
「もののけ姫」はジブリ・アニメの中でも、もっとも複雑で、難しいと感じられる作品だろう。
一回見ただけでは、あらすじさえはっきりわからない。
アシタカ、サン、エボシ、ジゴ坊、ヤマイヌやイノシシの神等の関係も入り組んでいる。
シシ神が善と悪の二面性を持つのも不思議に思われる。
最後にアシタカはサンと別れ、エボシの村に暮らすと言う。なぜサンと一緒に再生した自然の中で暮らさないのか。
シシ神の森は破壊され、別の自然が姿を現す。それを自然が再生したと考えるか、最初の自然は死んだので再生とは考えないのか。
こうして、疑問が次々に湧いてくる。
宮崎監督が最初に書いた企画書には、「いかなる時代にも変わらぬ人間の根源となるものを描く。」とあり、非常に大切なメッセージが込められていることがわかる。
物語の展開としては、縦糸が、「神獣シシ神をめぐる人間ともののけの戦い」。横糸は、「犬神に育てられ人間を憎む阿修羅のような少女と、死の呪いをかけられた少年の出会いと解放」。
しかし、こうした監督の意図を知っても、わかったという気持ちにはならない。
ところが、公開時の観客動員数は当時の日本記録を達成するほどで、大変な人気を博した。
そうしたことを知るにつけ、「もののけ姫」を理解したいという気持ちは強くなる。
「もののけ姫」の批評
「もののけ姫」の難しさは、ピントはずれの批評が数多くなされてきたことからもよくわかる。
アシタカが村を出るとき、カヤが玉の小刀を渡す。しかし、その贈り物をサンにあっさりと渡してしまい、決してカヤのことを思い出さない。
そのエピソードについて、ある評者は、カヤが不憫だと書いているだけで終わっている。

物語の最後、アシタカはサンを愛し、時々会いに行くと言い、エボシが再興するタタラ場に住む決心をする。
それに対して、ある女性の小説家は、「もしも私がサンだったら、アシタカを殴り倒して二度と会わないと思います。」と書いている。
作品全体については、評価しながらも、理解はできないというものもある。
例えば、登場人物は魅力的だが、「彼らの背後の状況が複雑で、圧巻の動画技術や演出力をもってしても語りつくされず、はっきりいってわかりにくい。」とする。そのために、「開発か、自然か。日本の現状をそのままに混迷する異色の超大作」といった、型にはまった評価で終わっている。
自分たちの持つ考えに合わないために、感情的な感想を書いただけのものもある。
「おやじの妄想を大画面で見るおぞましさ。」
「読みにくい文章をありがたがっている。」
「縄文時代が一番よかった(なんて。中略)。縄文時代といえば、人が人を喰っていた時代だ。」
「野生の狼のようなサンのエロティックな看病シーンがあってもよかった。(中略)女たちはもっと肌をさらして(略)。」
「高尚さより色気がほしい。」
これらは、叶精一の『宮崎駿全書』に再録されている、著名人たちの反発めいた感想である。
こうした批評を読むと、宮崎監督が、「いかなる時代にも変わらぬ人間の根源」として表現したものが何か知りたくなる。
そのための大きなヒントは、『清流』(1997年8月号)に掲載されたインタヴューの一節である。

日本人の神様ってのは悪い神と善い神がいるというのではなくて、同じひとつの神が、ある時には荒ぶる神になり、ある時には穏やかな緑をもたらす神になる、というふうなんですね。日本人はそういうふうな信仰心をずっと持ってきたんですよ。
しかも、現代人になったくせにまだどこかで、いまだに足を踏み入れたことのない山奥に入っていくと、深い森があって、美しい緑が茂り、清らかな水が流れている夢のような場所があるんじゃないかという、そういう感覚をもっているんですね。そして、そういう感覚を持っていることが、人間の心の正常さにつながっているような気がしています。
(中略)それは一種の原始性かもしれませんが、人間が生きるために自然環境を保護しようという以前に、自分たちの心の大事な部分に森の持つ根源的な力みたいなものが生きている民族性でもあるんですよ。
この根源的な自然=神観を頭に置きながら、「もののけ姫」を少しずつ読みといていこう。
ノーリターンの物語
昔話や民話には基本的な物語がある。
主人公に問題が起こり、故郷の村を出る。その後、数多くの試練を経て成長を重ね、最後は村に戻ってくる。
ジブリ・アニメでは、「千と千尋の神隠し」がその基本構造にもっとも忠実に従って展開する。
それに対して、「もののけ姫」は物語の基本構造に従わず、アシタカは村を出た後、故郷を思い出すことさえほとんどない。最後はタタラ場に留まる決心をし、村に戻ることを考えることすらない。
宮崎監督自身、ストーリーの作り方の方程式に従わなかったために苦労した、と述べている。
では、主人公が出発した地点に戻らない、ノーリターンの物語構造は、何を意味しているのだろうか。
出発
アシタカが村を出るまでのストーリーは、昔話の基本構造に則っている。
たたり神となった大猪が村を襲い、アシタカが少女や村を救うために戦う。そして、たたり神を倒すのと引き替えに、祟りとして腕に痣を受けることになってしまう。
これは、死に至る呪いであり、年老いた巫女ヒイさまから、「村を去るべし。」をいう宣告を受ける。
この出発点から、アシタカは西に向かい、そこで起こっている不吉なことを「くもりのない目」で見ることに務める。そして、最終的には、呪いの要因を知り、解放される。これが「もののけ姫」のメイン・ストーリーだといえる。

出発時点に戻ると、アシタカが村を出るとき、カヤが玉の小刀を彼に渡渡す。彼女は少年の許嫁とも考えられ、アシタカも彼女のことは決して忘れないと言う。
とすれば、本来であれば、呪いの癒えた少年は、故郷の村で待つカヤのところに戻り、ハッピーエンドとなるはずである。
しかし、アシタカがカヤのことを思い出すことはなく、故郷に戻らない。
そのために、カヤの渡す小刀は、ノーリターンの物語であることを強く印象付けることになる。
カヤが可哀相だという観客の反応は自然かもしれないが、あえてそのエピソードを用いることで、その理由を考えさせる仕組みを宮崎監督が用意したに違いない。
神の死
人間が神を殺すことはできない。というか、本来、神は不死の存在である。それにもかかわらず、「もののけ姫」の中では、多くの神々が堕落し、死を迎える。

山犬のモロは、猪たちに対して、愚かになったと嘆く。猪たちは人間との戦いの中で壊滅状態になり、乙事主でさえ最後は傷つき、たたり神になってしまう。
他方、モロもエボシの腕をもぎ取った後、死を迎える。

もっとも衝撃的なのは、生と死を司るシシ神の死。
夜の姿であるディダラボッチに変身している間にエボシの石火矢で撃たれ、不老不死の力が宿る首を失う。そして、巨大化し、凶暴化し、黒い粘液のようになり、全てを破壊し尽くそうとする。
最後に、アシタカとサンがジコ坊から取り戻した首を取り戻した神は、顚倒し、死を迎える。
不死であるはずのシシ神でさえ、再生しないように見える。
ここでも、ノーリターンの出来事が描かれていることを確認することができる。
ノーリターンの意味
では、アシタカが故郷に戻らず、シシ神が死ぬというストーリーを展開させることで、「もののけ姫」は、悲観的で絶望的な世界観を表現しているのだろうか。
答えは否。
アシタカは、タタラ場のエボシ、森で山犬として生きるサンを中心として繰り広げられる戦いの場に身を置き、「くもりのない目」を通して、善にも悪にも立ち会う。その過程を通し、呪いは消えていく。
彼は、森で生きるサンも、これからタタラ場をいい村にしようと決意するエボシも受け入れ、両立あるいは共生の道を選択するのだ。
そのことは、過去の道に戻るのではなく、新しい道に進むことを意味する。
この点について、村と森から考察してみよう。

アシタカの故郷は、大和朝廷によって東に追われた蝦夷の村。
王家の血を継ぐ少年が、冒険の末に呪いを解いて村に戻るとすれば、過去に戻ることになる。

鉄を製造するタタラ場は、これからどのような場所になるのかわからない。その性質上、どうしても自然と対立し、自然を破壊することになるだろう。しかし、新しい方向に進むことは確かである。
とすれば、アシタカは、過去ではなく、未来を選んだといえる。
森に関しても、同様である。


シシ神は美しい泉を中心にした深い森の神。
屋久島の樹林をモデルにして描かれているという。
こうした深い樹林は、シシ神の死と共に消滅する。ノーリターン。
しかし、その死が、自然の最終的な死となるわけではない。破壊の後でも、新しい自然が生まれてくる。

シシ神の死後、深い森の自然ではなく、里山を思わせる穏やかな自然が展開する。それは、現代の日本人が感じる美しい風景だといえる。
このように、「もののけ姫」のラストシーンは、一つの自然からもう一つの自然への移行が、生き生きと描き出されている。
ちなみに、宮崎監督によれば、文明の転換、そして自然の転換が起こったのが室町時代であり、そのために、「もののけ姫」の時代背景を室町時代にしたという。
以上のように、アニメ全体の構造をたどってみると、破壊が最終的な結果とはならず、新しい世界への移行になる可能性を感じ取ることができる。
カヤからの贈り物をサンに渡すアシタカの姿は、そうした転換を暗示している。
「もののけ姫」がノーリターンの物語であるのは、過去への回帰ではなく、未来への模索を表現するためだと考えられる。
怒りや憎しみをコントロールする
宮崎監督は、アシタカの行動について次のように語っている。
アシタカの行動は、ほとんどが自分の中に生まれてしまった憎しみをどうやってコントロールするかということに尽きるんです。
この言葉を元に、「もののけ姫」における、呪い、祟り、怒り、憎悪、暴力について考えよう。
怒りのない登場人物
奇妙なことに思われるが、アニメの中でもっとも怒りや憎しみが少ないのは、ジコ坊である。

彼は戦いの中でもほとんど感情を表すことなく振る舞い、唐傘連やジバシリ、そしてエボシ御前を使い、シシ神の首を手に入れることに成功する。
ただ、朝廷の命令に従い、目的を達成しようとしているだけで、命令の善悪を問うことはしない。
神を殺すことの善悪ではなく、言われたことを実行することだけが大切なのだ。
宮崎監督は、ジコ坊は日本のサラリーマンに近い存在と書いている。

エボシも感情に動かされない人物のように見える。
確かに、彼女は常に戦いの最中にあり、大猪の大群、モロを筆頭とする山犬、タタラ場を狙うアサノ公方配下の武士たちと烈しい争いを繰り返す。
アニメの冒頭に登場するタタリ神を生みだしたのも、彼女の銃弾だった。
彼女は弱い人間達に生きる場を提供する優しい心の持ち主だが、他方で、タタラ場が武士に攻撃されて陥落しそうになっても、シシ神殺しを優先し、村の女達を助けに戻ろうとはしない。
そんな彼女には、烈しい怒りの感情が欠けているように見える。目的を達成するために戦う凜々しい女性。
ちなみに、宮崎監督は彼女が一番好きだという。そこで、映画の最後の場面でどうしても彼女を死なせることができず、ラストシーンに苦労したと告白している。
理由のある怒りと憎しみ
石火矢の銃弾を受けた猪が、怒りのためにどろどろの縄のようなもので体を覆われて、エミシの村を襲うシーンは印象的だ。

自然との闘いの中でエボシが自然を代表する神である猪に銃弾を撃ち込み、怒りに燃えた猪神がタタリ神となった。
従って、たたり神の怒りには、はっきりとした理由がある。

猪神たちと同様、山犬のモロ一族も、自然を破壊する人間に対して怒りに燃えている。
モロは死の瞬間までエボシに対する復讐心を持ち続け、最後は彼女の片腕を食いちぎる。
これも憎しみによってもたらされる行為に他ならない。
このように、攻める人間たちに対して、守りに立つ動物神たちが怒り燃え、復讐のために暴力的な行為に及ぶのは、ごく自然の成り行きだといえる。ここには、はっきりとした理由がある。
サンも、人間に捨てられたということから、理由のはっきりした怒りのように見える。しかし、実はもう少し複雑な問題がある。
理不尽な呪いに対する怒り
サンは、自然を破壊する人間が神の怒りを静めるために生け贄として差し出た、哀れな娘。
母親代わりのモロは、サンを、山犬にも人間にもなれない、醜く哀れな娘と言う。

実は、「もののけ姫」にはアニメになる前に別の話があり、その主役はサンだった。ある武士が森の奥で大山猫(もののけ)に出会い、命乞いをする。その代償が、三人の家の一人の娘をもののけの嫁として与えるというものだった。そして、物語の常道に従って、三番目の娘が嫁として差し出される。(この三番目という数字が、サンという名前の起源になった。)
シンデレラでもプシケの話でも、日本の三匹の子豚でも、昔話の中では必ず三番目が選ばれる。
しかし、これを現実に移したとき、なぜ三番目の子が選ばれるのか理由がつかない。
アニメで言えば、なぜ他の子ではなく、サンが犠牲になったのかわからない。そして、理由がわかなければわからないほど、つまり選択の基準が理不尽で不条理であるほど、怒りは大きくなり、それをした人間に対する憎しみも深くなる。
物語の最後、サンが「アシタカのことは好きだ。でも人間は許せない。」と言うのは、その感情を明確に物語っている。
これからもサンは自分の怒りを抑えようとはせず、目前の的であるエボシを付け狙うだろう。
赤い血のついたサンの口は、理不尽な運命に対する怒りの象徴に違いない。

アシタカ 「静まりたまえ」

アシタカは村や少女達を守るために、タタリ神の怒りを押さえようとし、「静まりたまえ。」と懇願する。しかし、怒りを静めることは出来ず、弓をいって神殺しをせざるをえなくなる。
その結果、村に善を施したにもかかわらず、神のタタリを受け、腕に呪いの痣ができる。
痣は死に至る病であり、怒りの象徴でもある。
ここで重要なことは、この呪いが理不尽であり、説明がつかないということ。実際、後になって、エボシはこのタタリ神の話を聞き、「自分に復讐すればいいものを。」と口にする。
アシタカの怒りは、サンと同じように、なぜ他の人ではなく自分なのか説明がつかないところから来ている。
「もののけ姫」を通して、その怒りの激しさを表現するために、残酷なシーンが数多く描かれている。
アシタカは、怒りが引き起こす暴力を鎮めることを学ぶ必要があった。さらには、サンの怒りを静めることも、アニメの大きなテーマとなっている。

アシタカの腕は呪いを受けたために、 怒りを感じると、烈しく反応し、暴力的になる。
とりわけ、村を出て西に向かう街道で馬に乗った武士たちに襲われたときの表現は、非常に激しい。
反撃のために射った弓は、一人の腕をもぎ取り、もう一人の顔を吹き飛ばす。
この時アシタカは、抑止力とはいいながら暴力的な力に身を任せている。
暴力的行為の出発点がこれほど烈しく描かれているのは、ここからアシタカが怒りをコントロールしていく過程を、観客に伝えるためだと考えていいだろう。
戦さで傷ついたタタラ場の二人のけが人と一緒に森の中で最初にシシ神を見るときも、腕がぶるぶると震え、タタリの痣(あざ)がうずく。
この時にはまだシシ神が何かわからず、戦わないといけないという気持ちの気持ちがわき上がってきたのだろう。

しかし、清い水の中に腕を浸し、怒りを静めることができる。これが感情をコントロールできた最初の体験である。

次にアシタカの腕がうずくのは、タタラ場でサンを救うとき。
彼は、サンの方に向かおうとするのを止める男の刀を簡単に曲げてしまう。
そして、村人達に右腕を見せ、「怒りに身を任せるな。」 と叫ぶ。

最後に彼の腕が暴れるのは、猪たちとの戦に借り出されたタタラ場の人々を助けにいく場面。
矢で射られたヤックルと自分を守るため、刀と弓で3人の武士たちの腕や首をふっとばす。
その時も、相手に向かって「来るな。」と叫ぶ。
しかし、防衛のために、最終的には暴力に身を任せることになった。
このように見てくると、アシタカは物語が進むにつれて、怒りをコントロールできるようになったわけではないことがわかる。
常に必死の思いで怒りを静め、思い通りにならない自分と向き合おうとする姿を見せているのである。

物語の最後、シシ神に首を返した後になっても彼の右腕の痣の痕は残る。しかし、それは死に至る病ではなくなっている。
アシタカは故郷の村のヒイ様に告げられた予言に反して、生き続けることができる。そのことは、呪いが解けたことを意味する。
理不尽に受けたタタリに打ち克つことがでたのだ。
「もののけ姫」が難しいのは、どのようにして呪いが解けたのか、アシタカがどのようにしてそれに打ち克ったのか、説明がされていないからだろう。
その謎を解くヒントになるのは、村を出るときのヒイさまの言葉。
曇りのない目で物事を見れば、呪いを絶つ道が見つかるかもしれない。
曇りのない目で森とタタラ場の戦いを見たとき、どちらが正しく、どちらが間違っていると断定することはできない。
アシタカはその中で、両立する道、調和の道を探ろうとしてきた。
怒りにまかせた暴力では何も解決できないと悟ること。それが、くもりのない目で見ることだといえる。
映画の中で、明確な解決策は示されないことに、不満を抱くかもしれない。
しかし、抽象的であろうとも、中途半端に見えようとも、目を曇らせないように努めることでしか、不条理に蒙ったタタリに対する怒りを静める道はない。
そのことは、森とタタラ場との戦い、自然と文明との相剋について考察することで、はっきりしてくるはず。
心の中に潜む自然
ジブリ・アニメは『風の谷のナウシカ』の頃から、エコロジー的だと言われることがある。それに対して、宮崎監督がそうした見方にはっきりと反発してきた。
「もののけ姫」でも、サンとエボシの対立は、森(自然)と鉄(文明)の対立だと見なされることがある。
そのような観点からだと、対立に解決策が示されないこと、アシタカが受け身的でどっちつかずなことに対して、非難がなされることにる。

宮崎監督は、このテーマに関して、古代メソポタミアの神話『ギルガメッシュ叙事詩』との類似を指摘している。
ギルガメッシュ王は、友人と共にメソポタミアには存在しない杉を求めて旅に出、神の命令に反して怪物を倒し、杉を手に入れる。
このように、紀元前5000年の昔から、人間は自然と闘い、神に反抗してまでも自分たちの文明を発展させてきた。
その意味で、人間は自然を破壊するように運命づけられた呪われた存在だと、監督は考えている。
しかし、結果の善悪は、それを判断する人の視点によることを思い出す必要がある。開発と自然保護のバランスは微妙で、正しい結論は出ない。アシタカがどっちつかずの姿勢でいるのは、そのためなのだ。
自然を守るためにタタラ場が消滅すれば、人間の世界から鉄がなくなる。
他方、朝廷からの命令を受けたジゴ坊にシシ神の首を持っていかれ、自然が荒れ狂った状態を放置すれば、タタラ場が破壊されるだけではなく、自然そのものもいつか死に絶えることになる。
「曇りのない目で物事を見る」としたら、自然と文明の対立には絶対的な解決策はなく、その時その時でなんとかやりくりしていくほかない、ということになる。
そして、そのやりくりがどのようなものなのか、どうしたら共存でき、調和を保ているのか、わからない。。。
この中途半端さこそが、「もののけ姫」のエコロジーに関するメッセージだと考えられる。
ただし、ここで終わっては、もう一歩進んだメッセージが見えてこない。
そのメッセージとは、ジブリ・アニメの中で自然が美しく描かれることと関係し、宮崎監督の全ての映画の本質と関わっている。
そして、それが「もののけ姫」では、ノーリターンの物語構造の中で、見事に表現されている。
もっとも本質的なメッセージは、自然は生命そのものであり、死ぬことはないということ。「生きろ」という映画のコピーも、それと関連している。

確かに、シシ神は死ぬように見える。しかし、これは半分は正解で、半分は間違い。
最後の場面、サンは回復した美しい自然の光景を目にして、悲しみにくれ、こう言う。
甦ってもここはもうシシ神さまの森じゃない。シシ神さまは死んでしまった。
それに対して、アシタカは応える。
シシ神は死にはしないよ。命そのものだから。
一つの自然は人間が破壊し尽くしてしまうかもしれない。しかし、それでも、命そのものは続く。また、別の自然がどこかで生まれてくる。
「もののけ姫」の根本的な思想は、このように表現できるだろう。

宮崎監督は、それを日本人の原始的な宗教心あるいは精神性だと考えている。
今でも多くの日本人の中に宗教性として強く残っている感情があります。それは自分たちの国の一番奥に、人が足を踏み入れてはいけない非常に清浄なところがあって、そこには豊かな水が流れ出て、深い森を守っているのだと信じている心です。(ベルリン国際映画祭、44の質問)
最初に引用したインタヴューでは、次のように言われていた。
現代人になったくせにまだどこかで、いまだに足を踏み入れたことのない山奥に入っていくと、深い森があって、美しい緑が茂り、清らかな水が流れている夢のような場所があるんじゃないかという、そういう感覚をもっているんですね。
そして、そういう感覚を持っていることが、人間の心の正常さにつながっているような気がしています。(『清流』1997年8月号)
もっとも基本的な自然とは、心の中にある。それをイメージで表現すると、山奥の森の中に泉があり、清らかな水が流れている、ということになる。
「もののけ姫」のシシ神の泉であったり、「風の谷のナウシカ」のフカイの奥に潜む清流。ジブリ・アニメ全体を通して出てくる「水」のイメージ全てに通じるものだろう。
この夢のような場所があるという感覚を持つことが、人間の心の正常さにつながると、宮崎駿監督は考えている。
実際の解決策を求める人たちは、こんな中途半端な言葉には満足しないかもしれない。
しかし、清い水をたたえた深い森こそが生命そのものであり、それさえ保っていれば、外部の自然は形を変えながらも生き続けることになる。
こうした宗教性、原始性の存在を気づかせたいというのが、「もののけ姫」の「もう一歩進んだメッセージ」だと考えても、間違ってはいないだろう。
自然と共存が宮崎作品に貫かれていることと感じています。その反面人間の視点では飛行機がロマンとしても描かれている。上手くバランスを取れない人間の不完全さがドラマを生むし、それが美しい心と繋がっている。頭で考えてばかりの現代人の心に感じることを教えてくれる宮崎作品が大好きです。考えは人の数だけあっていいと思います。
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