
「1846年のサロン」の中で、ボードレールはドラクロワについて論じながら、彼自身の絵画論の全体像を提示した。
その絵画論は、ドラクロワの絵画を理解するために有益であるだけではなく、ボードレールの詩を理解する上でも重要な指針が含まれている。
1)芸術についての考え方:インスピレーションか技術か
2)作品の構想と実現:自然(対象)との関係
3)作品の効果
ボードレールは、ドラクロワの絵画に基づきながら、以上の3点について論じていく。
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「1846年のサロン」の中で、ボードレールはドラクロワについて論じながら、彼自身の絵画論の全体像を提示した。
その絵画論は、ドラクロワの絵画を理解するために有益であるだけではなく、ボードレールの詩を理解する上でも重要な指針が含まれている。
1)芸術についての考え方:インスピレーションか技術か
2)作品の構想と実現:自然(対象)との関係
3)作品の効果
ボードレールは、ドラクロワの絵画に基づきながら、以上の3点について論じていく。
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ゴッホが画家としての活動をしたのは、1881年から1890年の間の、僅か10年弱。
しかも、1886年にパリにやってきてから、アルル、サン・レミ、オヴェール・シュール・オワーズと、彼のパレットの上に明るい色彩が乗っていた期間は、4年あまり。
フランス詩の世界で言えばアルチュール・ランボーに比較できるほど、短い期間に流星のように流れ去っていった。
そして、ランボーと同じように、生前にはまったく評価されなかった。
しかし、ゴッホの死後、比較的早く、彼の絵画を評価する動きが始まり、現在では、世界で最もよく知られ、人気のある画家の一人になっている。
彼の死を境に、何が起こったのか、当時の美術界の状況を含めて見ていこう。

1889年5月初旬、ゴッホは、アルルから北東20キロほどにあるサン・レミの療養所に入院する。そこは、聖ポール・ド・モゾールという修道院を改修した精神病院で、修道女たちによって運営されていた。
最初は満足していたようであるが、制度的なキリスト教に幻滅していたゴッホには耐えられない入院生活となり、一年後の1890年5月、南フランスを離れ、パリ北部にあるオーヴェル=シュル=オワーズでの生活を始める。
そこでは、ポール・ガシェ医師の治療を受けながら、ラヴーの経営する小さな宿屋に滞在した。
1890年7月27日の夕方、ゴッホはラヴー旅館に怪我を負って戻ってくる。自分で左胸を銃で撃ったと考えられているが、他の説もあり、実際に何があったのかはわからない。とにかく、その傷が元で、29日午前1時半に息を引き取る。
この間、約14ヶ月。ゴッホは狂気の発作に何度も襲われながら、創作活動を続けた。
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1888年2月、ゴッホはパリを離れ、アルルで活動を始める。
同じ年の10月下旬にはゴーギャンが合流し、画家の共同体の夢が実現するかのように思われる。しかし、二人の画家の関係はすぐに悪化し、12月23日、ゴッホが自分の左耳をそぎ落とすという事件が勃発、共同生活は終わりを迎える。
ゴーギャンはパリに戻り、ゴッホはアルル市立病院に収容される。

1889年1月、ゴッホは退院を許されるが、2月下旬になると住民たちがゴッホの存在を恐れ、彼の立ち退きを求める請願書を提出した。そのために、再びアルル市立病院に入院させられ、5月初めまで留まることを余儀なくされる。
この15ヶ月ほどの間に、ゴッホは風景画、肖像画、静物画を数多く描き、彼の絵画を特徴付ける「黄色の世界」に到達した。
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シャルル・ボードールは、詩人としての活動だけではなく、絵画、文学、音楽に関する評論も数多く公にしている。
それらは詩とは無関係なものではなく、それ自体で価値があると同時に、全てを通してボードレールの芸術世界を形作っている。

『1846年のサロン』は、ボードレール初期の美術批評であるが、後に韻文詩や散文詩によって表現される詩的世界の最も根源的な世界観を表現している、非常に重要な芸術論である。
その中でも特に、「色について(De la couleur)」と題された章は、ボードレール的人工楽園の成り立ちの概要を、くっきりと照らし出している。
しかも、冒頭の2つの段落は、詩を思わせる美しい散文によって綴られ、ボードレール的世界が、言葉によって絵画のように描かれ、音楽のように奏でられている。
まず最初に、ボードレールの色彩論を通して、どのような世界観が見えてくるのか、検討してみよう。
続きを読むパリのアトリエ・デ・リュミエールで、2019年の終わりから2020年の始めまで、ゴッホ展があった。
超精密なマッピングで描かれたゴッホの絵画が、現れ、動き、消えてはまた現れる。素晴らしい試み。

ゴッホは、1886年2月末にパリに突然姿を現し、1888年2月になると、南フランスのアルルへと去っていく。この約2年間のパリ滞在中、彼は何を習得したのだろうか。
アルルに到着後、彼はパリにいる弟のテオへの手紙で、こんな風にパリ滞在を振り返る。
パリで学んだことを忘れつつある。印象派を知る前に、田舎で考えていた色々な考えが、また返ってきた。だから、ぼくの描き方を見て、印象派の画家たちが非難するかもしれないけれど、ぼくは驚かない。
ゴッホの意識では、アルルでの仕事はオランダ時代に続くものであり、パリでの2年間は空白の時だったらしい。

しかし、ゴッホの絵は明らかに大きな変化を見せている。彼の絵画は、印象派の影響を受け、オランダ時代の暗いものから、色彩のオーケストレーションといえるほど、明るさを増している。
ここでは、パリ滞在の2年に限定し、ゴッホの絵画を辿ってみよう。
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一人の人間の本質的な気質はどんなことがあっても変わらない。
牧師の息子だったフィンセント・ファン・ゴッホ(1853−1890)は、最初に画商グーピル商会の店員となり、次に牧師になった。
その後、絵に専念することになるが、彼の根本にある気質は不変のままだった。たとえ、農民や炭坑夫になっていたとしても、ゴッホはゴッホだっただろう。

彼の気質は、牧師を辞めさせられた顛末を通して見えてくる。
そして、その気質は、オランダ時代だけではなく、フランスで創作活動をする間も、ずっと彼の絵画の奥深くにどっしりと根を下ろしている。
二つの時期の違いは、線と色彩のどちらに重きを置くかによる。
オランダ時代は、描線によって物の形を捉える画法を探った。パリに移り住んでからは、色彩を絵画表現の中心に据えた。
ここでは、牧師になり損なったゴッホを出発点として、オランダ時代の線描を中心にした絵画について考察していく。
続きを読むフォンテーヌブロー派の美は、後期ルネサンスのマニエリスム絵画に大きな影響を受けている。
マニエリスム的な美とはどのようなものか?
盛期ルネサンスを代表するレオナルド・ダ・ビンチと後期ルネサンスに属するティントレットの描いた「最後の晩餐」を比較すると、違いは歴然としている。



16世紀フランスのルネサンスは、国王フランソワ1世の主導の下で始まった。
彼は、1519年に行われたローマ皇帝を選出する選挙で、スペイン王カルロス1世(カール5世)に敗れ、その後の軍事的な対立でも敗北を続けた。
1525年のパヴィアの戦いでは、カール5世の軍に捉えられ、捕虜としてスペインに幽閉されてしまう。
そうした状況の中、フランソワ1世が王権の力を国の内外に誇示するために行ったのが、芸術の輝きによって王の威信を高める文化政策だった。

その政策の中心地として選ばれたのが、フォンテーヌブロー城。
すでに1516年にフランソワ1世はレオナルド・ダ・ビンチをフランスに招いていたが、1528年頃からは、次々にイタリアの建築家や画家を招聘し、フォンテーヌブロー城をフランス・ルネサンスの中心地にした。