土佐・桂浜で坂本龍馬像を前にして 「日本の夜明け」について考えた

高知に行けば、桂浜に行く。桂浜に行けば、龍馬の像を見上げる。たいていの人が、たぶん、そうなる。

いまの日本で坂本龍馬は、よく知られ、よく愛されている。薩摩と長州を結び、幕府を倒す流れに関わった人物であり、しかも明治維新の直前に暗殺されて、あっけなく人生が途切れる。史実だけでも十分に劇的だ。
けれど、人気の芯は別のところにあるのかもしれない。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で語られる「たとえどぶの中でも前向きに倒れて死ね」のような言葉や、「日本の夜明けぜよ」といった台詞のイメージが、彼の輪郭をいっそう明るく照らしている。龍馬はいつしか、前向きに生きることの代名詞になった。

そんなことを思いながら、桂浜の空を背にして立つ像の前に立った。潮の匂いと風の音のなかで、どうでもよさそうで、しかし一度浮かぶと消えない疑問がよぎった。
明治維新は、本当に日本の「夜明け」だったのだろうか。もし夜明けなら、その前の江戸時代は「闇」だったのだろうか。

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 3/3

(2)日本文学の中の言葉

「言葉には届かない領域がある」という言語観を、荘子と仏教の公案を通して確かめてきたが、ここからは、その意識が、理論や説話ではなく、和歌や俳句といった言語芸術によってどのように表現されてきたのかを、簡単に見ていこう。

和歌の場合は三十一音、俳句ではわずか十七音によって、言葉の直接的な意味だけではとうてい表現不可能な世界が浮かび上がる。そこでは、言葉は常に意味を超えたものを思わせ、「そこにあるもの」から、その奥にひっそりとたたずむ何かを呼び起こす。

その代表的な例の一つとして、まずは藤原定家のよく知られた和歌を読んでみよう。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 
浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮
(『新古今和歌集』秋上・363)

秋の夕暮れ、浜辺に立ち、ぐるりとあたりを見渡しても、美しい花も紅葉した木々もない。目に入ってくるのは、浦に建つ漁民の粗末な苫屋だけである。
和歌の意味するところを散文で言い表せば、そのような寂しく殺風景な情景への言及にすぎない。

しかし、それにもかかわらず、この和歌は日本的な美の表現としてしばしば取り上げられ、現代の私たちの感性にも強く訴えかける力を持っている。

その一つの鍵は、「なかりけり」という言葉にある。
この語が存在を否定することによって、かえってその侘しく寂しい光景の中に、存在しないはずの花と紅葉が一瞬、心に描き出される。

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 2/3

C. 禅の公案 「世尊拈花(せそんねんげ」)」

禅宗ではしばしば「不立文字」という言葉が用いられる。これは、悟りの境地や真理が、文字や言葉による説明に還元しきれないところにあるとする考え方である。言葉によって伝え尽くすことのできないものを、あえて言葉で示そうとするとき、その言葉は必然的に、論理的には把握しにくい、あるいは一見すると意味不明なものとならざるをえない。

そうした禅の言語観を象徴的に表現する説話として知られているのが、『無門関(むもんかん)』に収められている「世尊拈花(せそんねんげ)」である。
これは初期仏典に見られる挿話ではなく、中国禅宗の成立過程において形成された後代の説話であるが、禅が言葉と悟りの関係をどのように理解してきたかを端的に示すものとして、大きな意味をもっている。

昔、お釈迦さまが霊鷲山(りょうじゅせん)で、多くの弟子たちが集まる法会の席におられた。そのとき、お釈迦さまは何も語らず、ただ一輪の花を手に取り、皆に示された。
弟子たちは、だれ一人としてその意味が分からず、黙したままだった。ただ一人、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)、すなわち摩訶迦葉(まかかしょう)だけが、にっこりと微笑んだ。
すると、お釈迦さまは言われた。
「私は、言葉に頼らずに真理を見抜く眼である正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、静かで深い悟りの心である涅槃妙心(ねはんみょうしん)、形をもたない真実のあり方である実相無相(じっそうむそう)、きわめて奥深い真理の教えである微妙の法(みみょうのほう)を持っている。これは、文字や言葉によって立てられる教えではなく、不立文字と呼ばれるものであり、教えの外で直接に伝えられる教外別伝である。私はこれを、摩訶迦葉(まかかしょう)に託す。」
(『無門関(むもんかん)』第六則)

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 1/3

現代の日本では、「言葉にしなければ自分の意志を相手に伝えられない」と言われることが多い。コミュニケーションが苦手な人の特徴として、「自分の意見をうまく言語化できない」といったことも挙げられる。

しかし一方で、「言わぬが花」という考え方や、「言わなくても分かる関係」が親密さの一つの指標になると感じられる場合もある。
仏教に由来する「以心伝心」や「阿吽の呼吸」といった言葉が、今も日本文化の中に息づいていることも確かである。

こうした相反する言語観を同時に抱えている現代の日本人には、「言わなくてもこれくらい分かるだろう」と「言わなければ分からない」との間で齟齬が生じることがある。「そこまで言わなくてもいいのに」と思うこともあれば、「もっと言ってほしかった」と感じることもあるだろう。

こうした状況にいるとき、これまでの日本文化の伝統の中で、言葉がどのように考えられ、どのように使われ、何を表現してきたのかを知ることは、現代の私たちが言葉について考えるうえでも有用である。

ここではまず、私たちの文化の根底に流れる仏教や荘子の言語観を考察し、ついで、そうした考え方が日本においては和歌や俳句といった言語芸術によって、いかに具体的に表現されてきたかを見ていくことにしよう。

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 4/4

(5)天孫降臨 天照大御神の地上における代理者

天武天皇によって編纂が命じられた『古事記』と『日本書紀』において、「天孫降臨(てんそんこうりん)」が最も重要な神話的挿話であることは、まず異論のないところだろう。
なぜならこの挿話は、高天原(たかまがはら=神々の次元)から葦原中国(あしはらのなかつくに=人間の次元)へと、天照大御神の孫である邇邇芸尊(ににぎのみこと=以下ニニギと記す)が降臨することを語り、さらに初代天皇・神武天皇へと系譜が連なることで、天皇が神の子孫であることを国内外に示す役割を担っているからである。

『万葉集』で言えば、これはまさに「大王(おおきみ)は神にしませば」という表現と対応する思想である。そして、この表現を用いた和歌が、天武天皇の時代(在位:673年〜686年)に数多く見られることは、「天孫降臨」神話が七世紀後半に形成された可能性を示唆しているといってよいだろう。

ここで興味深いのは、和歌においては「大王は神にしませば」と、ほとんど前提となる説明を必要とせずに詠まれ得る思想が、『古事記』では読み物としての物語として語られ、他方、『日本書紀』では「日本」という国家の正当性を国内外に主張する論理を含んだ神話として構成されている点である。

その違いを知ることは、現代の私たちが日本神話をより深く理解する手がかりとなると同時に、現在の日本のあり方を、先入観にとらわれずに捉えることにもつながるだろう。

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 3/4

(4)天の岩戸(あめのいわと)

天岩戸(あめのいわと)の挿話は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が日の神であり、高天原(たかまがはら)を太陽の光で照らす主神であることを、国内外に宣言する役割を果たしている。

天照大御神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が数々の乱暴を働いたことに怒り、岩でできた洞窟、すなわち天岩戸の中に身を隠してしまう。その結果、世界全体は闇に包まれ、永遠の暗闇が続くことになる。
そこで、多くの神々が工夫を凝らし、後の時代の宗教儀礼の起源を思わせるような行為を行うことで、天照大御神を天岩戸の外へと誘い出し、世界は再び光を取り戻す。

この大まかな挿話の流れは『古事記』と『日本書紀』に共通しており、天照大御神の存在と不在を対照的に描き分けることで、日の神が世界において果たす役割を明確に伝えている。

他方で、両書の間には明確な違いも認められる。一方が神々の世界の物語として語られるのに対し、他方では、天皇および豪族の祭祀を連想させる語り方がなされているのである。

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 2/4

(3)『古事記』と『日本書記』における
日の神・天照大御神の主神化の過程

『日本書記』には、壬申の乱の過程において、大海人皇子の一行が「天照大神を仰ぎ見て拝した」とされる一節があり、その祈りが聞き入れられて勝利がもたらされた、という意図を読み取ることができる。
この記述は、神武天皇以来の天皇の権力基盤が固まり、政権が安定するにつれて、天照大御神を国家の主神として祭り上げていく一つの流れを形成したと考えられる。

A. 『日本書記』本文 天下を治める日の神

『日本書記』の本文において、天照大御神の誕生を語る部分では、イザナギとイザナミが国生みを終えた後、自然界のさまざまな事物を生み、その創造の最後に「日の神」を生んだとされる。その神の名前の一つが天照大御神である。

まず海が生まれ、次に川が生まれ、さらに山が生まれた。その後、木の祖神である句句廼馳(くくのち=樹木の根源神)が生まれ、草の祖神である草野姫が生まれる。草野姫は、野槌(のづち)とも呼ばれている。
こうして伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は相談し、言った。
「私たちはすでに大八洲国をはじめ、山や川、草や木まで生み出した。ならば、天下を治める主を生まないわけにはいかない。」
そこで二柱の神は日の神を生み、大日孁貴と名づけた。「大日孁貴」は「おおひるめのむち」と読み、「孁」は“ひるめ”と読む。ある書には天照大御神と記され、また別の書には天照大日孁尊(あまてらす おおひるめのみこと)とも記されている。
この神は光り輝く霊妙な神で、その光は天と地、さらに東西南北の四方すべてに行き渡り、世界の隅々を照らしていた。そのため二柱の神は喜び、言った。
「私たちの子は多いが、これほど霊しく不思議な子はかつてなかった。この国に留めておくべきではない。早く天へ送り、天上の政を司らせるべきである。」
当時は天と地の隔たりがまだ大きくなかったため、天の柱を立て、それを押し上げて天上へ送ったという。
(『日本書記』神代上、本文)

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天照大御神はどのようにして主神となったのか 1/4

天照大御神(あまてらすおおみかみ)について、一般の日本人はどのようなことを知り、どのようなイメージを抱いているのだろうか。

岩戸隠れのエピソードで知られる太陽の女神であり、伊勢神宮に祀られ、皇室の祖先神で、日本神話の中で最も尊い神である。多くの人は、おおよそこのような、やや漠然とした理解を抱いているのではないだろうか。

もしそうだとすれば、その背景には、日本神話が語られている『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)を、私たちが実際にはほとんど読むことがないという事情がある。その点において、日本の状況は、ヨーロッパでギリシア・ローマ神話が比較的広く読まれている状況とは、かなり異なっていると言えるだろう。

さらに、日本の神話を体系的に語った最初の書物である『古事記』や『日本書紀』についても、それらが誰によって、いかなる意図のもとに編纂されたのかは、十分に知られているとは言いがたい。『古事記』が日本語を漢字によって書き写した書物であるのに対し、『日本書紀』は漢文によって記された歴史書であるという基本的な違いでさえ、必ずしも広く共有されているわけではない。

その結果、日本神話の中心的存在とも言える天照大御神についても、どのような経緯で主神と見なされるようになったのか、また神話の中でどのような役割を担っているのかといった点が、深く考えられることのないまま、半ば自明のものとして受け入れられているように思われる。

もちろん、そのような理解の仕方であっても、知らないままで差し支えが生じるわけではない。しかし、知らないということに気づいてしまうと、つい知りたくなるのも人情である。そうした思いに導かれて、ここでは少しだけ、天照大御神について掘り下げて考えてみたい。

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「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 2/3 

(3)大泊瀬稚武天皇と雄略天皇

「籠もよ み籠持ち」の長歌には、「雜歌/泊瀬朝倉宮 御宇 天皇代〔大泊瀬稚武天皇〕/天皇御製歌」という題詞が付けられている。

御宇(ぎょう)の「御(ご)」は尊敬を表す接頭語であり、「宇(う)」は本来「覆うもの」を意味する語で、そこから転じて「天下を覆い治める」、すなわち「統治する」という意味を持つようになった。したがって、御宇(ぎょう)とはここでは、天皇が天下を治めることを意味し、この長歌が大泊瀬稚武天皇の御代の歌として位置づけられていることを示している。

その天皇名「大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)」のうち、「泊瀬」は、現在の奈良県桜井市周辺に比定される地名であると考えられている。これを前提とすれば、「大泊瀬稚武」という名は、「大泊瀬」と「稚武(わかたける)」という二つの要素に分けて理解することも可能であろう。その場合、この名称は、泊瀬を拠点とする稚武(わかたける)という人物像を示すものと解釈することができる。

ただし、「大」という語が具体的に何を意味するのかについては明確ではなく、宮殿の規模を直接示すものと断定することはできない。地名的修飾、尊称、あるいは他の王との区別を意図した表現である可能性も考慮する必要がある。

そして、「稚武(わかたける)」という名称は、その音形が「ワカタケル」であること、また「武」という漢字が用いられていることの両面において、五世紀に活動した人物との関係を強く想起させる。この点は、金石文資料に見える「ワカタケル大王」との比定が有力視されていることとも関わっており、記紀における大泊瀬稚武天皇像を考えるうえで重要な手がかりとなっている。

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「倭」から「日本」へ  『古事記』『日本書紀』『万葉集』を貫く「大君は神にしませば」の心 1/3

日本の歴史を振り返る際、8世紀初頭に成立した『古事記』と『日本書紀』を欠かすことはできない。というのも、これらは現存する日本最古の文字史料だからである。さらに、同じ世紀の後半に成立した『万葉集』を含め、これらの文献は、「日本」という国家意識を最も直接的に反映した、きわめて貴重な資料であるといえる。

ちなみに、古代において日本列島の有力な部族集団を統合していた政治的主体は、中国王朝を頂点とする東アジア交流圏の中で、「倭」という名称で認識されていた。
その国号が「倭」から「日本」へと転換していくのは、7世紀後半、天武天皇が編纂を開始し、持統天皇が689年に施行したとされる「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を含む、天武・持統政権期の国家制度整備の過程においてであると考えられている。
また、国外においては、702年(大宝2年)の遣唐使が、唐側で用いられていた「大倭国」という国号を退け、「日本国」を称したことが、現存史料に確認できる最古の「日本」という国名の使用例であるとされている。

この国号の変更は、天武天皇が先代の天智天皇から平穏に皇位を継承したのではなく、天智天皇の第一皇子である大友皇子との間で、672年に「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれる内乱を戦い、激しい争いの末に皇位を獲得したという事情と、無関係ではない。

中国の史書が、それぞれの王朝の正当性を確立するという視点から編纂されるのと同様に、天武天皇が「国史」の編纂を命じたことを出発点として成立した『古事記』や『日本書紀』は、天武天皇に始まる王統を揺るぎないものとして位置づけることを、重要な目的としていたことは確かである。『万葉集』もまた、その思想的文脈の中に位置づけることができ、その精神が最も直接的に表現されている文献であるといっても過言ではない。

その精神は、『万葉集』に多く見られる「大君(おほきみ)は神にしませば(皇者神)」という表現によって、端的に示されている。すなわち、天皇は神としてこの世に現前する存在であり、いわゆる現人神(あらひとがみ)として捉えられているのである。

天武天皇や持統天皇たちは、自らの王統が神に連なる一族であることを、史書や和歌という形で記録させることによって、皇位継承の正当性と安定性を確保しようとしたのだと考えられる。

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