元号について

現在の日本人にとって、天皇が即位すると新しい元号になること、つまり「一世一元制」が当たり前になっている。そのために、日本では昔から「一世一元制」が定着していたような錯覚に陥ることがある。

そこで、元号使用の始まりから現在までの変遷を簡単に振り返ってみよう。

(1)元号の使用開始

日本で元号が始めて使われたのは、西暦645年、「大化の改新」の時だった。

その年、中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇を退位させ、皇極天皇の弟を孝徳天皇として即位させ、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと体制を変革した。
その際に、「日本」という国名と「天皇」という名称、そして「大化」という元号が定められた。

元号は、唐の制度を取り入れたもので、暦の日、月、年に特定の区切りを与え、「時の支配者」の存在を人々に意識づけるために役立ったに違いない。

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脱西欧化する世界 désoccidentalisation

日本にいると、海外のニュースはアメリカの視点のものが主流なため、国際社会という言葉に代表される民主主義的で自由な思想が大部分の国々で共有され、その秩序に従わない全体主義的な国家が少数存在しているという印象を受ける。
しかし、そうした世界観はすでに崩れつつあり、とりわけアフリカなどでは、かつての植民地支配への反動もあり、脱西欧化が進みつつある。

国際関係を歴史的に研究しているトマ・ゴマールのインタヴューからは、世界が幾つかのブロックに分かれ、一元的な視点では捉えられない現実を理解することができる。

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思い出を生きる 過去と現在の同時性 キルケゴールのイエス・キリスト像に倣って

過去の出来事を思い出す時、私たちは過去と現在を二重に生きている。
思い出すという行為は現在に位置し、思い出される内容を現在の意識が再体験する。その意味で、過去の思い出は現在の体験ともいえる。

ここでは、19世紀の宗教的哲学者セーレン・キルケゴール(Søren Kierkegaard)によるイエス・キリスト観を参考にして、過去と現在の同時性について考えてみよう。

キリスト教が他の宗教と異なる最も大きな特色は、人間イエスが神でもあるという二重性に基づく教義である。
仏教の仏陀にしても、儒教の孔子にしても、道教の老子や荘子にしても、イスラム教のマホメッドにしても、宗教の創始者が神と見なされることはない。
それに対して、キリスト教では、「父なる神、子なるイエス、聖霊」の三位一体が信仰の中心にある。

人間イエスの生涯は、『新約聖書』の中で辿ることができる。
イエスの生年ははっきりしないが、ヘロデ大王(紀元前4年に没)の晩年にガリラヤのナザレで生まれ、紀元28年頃、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた。
その後、ガリラヤ湖畔を中心に宣教活動を開始し、最後はエルサレムでユダヤ教の神殿に批判を加え、ローマのユダヤ総督ポンティウス・ピラトによって十字架刑に処せられた。
処刑に関しては、ローマの歴史家タキトゥスも、『年代記』の中で、短い記述を残している。

実在の人間が神でもあるという教義は、キリスト教の信者でない者にとって不可解に思われるのだが、キルケゴールは、過去に実際に存在したイエスが永遠で絶対的な存在である神であると信じることこそ、キリスト教の本質であると考えた。

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恋愛は3年しか続かない  トリスタンとイゾルデの物語 科学の実験

トリスタンとイゾルデの名前は、日本では、リヒャルト・ワグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』を通してよく知られている。

イングランドの南西端に位置するコーンウォールの騎士トリスタンは、マルク王の命令に従い、アイルランドのイゾルデを、王の妃とするために連れ去ろうとする。しかし、帰途の船上で、2人は誤って媚薬を飲み、激しい恋に落ちる。そして、その恋は、二人の悲劇的な死へとつながっていく。

この媚薬をどのように理解するかは様々であり、2人は最初から惹かれ合っていて、その気持ちを象徴するものとも考えられるし、あるいは、人間が逆らうことのできない運命と見なすこともできる。

では、その媚薬の効果に期限はあるのだろうか?
実は、トリスタン物語は元来ケルト民話の中で語られたものであり、11−12世紀にフランスで活字化された物語の中には、媚薬に期限が付けられているものがあった。
ベルールという語り手による「トリスタン物語」はその代表であり、恋の薬の有効期限は3年とされていた。

面白いことに、3年という期間は、アメリカの科学者が実験した結果と一致している。
恋人の写真を見せ、脳内の反応をMRIで測定すると、ドーパミンが作られる部位に反応するという。ただし、その効果は18ヶ月から3年しか持たないらしい。といったことが、以下のyoutubeビデオを見るとわかる。

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19世紀後半に活躍した芸術家たち ー 同じ年に生まれて

私たちが芸術作品や文学作品に触れるとき、普段はあまり画家や作家の生まれた年齢を考えることはないのだが、実は作品にとってかなり大きな要素になっている。
というのも、同じ世代に属していると、一つの時代の雰囲気の中で育ち、同じような教育を受けているからである。
小澤征爾と大江健三郎の対談集『同じ年に生まれて』に倣って、19世紀後半に活動の中心が位置する芸術家や作家たちを、出生年順に列挙してみよう。

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小林秀雄 「実朝」 知る楽しみ 2/2

文学部の大学院生だった頃、「文学の研究をして何の意味があるのだろうか?」という疑問が湧き、「研究を通して対象とする作品の面白さや価値を人に伝えること」という言葉を一つの答えとしたことがあった。

最近、それを思い出したのは、二つのきっかけがある。
一つは、ドガの「14歳の小さな踊り子」に関するユイスマンスの言葉によって、その作品の美を感じたこと。 ドガ 「14歳の小さな踊り子」 知る楽しみ 1/2

もう一つが、小林秀雄の解説で、源実朝の一つの和歌の詠み方を教えられたことだった。

箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

この和歌を前にして、私には、海に浮かぶ小さな島に波が打ち寄せる風景しか見えてこない。それ以上のことはまったくわからない。

そんな私に対して、小林秀雄はこう囁く。

大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、またその中にさらに小さく白い波が寄せ、またその先に自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている。(小林秀雄「実朝」)

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ドガ 「14歳の小さな踊り子」 知る楽しみ 1/2

文学部の大学院生だった頃、文学の研究をして何の意味があるのだろうかと考えたことがあった。
そんなことが頭に浮かぶのはだいたい勉強が行き詰まっている時なので、教師や友人に問いかけたり、色々なジャンルの本を読んだりと、要するに真正面から研究に取り組まない時間を過ごすことになる。
とにかく、そんな風にしている中で、「研究を通して対象とする作品の面白さや価値を人に伝えること」という言葉を誰かに言われ、一つの答えとして納得した覚えがある。

最近、ドガに関する本(アンリ・ロワレット『ドガ 踊り子の画家』)に目を通している時、そんな思い出が急に頭に浮かんできた。
今までドガの絵画を面白いと思ったことがあるけれど、彫刻にはそれほど興味がなかった。しかし、最初のページに置かれた「14歳の小さな踊り子」の写真と、それに付けられたユイスマンスの言葉を見て、彫刻の素晴らしさに心を動かされ、初めて美を感じることができた。

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文学作品の読み方 中原中也の詩を通して

Auguste Renoir, La liseuse

文学は必要か?と問われれば、現代こそ文学作品を「読む」ことが必要な時代はない、と答えたい。
ただし、小説、詩、戯曲などを読むには、それなりの読み方を学ぶ必要がある。

文学作品を読む際、どのように読むかは読者の自由に任されていて、自由な感想を持ち、自由に自分の意見を持つことができるという前提があり、決まった読み方があるとは考えられていない。

自由に読むという作業は、多くの場合、読者の世界観を投影している場合が多い。作品の中からいくつかの箇所を取り上げ、それに対して自分の思いを抱き、思いを語るのが、一般的な傾向だといえる。一人一人の読者の感想こそが重要だと考えられることもある。

しかし、その場合には、どの作品を読んでも、結局は同じことの繰り返しになってしまう。というのも、作品を通して読んでいるのは、読者の自己像だから。
あえて言えば、文学が好きな人間には自己に固執しすぎるきらいがあり、作品に自己イメージ、しばしば性的コンプレクスを投影することも多い。

ソーシャル・メディアで発言される内容、そして、発言の読まれ方は、その延長だと考えることもできる。
根拠を問うことなく、自分の信じたい内容を信じる。違う意見があれば、フェイク・ニュースと言う。
自己イメージに合ったものを信じ、そうでないものは切り捨て、時には断罪する。

文学作品は、客観的な情報を伝えるものではないために、読者の主観が重要だとする考え方は強い。しかし、そうした読み方は、ソーシャル・メディアへの接し方とほとんど変わらない。

文学作品を読む時にも、それなりの作法がある。
その作法を学ぶことで、自己イメージを作品に投影するのではない読み方を身につけることができるだろう。
そして、それこそが、現代社会において必要とされる情報受信の方法だといえる。

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アイデンティティの捉え方がもたらす社会問題

精神分析学者エリサベート・ルディスコが、 2021年3月10日のQuotidienに招かれ、 アイデンティティについて話している内容は、フランスの社会問題を考える上で大変に興味深い。
1)精神分析は役に立つのか。立つとしたら何の役に立つのか。
2)現代のアイデンティティの捉え方がもたらす社会の問題

Elisabeth Roudinesco interroge les dérives identitaires
Elisabeth Roudinesco est historienne et psychanalyste. Autrice de grands livres de référence sur Jacques Lacan et Sigmund Freud, figure de la gauche française, engagée dans la lutte contre le colonialisme, l’antisémitisme et l’homophobie, elle publie cette année « Soi-même comme un roi ». Un essai sur les dérives identitaires de nos sociétés. 

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自由と真実 liberté et vérité

西欧社会では、人間の「自由」に大きな価値を置いている。基本的な人権は自由を認めることであり、自由を認めないことは主権の抑圧と捉えられる。
社会主義的な国では、個人の自由よりも国家の権限が上に置かれ、社会の安定を維持するためであれば、個人の自由を制限することは、かなりの部分で許容される。
日本はその中間にあり、自由は主張するが、ある程度の制限は仕方がないという傾向が見られる。

自由の問題は、誰もが匿名で非人称のコミュニケーション空間にオピニオンを発信できるSNSの時代になり、真実を認定する困難さをますます増大させている。
何を発言し、何を信じるとしても、個人の自由。そうなれば、真実とは一人一人が真実だと思うものであり、他者と共有される必然性はなくなる。
より現実的なレベルで言えば、限定された数の人間がオピニオンを共有すれば、それが他のオピニオンからどんなにFake Newsと言われようと、彼らにとっての真実であり続ける。
その状況は相互的であり、100人のうち70人がAを、30人がBを真実とした場合、どちらが真実と言えるのか?
映像でさえ容易に加工できる時代、言葉だけではなく、映像もそのまま信じることはできない。

現代社会において大きなテーマであり続ける自由と真実について、歴史的な展望を含め、少しだけ考えてみよう。

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