アンリ・マチス展 in ポンピドー・センター Henri Matisse, comme un roman

2020年10月21日から2021年2月22日まで、パリのポンピドー・センターで、アンリ・マチスの展「Henri Matisse comme un roman」が開催されている。
10月26日のQuotidienでは、なぜ今マチスか?という視点で、その紹介がなされていた。

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ディドロと廃墟の画家ユベール・ロベール 1767年のサロン Denis Diderot Salon de 1767 知覚から内面へ

Élisabeth Vigée Le Brun, Hubert Robert

ドゥニ・ディドロは、物質主義的な視点から、絵画を論じた。
物質主義とは、簡潔に言えば、事物が視覚を通して人間に刺激を与え、それが感情、思考、道徳、哲学的な思考等の起源になると考える思想である。

『1767年のサロン』では、ユベール・ロベールの描く廃墟の絵画が取り上げられた。
ディドロによれば、ユベール・ロベールの廃墟には人が多く描かれすぎ、孤独や沈黙が不足していると批判する。
その上で、廃墟が視覚的な刺激によって人間にどのような効果をもたらしうるのかを説明した。

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ディドロとシャルダン 1763年のサロン Denis Diderot Salon de 1763 物質の質感

ドゥニ・ディドロは、唯物論に基づき、肉体(物質)に依存する五感が、知覚だけではなく、知識、感情、道徳観等の根底にあり、全てを決定するものと見なした。

そうした思想家が絵画を見る時には、絵画が伝える視覚表現、つまり、キャンバスの上に描かれた物質の質感が重要な役割を果たす。

そのことを知ると、ディドロがジャン・シメオン・シャルダンの絵画を激賞したことに納得がいく。
日常生活で見慣れた、ごくありふれた物たちが、シャルダンの静物画の中では、本物以上に本物らしく見える。
「シャボン玉遊び」で描かれた透明なシャボン玉は、触れれば破裂してしまいそうである。

Jean Siméon Chardin, Bulles de savon

ここでは、『1763年のサロン』の中でディドロがシャルダンについて論じた一節を参照しながら、ディドロの絵画観について考察していこう。

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ボードレール 現代生活の英雄性 1846年のサロン 永遠の美から時代の美へ

『1846年のサロン』の最終章「現代生活の英雄性(L’Héroïsme de la vie moderne)」で、ボードレールは、彼の考える美を定義した。

伝統的な美学では、美とは唯一で絶対的な理想と考えられてきた。例えば、ヴェルヴェデーレのアポロン、ミロのビーナス。

理想の美は、いつの時代に、どの場所で、誰が見ようと、常に美しいと見なされた。

それに対して、19世紀前半のロマ主義の時代になり、スタンダールやヴィクトル・ユゴーが、それぞれの時代には、その時代に相応しい美があると主張した。
ボードレールも、美は相対的なものであるという考え方に基づき、自分たちの生きる時代の美とは何か、彼なりの結論を出す。
その例として挙げるのは、ポール・ガヴァルニやウージェーヌ・ラミ。

ボードレールは、こうした美のあり方を、「現代生活の英雄性」と名付けた。

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ボードレール 肖像画について 1846年のサロン — 歴史と小説

ボードレールは『1846年のサロン』の中で、肖像画(portrait)を理解するには、二つの様式があるという。一つは歴史、もう一つは小説。
Il y a deux manières de comprendre le portrait, — l’histoire et le roman.

歴史的理解の代表は、例えば、ダヴィッドの「マラーの死」。
小説的理解の代表は、トーマス・ローレンスの「ランプトン少年像」。ルーベンスの「麦わら帽子」も、後者に含まれるかもしれない

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ボードレール 理想とモデル 1846年のサロン

Dominique Ingres, L’Odalisque à l’esclave

ボードレールの絵画論では、現実の対象を見ずに、空想だけで描いたり、過去の傑作をベースにして新しい絵画を描くことは否定された。
絵画は、あくまでも現実のモデルがあり、そこから出発しなければならない。

しかし、モデルをそのまま忠実に再現するのでは、絵画はモデルのコピーでしかないことになる。

『1846年のサロン』の「理想とモデルについて」と題された章で、ボードレールは、線やデッサンを中心にした絵画に焦点を当てながら、モデルとなる対象と、描かれた理想象について考察する。

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ボードレール ドラクロワ 絵画論 1846年のサロン

「1846年のサロン」の中で、ボードレールはドラクロワについて論じながら、彼自身の絵画論の全体像を提示した。

その絵画論は、ドラクロワの絵画を理解するために有益であるだけではなく、ボードレールの詩を理解する上でも重要な指針が含まれている。

1)芸術についての考え方:インスピレーションか技術か
2)作品の構想と実現:自然(対象)との関係
3)作品の効果

ボードレールは、ドラクロワの絵画に基づきながら、以上の3点について論じていく。

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死後のゴッホ Gogh après sa mort 栄光への階段

ゴッホが画家としての活動をしたのは、1881年から1890年の間の、僅か10年弱。
しかも、1886年にパリにやってきてから、アルル、サン・レミ、オヴェール・シュール・オワーズと、彼のパレットの上に明るい色彩が乗っていた期間は、4年あまり。
フランス詩の世界で言えばアルチュール・ランボーに比較できるほど、短い期間に流星のように流れ去っていった。
そして、ランボーと同じように、生前にはまったく評価されなかった。

しかし、ゴッホの死後、比較的早く、彼の絵画を評価する動きが始まり、現在では、世界で最もよく知られ、人気のある画家の一人になっている。
彼の死を境に、何が起こったのか、当時の美術界の状況を含めて見ていこう。

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ゴッホ サン・レミからオヴェールへ Gogh de Saint-Rémy à Auvers-sur-Oise 狂気と創造

Vincent von Goth, À la porte de l’éternité

1889年5月初旬、ゴッホは、アルルから北東20キロほどにあるサン・レミの療養所に入院する。そこは、聖ポール・ド・モゾールという修道院を改修した精神病院で、修道女たちによって運営されていた。

最初は満足していたようであるが、制度的なキリスト教に幻滅していたゴッホには耐えられない入院生活となり、一年後の1890年5月、南フランスを離れ、パリ北部にあるオーヴェル=シュル=オワーズでの生活を始める。
そこでは、ポール・ガシェ医師の治療を受けながら、ラヴーの経営する小さな宿屋に滞在した。

1890年7月27日の夕方、ゴッホはラヴー旅館に怪我を負って戻ってくる。自分で左胸を銃で撃ったと考えられているが、他の説もあり、実際に何があったのかはわからない。とにかく、その傷が元で、29日午前1時半に息を引き取る。

この間、約14ヶ月。ゴッホは狂気の発作に何度も襲われながら、創作活動を続けた。

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アルルのゴッホ Gogh à Arles 黄色の画家

1888年2月、ゴッホはパリを離れ、アルルで活動を始める。
同じ年の10月下旬にはゴーギャンが合流し、画家の共同体の夢が実現するかのように思われる。しかし、二人の画家の関係はすぐに悪化し、12月23日、ゴッホが自分の左耳をそぎ落とすという事件が勃発、共同生活は終わりを迎える。
ゴーギャンはパリに戻り、ゴッホはアルル市立病院に収容される。

1889年1月、ゴッホは退院を許されるが、2月下旬になると住民たちがゴッホの存在を恐れ、彼の立ち退きを求める請願書を提出した。そのために、再びアルル市立病院に入院させられ、5月初めまで留まることを余儀なくされる。

この15ヶ月ほどの間に、ゴッホは風景画、肖像画、静物画を数多く描き、彼の絵画を特徴付ける「黄色の世界」に到達した。

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