
映画の本質はストーリーでもなければ、物語の背景にある倫理観でもない。映画の中で殺人が起こっても現実の殺人ではないし、どんなに荒唐無稽な出来事でもフィクションとして受け入れることができる。
映画としての本質がそこにないことはわかっている。
ストーリーや倫理観を取り上げるのであれば、映画でも小説でも、理解する内容が同じことは多くある。映画を見るときには、映画的な表現を体感することが最大の楽しみとなる。

それはわかっているのだけれど、しかし、どうしても倫理的な価値観でつまずいてしまうことがある。
例えば、西部劇は、どんなに名作と言われても、見る気がしなくなってしまった。
アメリカ西部の未開拓地に進出したヒーローが、無法で野蛮なインディアンと戦い、勝利を収めるのが基本的なパターン。しかし、西部が未開拓、インディアンが野蛮というのは白人側からの視点。現代の視点からすると、ヒーローは侵入者でしかなく、インディアンは自分たちの土地を守るためにカーボーイたちを襲わざるを得ない状況に置かれている。
それは単なる状況設定であり、西部劇の傑作は、現代的な価値観を超えて永遠の価値を持ち続けていると言われるかもしれない。しかし、開拓者精神を賛美する視点につまずくために、西部劇が楽しめないようになってしまった。
カンヌ映画祭のパルム・ドール、アメリカのアカデミー賞の4部門で受賞したポン・ジュノ監督の「パラサイト」は、批評家からも高い評価を受け、私の個人的な価値判断など意味を持たないことはわかっている。
ただ、この映画を全面的に楽しめない理由が、倫理観にかかわっていることがわかっているので、その点について考えてみたい。