インターネット上での誹謗中傷 3/3 自由と責任

(4)自由と責任

インターネット上である書き込みが問題になると、一方では規制をすべきだという主張がなされ、他方では「表現の自由」を守るべきだという主張がなされる。
そして、その二つの主張は常に平行線をたどり、時間の経過とともにいつの間にか問題自体が忘れられてしまう。

また、その議論の中で比較的忘れられているのは、書き込みによって生じた事態に対する、書き込んだ人間の責任に関する問題。
匿名の書き込みの場合は行為の主体が明確でないために、責任がその主体に降りかかることはない。
実名が記され、書き込みの主が明確な場合でも、その状況はほとんど変わらない。内容に根拠がなく、事実とは異なっていたり、ただの思い込みが攻撃性を持ったものだったとしても、責任が問われることはまれである。
炎上することがあったとしても、「数」を増やすことにつながり、その時には批判されることがあるとしても、時間が経てば何事もなかったかのように同じ行為が繰り返される。

発信する「自由」は保障されているが、その内容に対する「責任」が明確に問われることはないというのが現状なのだ。

ここではまず、なぜそうした状況になっているのか考えてみよう。

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インターネット上での誹謗中傷 2/3 匿名と有名

(3)匿名と有名

インターネット上での誹謗中傷が、ネット空間における匿名性によると言われることがある。確かに、殺人予告など直接的に犯罪に繋がる書き込みの場合、氏名を特定できるシステムであれば、ある程度抑制できるに違いない。
しかし、悪口、暴言、根拠のない批難、感情的な意見などは、犯罪とは認定されないために、書き込んだ人間の名前が実名であっても減少しない可能性がある。

A. ネット空間上の匿名

すでに確認したように、書き込みに対して賛同する人間が多数存在することが、書き込んだ人間にとっては自己確認になり、正しい発信をしたという思いを強くさせる。
インターネット上に成立するのは、考えや感受性が類似した同質の雰囲気であり、実在しない架空の空間である。それだけに、異なる意見や感受性があったとしても、それらと交わり、妥協する余地はない。

そうした架空の同質空間内での共感は、「数」によって強化され、もしも「他」が意識化されたとしても、無視するか、否定される。

リアルな社会でも、同じ考えや感受性を持つ人間との交流が中心になるのは自然なことだが、ネット空間では、その傾向がより顕著なのだ。
そして、その空間内では、もし「名前」があったとしても、その名前を持つ「個人」との具体的な繋がりはない。その点で、リアルな世界とは全く異なる。

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インターネット上での誹謗中傷 1/3 数の力 同質性の中での共感

2024年のパリ・オリンピックでも、オリンピックに出場するために厳しい練習を積み、予選を勝ち抜いた選手たちに対して、映像を通して競技を見ているだけの人間たちが感情的なコメントを寄せ、攻撃性を発揮するという状況が見られた。
何かのきっかけがあれば、誰に頼まれたわけでもないのに、インターネット上で誹謗中傷を行い、時に殺害を予告するなどの行動は、現代社会の病いの一つだと考えられる。

そのための対策として、しばしば心理学的な説明が行われ、被害を受けた側だけではなく、攻撃する人間に対する対策も提案されている。

攻撃性の心理的原因
1)匿名性による安心感
2)集団への同調=没個性化
3)自己肯定感の低さからくる承認欲求、目立ちたがり
4)劣等感コンプレックスからくる嫉妬
5)承認欲求や嫉妬に由来する正義感
6)フラストレーションのはけ口

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やる気はあるけれど、最初の一歩を踏み出せない

どんなことに対しても真面目で、やらないといけないことがあれば前向きに取り組もうと思っているのだが、気持ちだけが空回りして、いざ実行しようとすると、最初の一歩が踏み出せないタイプの人がいる。

そうした人は根が真面目なだけに、結果が出せないことに失望し、自分を責めることも多く、自己肯定感が低い。対人関係でも、どこか自信がなさげて、なんとなくおどおどした様子をしている。
その傾向がさらに強まると、攻撃性を自分自身に向け、物理的に自分を傷つけないまでも、精神的に自分を傷つけることはよくある。
そうした人たちの自己認識は、プライドが低く、自分のことがあまり好きではない、ということが多い。

ところが、彼ら、彼女たちと接していると、外見とは違い、プライドが高く、自己愛が強いと感じることがある。

そのズレを出発点として、やる気はあるのに一歩が踏み出せないという状態について考えてみたい。

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トラウマ 人はなぜ思い出したくないことを思い出すのか?

トラウマという言葉を使うと心理学的な外傷体験を考えることになるが、外傷とまでいわなくても、思い出したくないことがふと頭に浮かんできて、嫌な思いをすることは誰にでもある。

なぜ不快な思い出が甦るのだろうか。しかも、1度だけではなく、何度も何度も反復して甦る。時にはその思い出に心が掻き乱され、他のことが考えられなくなったり、夜眠れなくなることがあるかもしれない。

その原因を知りたくて、ジークムント・フロイトの精神分析理論を調べたりしたのだが、快楽原則、現実原則、抑圧、反復脅迫、死の欲動など理解しないといけない概念設定が多く、しかも、納得できる部分とそうでない部分がある。
そこで、自分なりに、「なぜ嫌な思い出が蘇ってくるのか」という問題を、なるべく簡潔に考えてみることにした。

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関係代名詞の罠 — 英語と日本語の語順

英語を勉強する時、日本人にとって一番大きな落とし穴になるのは関係代名詞だろう。

普通に考えれば、言葉は前から聞こえてきて、その語順で理解していく。読む時も同じ。
それなのに、英語の参考書には、、「関係代名詞を含んだ英文を正しい日本語にするには、後ろから戻り訳さなければならない」と書いてあったりする。
« I know the man who is standing under the tree. »を、「私はその木の下に立っている男を知っている。」と訳すことに誰も疑問を持たないし、こうした日本語に訳すことによって英文を理解しようとする。
教室では、英文を理解したことを確認する手段として使われる。

その結果、英語を読むときに、文章の後ろまで読み、前に戻る、などといった読み方をする癖が付いてしまう。
会話の時、言葉は前から順番に流れていくのであり、言葉が逆流することなどありえない。日本人にとって、聞き取りが苦手な理由の一つも、こうしたところに原因があるかもしれない。

そうした問題を頭に置きながら、関係代名詞について考えていこう。

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英語の進行形って何?

英語だけ勉強していると気付かないのだが、他の言語を勉強していると、進行形が英語特有の動詞の表現方法であるを知り、驚いてしまう。少なくとも、フランス語などヨーロッパ系の言語には進行形という形は存在しない。

だからこそ、英語の進行形とは何なのか知りたくなってくるのだが、少し調べただけで、解説があまりにも複雑で、何が何だかわからなくなりそうになる。現在進行形は何となくわかるとしても、現在完了進行形って何だろう? それが未来完了進行形とか過去完了進行形とかになり、その細かな用法やニュアンスが説明されると、ますます混乱してしまう。

そこで、原点に戻って考えてみることにした。
いわゆる進行形と呼ばれるのは、be+動詞のing形

動詞のing形には、現在分詞と動名詞という二つの用法がある。

動名詞というのは、動詞を名詞的に使う用法。
例えば、« He is good at playing tennis. »
前置詞 at の後ろは名詞が来るため、動詞playにingを付けて名詞として扱う。

進行形の場合には、be+現在分詞
現在分詞は過去分詞と対比され、現在分詞は動詞を能動的な意味、過去分詞は受動的な意味にする。
opening (開く): opened(開かれた)
そして、be+現在分詞(ing)は進行形になり、be+過去分詞(ed)は受動態になる。

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愚か者だけが、確信し、決めてかかる(モンテーニュ)

自分が当たり前だと思っていることについて質問され、時に意表を突かれることがある。最近そうしたことが重なり、ふと、「愚か者だけが、確信し、決めてかかるのです。」というモンテーニュの言葉を思い出した。
(参照:モンテーニュ 子供の教育について Montaigne De l’Institution des enfants 判断力を養う


一つ目は、フランス語の鼻母音のリエゾンに関する質問。

« Ton souvenir en moi luit comme un ostensoir ! » (Baudelaire, « Harmonie du soir »)

不定冠詞のunは鼻母音で、発音記号で書けば、[ œ̃ ]になり、[ n ]の音はしない。しかし、ここでは後ろに続く単語 ostensoir が母音 [ o ]で始まるために、[ œ̃ no ]と[ n ]の音がする。カタナカで書いてしまうと「ノスタンソワール」。

この詩句を読んでいる時、「鼻母音でNの音はしないはずなのに、なぜ次にNの音でリエゾンするのか?」と問われ、その場で立ち往生してしまい、答えることができなかった。
自分では習慣的に [ no ]と読み、疑問に思ったことがなかったので、不意打ちを食らったという感じだった。

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ひとはなぜ戦争をするのか  アインシュタインとフロイトの書簡

第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた1932年、国際連盟がアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)に、今の文明の中で最も大切だと思われる事柄を取り上げ、一番意見を交わしたい相手と書簡を交換して欲しいと依頼した。

そこでアインシュタインは「人間はなぜ戦争をするのか」という問いを立て、対話の相手にジークムント・フロイト(1856-1939)を選択した。そして、フロイトがアインシュタインの要請に応え、一回限りだが、二人の間で書簡が交換されたのだった。

その日本語訳が、A・アインシュタイン、S・フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』(浅見昇吾訳、講談社学術文庫)として出版されている。

20世紀はアインシュタインの相対性理論とフロイトの深層心理学に基づく精神分析学が大きな影響を持った時代であり、第一次世界大戦を経た時点で、二人の優れた学者が戦争について語り、どのようにしたら人類が戦争をなくしうるかという問いに対する答えを模索する往復書簡は、戦争を止めることのない人間という存在を考える上で大変に興味深い。

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岡倉天心 「茶の本」 お茶か刀か

岡倉天心の『茶の本』は、アメリカ・ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、1906年(明治39年)に英語で出版した書籍で、茶道の紹介だけではなく、日本の文化や美意識が説かれている。

その背景には次のような時代があった。
1868年の明治維新以降、日本は欧米に匹敵する列強になることを目指し国の近代化に努め、大陸政策を進展させ、1894(明治27)年には日清戦争、1904(明治37)年には日ロ戦争へと突き進んだ。そうした戦争の勝利の中で、日本が西欧に劣った国家ではなく、独自の文化を持った国であるという自覚と誇りが芽生え、各種の日本論が提出された。

『茶の本』もそうした日本論の一つだが、とりわけ21世紀の今、次の一節に目を止めたい。

一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、そでの下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮さつりくを行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

(青空文庫 :https://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html

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