ボードレール 「髪」  Baudelaire « La Chevelure »  官能性から生の流れへ 

愛する女性の髪に顔を埋め、恍惚とした愛に浸る。「髪(La Chevelure)」と題された韻文詩で、ボードレールはそんな官能的な愛を歌いながら、いつしか読者を「思い出というワイン(le vin du souvenir)」で酔わせていく。そして、その過程が、官能の喜びから精神の恍惚への旅として描かれる。

「髪」は、7つの詩節から構成される。
それぞれの詩節は、12音節の詩句が5行から成り、全ての詩節の韻はABAAB。
12音節の切れ目(césure)は6/6と中央に置かれることが多く、詩全体が非常に整った印象を与える。

La Chevelure

Ô toison, moutonnant jusque sur l’encolure !
Ô boucles ! Ô parfum chargé de nonchaloir !
Extase ! Pour peupler ce soir l’alcôve obscure
Des souvenirs dormant dans cette chevelure,
Je la veux agiter dans l’air comme un mouchoir

「髪」

おお、首の上まで波打つ羊毛のような髪!
おお、髪の輪! おお、物憂さの籠もった香り!
恍惚! 今宵、暗い寝室を、
この髪の中で眠る思い出によって満たすため、
この髪を空中で揺り動かしたい、ハンカチを振らすように!

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ベルクソン 直感と持続 Bergson intuition durée

1859年に生まれ、1941年に亡くなったアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)は、19世紀後半に起こった世界観の大転換に基づきながら、「現実」や「私」をそれ以前とは違った風に認識する独自の哲学を展開した。

ここでは、『形而上学入門(Introduction à la métaphysique)』(1903)の中から3つの断片を選び、「直感(intuition)」、「私(moi)」、「持続(durée)」に関する思索を検討し、ベルクソンが私たちに何を教えてくれるのか考えていく。

私たちが物事を理解する時、多くの場合、対象を「分析(analyse)」することで様々な要素を探り出し、それらを総合して理解に達しようとする。

それに対して、ベルクソンは、どんなに多数の要素を総合しても対象自体には決して達することがないと考える。例えば、一秒を60足せば一分になると思ってしまうが、一秒と次の一秒の間には必ず断絶があり、決して流れにはならない。一分を流れとして捉えるためには、「直感(intuition)」によって全体を一気に感じ取るしかない。

(1) Nous appelons ici intuition la sympathie par laquelle on se transporte à l’intérieur d’un objet pour coïncider avec ce qu’il a d’unique et par conséquent d’inexprimable.
(2) Au contraire, l’analyse est l’opération qui amène l’objet à des éléments déjà connu, c’est-à-dire communs à cet objet et à d’autres.

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メルロ=ポンティ 『目と精神』 Merleau-Ponty L’œil et l’esprit 内面と外界の関係

モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の現象学は、身体と精神、外界と内面、客観と主観といった二元論的な思考に基づく対立を回避し、二項間の相互関係を解明しようとした点で、19世紀後半から始まった世界観の大転換の流れの中に位置づけられる。

そうした彼の思想は大変に興味深いのだが、難解な言葉で語られているため、理解するのが難しいことが多い。
ここでは、セザンヌの絵画について究明することを目的に書かれた『目と精神(L’œuil et l’exprit)』から二つの断片を選び、メルロ=ポンティの思想を探ってみよう。

(1) L’animation du corps n’est pas l’assemblage l’une contre l’autre des parties — ni d’ailleurs la descente dans l’automate d’un esprit venu d’ailleurs, ce qui supposerait encore que le corps lui-même est sans dedans et sans « soi ».
(2) Un corps humain est là quand, entre voyant et visible, entre touchant et touché, entre un œil et l’autre, entre la main et la main se fait une source de recroisement, quand s’allume l’étincelle du sentant-sensible, quand prend ce feu qui ne cessera pas de brûler, jusqu’à ce que tel accident du corps défasse ce que nul accident n’aurait suffi à faire… (chapitre II)

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ポール・クローデル 「日本の魂を一瞥する」  Paul Claudel « Un regard sur l’âme japonaise » 日本の2つの美について

ポール・クローデルは1921年から1927年まで日本にフランス大使として滞在し、日本の芸術、文学、文化について様々な考察を行った。
その中でも、1923年7月に日光で行った講演「日本の魂を一瞥する(Un regard sur l’âme japonaise)」は、日本文化についてとても興味深い内容を含んでいる。

この講演で語られた日本の2つの美については、すでにこのブログで扱ったことがある。
クローデルと日本の美 Paul Claudel et la beauté japonaise

今回は、同じ箇所について、もう少し別の視点からアプローチしてみたい。


日本の美に関して、最初に言及されるのは、華やかな美。クローデルは日光の生徒たちに次のように語り掛ける。

C’est ce sentiment de révérence pieuse, de communion avec l’ensemble des créatures dans une bienveillance attendrie, qui fait la vertu secrète de votre art. Il est frappant de voir combien dans l’appréciation des œuvres qu’il a produites, notre goût est resté longtemps loin du vôtre.

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奈良・長谷寺を詠うポール・クローデル Paul Claudel chante le temple de Hasé à Nara

ポール・クローデルは詩人・劇作家であるが、フランス大使でもあり、1921(大正10)年11月から1927(昭和2)年2月まで、休暇の期間を除くと約4年半、日本に滞在した。
その間、日本の文化や心性に強い親しみを持ち、日本の芸術家たちと交わり、書籍からも多くを学び、日本に関する著作、劇作、詩などを数多く執筆したのだった。

1926(大正15)年5月には、約2週間の日程で西日本の各地を訪れた。その中でも奈良の長谷寺には強い印象を受けたらしく、『百扇帖(Cent phrases pour éventails )』の中には、長谷寺関係の素晴らしい短詩がいくつか残されている。

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マラルメ 「もう一つの扇 マラルメ嬢の」 Mallarmé « Autre éventail de Mademoiselle Mallarmé »

19世紀後半には扇を持つ女性の姿が印象派の画家たちによって数多く描かれたが、ステファン・マラルメは詩の中で扇を取り上げ、扇の動きを詩的創造の暗示として描いた。

1884年に発表された「もう一つの扇 マラルメ嬢の」では、語りの主体は、娘が手に持つ扇。
マラルメ嬢は、午後が深まり太陽も傾いてきた頃、扇の風にあたりながら、ゆったりとした気分で扇の言葉に耳を傾ける。

「もう一つの扇 マラルメ嬢の」は、1行が8音節からなり、4行からなる詩節が5つ、テンポよく続く。その音楽は美しい。
その一方で、扇の言葉は人間の言葉ではない。意味を理解するには少し時間がかかる。

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ヴェルレーヌ 「忘れられたアリエット その8」 Verlaine « Ariettes oubliées VIII » 倦怠のおぼろげな風景

Daubigny La Neige

風景を描くことが、人の心の表現になる。日本の和歌ではそれはごく当たり前のこと。
しかし、人間と自然がそれほど親密な関係にないヨーロッパでは、擬人法という形で人間の心を無生物に投影するといったやり方をしないと、景物が心模様を表現することはない。

ところが、そうした中にも例外的な存在はいる。ポール・ヴェルレーヌだ。
例えば、「忘れられたアリエット」の8番目の詩では、冬の風景が詩人のアンニュイな心持ちを伝えている。
詩句の音節数は5。5/7のリズムに馴染んでいる日本語母語者には、さらに親しみやすく感じられる。

Ariettes oubliées VIII

Dans l’interminable
Ennui / de la plaine
La neige incertaine
Luit comme du sable.

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マラルメ 「扇 マラルメ夫人の」 Stéphane Mallarmé « Éventail de Madame Mallarmé » 扇と詩

「扇 マラルメ夫人の」は、1891年1月1日にマラルメが妻のマリアに送った詩で、実際に扇の上に書かれている。つまり、扇が詩なのだ。
そして、それに対応して、詩の内容も、扇をあおぐことが詩の言葉を仰ぎ出す様子を歌っている。

Avec comme pour langage
Rien qu’un battement aux cieux
Le futur vers se dégage
Du logis très précieux

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ランボー マラルメ 詩句の仕組み

フランス文学において言葉の音楽性が重視されるが、とりわけ詩に関しては、意味と同等の重要性を音が持つ。

そうした中でも、19世紀後半の二人の詩人ランボーとマラルメの詩句は音楽的に大変に美しく、意味を理解するのはしばしば非常に困難だが、それにもかかわらず高く評価されている。
というか、最初は理解が難しくても、音楽的に美しいおかげで、なんとか意味の深みにまで到達したいという気持ちにさせられる、と言ってもいいかもしれない。

当たり前のことだが、翻訳では詩句の音楽性を感じることができない。翻訳された詩の最も大きな問題はそこにある。詩の理解にはフランス語で読む必要があるのはそのため。

ただし、一口に音楽性と言っても、ランボーとマラルメの音楽はかなり違っている。ランボーの曲はすぱっとした直線を感じさせるが、マラルメの曲は柔らかく丸みを感じさせる。

その点を前提にした上で、詩句の意味的な理解を考えてみると、二人の詩句の難しさが別のところから来ることがわかってくる。
ランボーの詩句では語彙の不整合が、マラルメの詩句ではそれに加えて構文の破壊が、意味の伝達を妨げる。

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モーパッサンからネルヴァル、ランボーへのウインク

1892年の初頭にモーパッサンが精神に異常をきたした時、治療にあたったのはエミール・ブランシュ博士だったが、博士はずっと以前にはジェラール・ド・ネルヴァルの治療も行っていた。
ネルヴァルは、エミール・ブランシュ博士の父親エスプリ・ブランシュ博士にお世話になったこともある。

モーパッサンはそのことを知っていたに違いない。直接ネルヴァルのことを話題にすることはなかったようだが、精神疾患を取り上げた「オルラ」の中には、ネルヴァルに向かってウインクをしているような記述がある。

その理由を私なりに推測すると、一般的に狂気と見なされる世界観と、詩の生み出す美とが連動していることを、モーパッサンなりに示そうとしたからだと思われる。
同じ箇所に、アルチュール・ランボーに向けてのウインクもあることから、「狂気ー詩ー美」の繋がりがよりはっきりと示される。

問題の箇所は、目に見えないが確かに実在すると感じられる存在をオルラと名付け、それが世界を構成する4つの元素(水、火、大地、空気)と同様の、なんらかの元素ではないかと自問した後に記されている。

でも、あなたはこう言うかもしれない。蝶だ! 空飛ぶ一輪の花だ! ぼくはといえば、一匹の蝶を夢見る。宇宙と同じ位大きい。羽根の形も、美も、色彩も、動きも、描くことさえできない。でも、ぼくには見える。・・・・蝶は、星から星へと向かい、その飛翔の軽やかで調和のとれた息吹で、星々を、新鮮でかぐわしいものにする! ・・・天上の人々は、蝶が通り過ぎるのを目にし、恍惚となり、魂を奪われる!・・・(「オルラ」)

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