濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」は、原作とされる村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」を超えて、大変に素晴らしい作品に仕上がっている。
その証拠は、約3時間の上映時間の間ほとんど退屈することなく、一気に見ていられること。それほど明確なストーリーがないにもかかわらず、映像と音の世界に熱中していられることは、映画作品として優れていることを示している。
ストーリーに関して言えば、村上春樹の作品の中でどちらかと言えば凡庸な短編小説「ドライブ・マイ・カー」を骨格としながら、「シェーラザード」と「木野」という別の短編小説からいくつかの要素を取りだし、俳優兼演出家である家福悠介(西島秀俊)を中心にして展開する。
一方には、家福(かふく)の私生活が置かれる。
その中で、妻である音(おと:霧島れいか)が俳優の高槻耕史(岡田将生)と浮気している現場を目撃しながら、幸福を演じようとした家福の心の葛藤に焦点が当てられる。「僕は悲しむべき時にきちんと悲しむべきだった。」
もう一方には、家福の演出するチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の上演が置かれる。
こちらは、村上春樹の小説とはあまり関係なく、滝口監督が大幅に付け足した要素。日本語、ロシア語、中国語、韓国語の手話といった多言語で演じられる演出は、滝口監督が自らの作品論、芸術論、世界観を語っているとも考えられ、しかもそれが家福の私生活と関係しているという、非常に工夫された構造になっている。
それら二つの部分をつなぐのが、渡利みさき(三浦透子)の運転する家福の車、赤いサーブ900の内部空間で交わされる会話。
そこでは、死んだ妻・音が「ワーニャ伯父さん」のセリフを読む声が流れ、家福の知らない音の夢の最後を高槻が語り、ドライバーみさきが過去を語り、そして家福も自己を語る。
映画の題名「ドライブ・マイ・カー」が、映画の全ての部分を一つにまとめている。
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