現実を目にすると、いやが上にも高まってくる。
2026年6月22日放送のNHK「クローズアップ現代」では、「AIが変える戦争 加速する軍事利用がもたらす新たな“脅威”」というテーマで、AIがどれほどの勢いで戦争のあり方を変えつつあるかが紹介されていた。その中で、アメリカ国防総省チーフデジタルAI局長は、次のような言葉を口にしている。
左クリック、右クリック、左クリックでマジックのように攻撃目標になる。標的を見つけることから攻撃の計画まで。そして、いまでは攻撃の実行までが、たった1つのシステムでできるのです。これは革命的です。
この言葉の中には、「攻撃目標」や「標的」の先にいるものが「人間」であるという意識がほとんど感じられない。あたかもコンピューター上のゲームであるかのように、いや、それ以上に、ゲームであれば目に見える人間や建物が存在するのに、ここではボタン一つで兵器が発射され、狙うべき対象が破壊され、作戦が成功する。その速度と有効性の向上こそが「革命的」なのである。
そこに生じているのは、柄谷の言う「感性的な空間におけるような経験がなくて、擬似的な経験しか与えない」空間である。しかも、「この種の知識は安全でもなければ危険でもない」どころか、「抽象的なもの」であり、「均質な世界地図の上で起っている」としか感じられないからこそ、人間的な感情はますます失われていく。
同じ番組の中で、兵器開発を行うIT企業Palantir(パランティア・テクノロジーズ)の防衛部門長は、驚くほど率直にアメリカの正義を語っている。
アメリカ軍はこの世の善であり、平和への力です。AIシステムが適切に使用されれば、平和がもたらされます。目標は、敵が私たちと立ち向かえないほど、圧倒的な存在になることです。
この部門長は「世界に平和をもたらす」と語るのだが、その平和とは、アメリカが常に圧倒的な軍事力を保持し、いかなる国も反抗できない状態を維持すること、つまり武力によって敵を制圧することによって得られるものにほかならない。
この発言からは、他者を受け入れる契機を見出すことは難しい。ここにあるのは、強者が力によって弱者を抑え込むという発想であり、そのことは隠されてもいない。
彼は他者の存在そのものを否定しているわけではない。しかし、その「他者」は「人間の空間」に生きる具体的な人間というよりも、地図上に配置された抽象的な存在として捉えられているように思われる。そのため、他者の存在に対する切実な実感は希薄にならざるをえない。もしそのような感覚が残されていたとしても、それは政策や行動を左右するほどの力を持っていないように見える。
そのような姿を見ると、建国250年にして、アメリカ合衆国では、多数の他者の自由と平等を前提とする民主主義が、意識の上でもすでに失われつつあるのではないかと思えてくる。
だが、問題はアメリカだけにあるのではない。柄谷行人が指摘したように、「人間の空間」が縮小し、人々が地図上の均質な空間の中で世界を理解するようになるならば、その傾向は現代社会全体に共通するものとなる。
では、他者が具体的な人間としてではなく、抽象的な対象としてしか認識されなくなったとき、主権が民衆に存すると考える民主主義は、権力者の独裁を防ぎ、人々の自由と権利を保障する制度であり続けることができるのだろうか。この問いは、実は2500年以上も前にプラトンが提起した問いでもあった。
『国家』の中でプラトンは、少数の富裕層が権力を独占する「寡頭制」が、「貧富の格差の拡大」と公共心の欠如によって民衆の反乱を招き、やがて崩壊して「民主制」が生じると考える。
民主制の下では自由が認められ、言論の自由も保障される。そして、人々はそれぞれ自分なりの生活を楽しみ、多様で活気に満ちた社会を築くことができる。原則として、すべての人間は平等である。しかし、その優れた原則にもかかわらず、自由への要求が際限なく強まると、「何でも思いどおりのことを行なうことが放任される」ようになり、秩序が失われ、社会の均衡が崩れてしまう。
その後に生まれるのが、「僭主(暴君)制」である。
社会が混乱する中で、人々の歓心を買うために耳障りの良い言葉を並べる扇動政治家が現れ、民衆はその人物を救世主として担ぎ上げる。
しかし、いったん権力を握った僭主は独裁的な暴君へと変貌し、敵対者を不正な手段で排除しながら、自己の利益と欲望の追求のみを目的とする政治を行う。
また、自らの権力を維持するために有能な人材を排除し、民衆を貧困化させ、さらには戦争を引き起こして人々の目をそらし続ける。
僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもない。思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ。
プラトンのこの主張は、民主制そのものを否定するというよりも、それがどのような条件のもとで変質しうるのかという問題を提起している。こう言ってよければ、「寡頭制」から「民主制」への移行も、「民主制」から「僭主制」への移行も、権力を持つ側に「思いどおりのことを行なうことが放任される」時に生じるのである。
その変質の根源にあるものが、柄谷の考察を通して見えてくる。
それは、権力を握る人々が、自らの「人間の空間」の外部を「地図上の空間」と見なし、他者の存在を実感しなくなることに由来すると考えてもよいだろう。他者が具体的な人間としてではなく、抽象的な対象としてしか認識されなくなったとき、権力者は自らの判断を絶対視しやすくなる。
実在感を欠いた状態であれば、どのような破壊行為も、生身の人間を殺害することも、単なる成果として受け取られる。そして、戦果が大きくなればなるほど、それは誇るべき結果へと変わっていく。
例えば、一国の大統領が他国の大統領を拘束し、さらに別の国を攻撃対象として、その指導者たちを大量に殺害する。そのような決定が少数の権力者によって下されるとき、そこにはプラトンの描いた僭主制を想起させるものがある。
もちろん、その行為は国家安全保障や正義の名のもとに正当化されるかもしれない。しかし、その判断の対象となる人々が「人間の空間」の外部に置かれ、実体を欠いた存在として扱われるならば、そこには民主制が僭主制へと変質していく危険が潜んでいる。
さらに問題なのは、そのような行為を伝える情報そのものもまた、多くの人々にとっては「均質な世界地図」の上で起っている出来事として受け取られることである。そこに「人間の空間」はなく、破壊にも殺害にも実感が伴わない。その結果、柄谷の言葉を借りれば、「これら各地で起っていることにわれわれは均質な関心を寄せることができる。なぜなら、それは均質な空間で起っているからである」ということになる。
プラトンは民主制の危険を見抜いていた。しかし、だからといって民主制を捨て去ればよいわけではない。むしろ現代において問われているのは、政治体制の名称が何であれ、すべての人間が平等であり、自由が認められる社会を支える条件とは何かということである。
柄谷行人の考察を借りれば、その条件は「人間の空間」を失わないことにあるといえる。他者を単なる数字や記号としてではなく、生身の人間として感じること。世界を均質な地図としてではなく、自分と関わる具体的な場所として経験すること。AIがますます発達し、私たちが膨大な情報に囲まれる時代だからこそ、そのような感覚は以前にも増して重要になっている。
「今」を生きる私たちに課されている課題は、SNSによる情報空間が日々拡大していく中で、「人間の空間」感覚を維持できるか、あるいは失われつつあるその感覚を取り戻せるかということにかかっている。
ちなみに、現代のおけるもう一つの問題は、人々の意識の「タコツボ化」である。
丸山真男 「思想のあり方について」 — 『日本の思想』を通して考える「今」 2/2