2023年4月に公開される映画« Mon chat et moi »のメイキングを紹介するニュース。
Les chatons font leur cinéma
続きを読む映画は映画として見ることが大切だとはわかっているのだが、それでも、時代の違いによる感受性や倫理観でつまずいてしまうことがある。
たまたまテレビでやっていたという理由で「ロード・オブ・ザ・リング」、「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」を見て感じていたのだが、1954(昭和29)年に公開された「帰らざる河」になると、至るところで違和感を感じてしまった。(そんな見方をしたら、映画が面白く見れなくなってしまうのはわかっているのだが・・・。)
このブログを書くために「帰らざる河」の予告編をyoutubeで探していたら、日本での映画紹介があった。それを見ると、違和感を感じた部分がまさにメインになって切り取られている。
ジャン・リュック・ゴダール監督の死亡が2022年9月13日に伝えられた。
ゴダール作品はどれも「映画とは何か?」という問いを観客に突きつけるものであり、一般的には、難しいとか面白くないと感じられるかもしれない。
しかし、1960年代から現在まで、常に映画の世界で忘れられたことがないとしたら、それだけの意味を持っていることは確かである。
Everything happens to meを日本語にしたら、「ぼくには嫌なことしか起こらない」といった感じだろうか。
道を歩いていたら黒猫を見るところから始まり、ゴルフの予定を入れると雨が降る。パーティをすると上の階の人から文句を言われる。風邪をひいたり、電車に乗り遅れたり、等々。愛する人に電話をし、電報を送ると、彼女から来たのは別れの手紙。しかも着払い!
Everythingというのは、そんな悪いことばかり。
ウディ・アレンの「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」では、生まれ育った街ニューヨークが住みにくくて田舎の大学に行った主人公ギャツビー(ティモシー・シャラメ)が、週末にニューヨークに戻り、元カノの妹で、とても感じの悪いチャン(セレナ・ゴメス)の家に行き、そこにあったピアノで弾き語りする場面で、Everything happens to meが使われている。
ティモシー・シャラメは、歌の上手な素人っぽさをよく出してる。
映画の本質はストーリーでもなければ、物語の背景にある倫理観でもない。映画の中で殺人が起こっても現実の殺人ではないし、どんなに荒唐無稽な出来事でもフィクションとして受け入れることができる。
映画としての本質がそこにないことはわかっている。
ストーリーや倫理観を取り上げるのであれば、映画でも小説でも、理解する内容が同じことは多くある。映画を見るときには、映画的な表現を体感することが最大の楽しみとなる。
それはわかっているのだけれど、しかし、どうしても倫理的な価値観でつまずいてしまうことがある。
例えば、西部劇は、どんなに名作と言われても、見る気がしなくなってしまった。
アメリカ西部の未開拓地に進出したヒーローが、無法で野蛮なインディアンと戦い、勝利を収めるのが基本的なパターン。しかし、西部が未開拓、インディアンが野蛮というのは白人側からの視点。現代の視点からすると、ヒーローは侵入者でしかなく、インディアンは自分たちの土地を守るためにカーボーイたちを襲わざるを得ない状況に置かれている。
それは単なる状況設定であり、西部劇の傑作は、現代的な価値観を超えて永遠の価値を持ち続けていると言われるかもしれない。しかし、開拓者精神を賛美する視点につまずくために、西部劇が楽しめないようになってしまった。
カンヌ映画祭のパルム・ドール、アメリカのアカデミー賞の4部門で受賞したポン・ジュノ監督の「パラサイト」は、批評家からも高い評価を受け、私の個人的な価値判断など意味を持たないことはわかっている。
ただ、この映画を全面的に楽しめない理由が、倫理観にかかわっていることがわかっているので、その点について考えてみたい。
濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」は、原作とされる村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」を超えて、大変に素晴らしい作品に仕上がっている。
その証拠は、約3時間の上映時間の間ほとんど退屈することなく、一気に見ていられること。それほど明確なストーリーがないにもかかわらず、映像と音の世界に熱中していられることは、映画作品として優れていることを示している。
ストーリーに関して言えば、村上春樹の作品の中でどちらかと言えば凡庸な短編小説「ドライブ・マイ・カー」を骨格としながら、「シェーラザード」と「木野」という別の短編小説からいくつかの要素を取りだし、俳優兼演出家である家福悠介(西島秀俊)を中心にして展開する。
一方には、家福(かふく)の私生活が置かれる。
その中で、妻である音(おと:霧島れいか)が俳優の高槻耕史(岡田将生)と浮気している現場を目撃しながら、幸福を演じようとした家福の心の葛藤に焦点が当てられる。「僕は悲しむべき時にきちんと悲しむべきだった。」
もう一方には、家福の演出するチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の上演が置かれる。
こちらは、村上春樹の小説とはあまり関係なく、滝口監督が大幅に付け足した要素。日本語、ロシア語、中国語、韓国語の手話といった多言語で演じられる演出は、滝口監督が自らの作品論、芸術論、世界観を語っているとも考えられ、しかもそれが家福の私生活と関係しているという、非常に工夫された構造になっている。
それら二つの部分をつなぐのが、渡利みさき(三浦透子)の運転する家福の車、赤いサーブ900の内部空間で交わされる会話。
そこでは、死んだ妻・音が「ワーニャ伯父さん」のセリフを読む声が流れ、家福の知らない音の夢の最後を高槻が語り、ドライバーみさきが過去を語り、そして家福も自己を語る。
映画の題名「ドライブ・マイ・カー」が、映画の全ての部分を一つにまとめている。
ネット上では、「ネタバレあり」とか「ネタバレ注意」とかいうように、「ネタバレ」という言葉にしばしば出会う。
映画であれば、あらすじを最後まで語るとか、とりわけ最後に準備されている大どんでん返しをバラしてしまうと観客の楽しみが損なわれると考えられ、「ネタバレ注意」と言われることがある。
しかし、ふと振り返ってみると、好きな映画ならば、2度、3度と見ることはよくある。その場合には、ネタはバレている。でも楽しむことができる。
そんなことを考えながら、ネタバレについて考えてみよう。
出発点は、ビリー・ワイルダー監督の「情婦(原題:Witness for the Prosecution」)。
アガサ・クリスティの短編小説「検察側の証人」が原作で、最後の最後に大々どんでん返しがあり、本当に面白い。
そして、映画の最後に、次のクレジットが入る。
The management of this theater suggests that, for the greater entertainment of your friends who have not yet seen the picture, you will not divulge to anyone the secret of the ending of Witness for the Prosecution.
要するに、映画をまだ見ていない友だちが最大限に楽しめるように、映画の最後に置かれた秘密を漏らさないようにして下さい、という内容。
続きを読む2022年1月13日、ジャン・ジャック・ベネックス監督が75歳で死去した。
そのニュースを伝えながら、「ル・パリジアン」では監督のキャリア全体を振り返っている。
https://www.leparisien.fr/culture-loisirs/disparition-le-realisateur-jean-jacques-beineix-est-mort-a-75-ans-14-01-2022-ZZS4VRXLCVGSFIAN3MMEUV27YU.php
ベネックス監督の代表作「ディーバ(Diva)」はスタイリッシュでとにかく格好よく、「ベティ・ブルー(37°2 le matin)」は激しい情熱恋愛(パッション)が全てを美しく燃焼する映画だった。
ディーバ Diva ジャン・ジャック・ベネックス監督のスタイリッシュな傑作
ベティ・ブルー 37º2 Le Matin 激しく美しい愛の物語
この二つの作品は、いつ見ても、素晴らしい。
アントワーヌ・ドワネルの人生を描いた四本の作品 — 「大人は判ってくれない」(Les Quatre cents coups、1959年)、「夜霧の恋人たち」(Baisers volés、1968年)、「家庭」(Domicile conjugal、1970年)、「逃げ去る恋」( L’Amour en fuite、1979年)— は、フランソワ・トリュフォー監督を代表する作品。その4つの作品が簡潔に紹介されている。