マラルメ 「蒼穹」 Mallarmé « L’Azur » 初期マラルメの詩法

マラルメの詩は難しい。それは日本人の読者にとってだけではなく、フランス人にとっても同じこと。なぜこんなに「難解(obscur)」なのだろう。

日本では本来の難解さに、別の問題が加わった。
マラルメ紹介の初期、東大教授だった鈴木信太郎が中心的な役割を果たした。彼の訳文は難しい漢字のオンパレードで、普通の読者には理解不可能なものだった。
その上、マラルメの詩が、言語の根底を問い直す哲学的な側面を持っているため、逆に読者は「難解さ」に安住する傾向が出来上がってしまった。わからなくて当たり前という風潮。分からないものをありがたがるインテリの読者。。。

その一方で、音楽性は顧みられず、マラルメの詩を声に出して読むことは冒瀆と考えられる時代があったという。詩の音楽性が重要であることは、マラルメ自身が強く主張している。音声軽視は、日本のマラルメ受容にとって大変に不幸なことだった。

初期のマラルメが自らの詩法を展開した「蒼穹(L’Azur)」を読み、彼が詩をどのように捉えていたのか見ていくことにしよう。

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ヴェルレーヌ「詩法」 Verlaine « Art poétique » 何よりも先に音楽を La musique avant toute chose

詩は大きく分けると、歴史や神話を語る叙事詩と、個人の思いや感情を吐露する抒情詩に分類される。
19世紀のフランスでは、抒情詩が詩の代表と考えられるようになり、それに伴い音楽性がそれまで以上に重視されるようになった。
とりわけ、19世紀後半の詩人達、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメたちの詩句は音楽的である。

ポール・ヴェルレーヌの「詩法」« Art poétique »は、「何よりも先に、音楽を」という詩句で始まり、抒情詩=音楽の流れを見事に表現している。

実際、ヴェルレーヌ自身大変に音楽的な詩人であり、彼の詩は数多くの作曲家によって曲を付けられ、現在でもしばしば歌われている。
https://bohemegalante.com/2019/04/13/verlaine-musique-philippe-jaroussky/

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芸術のために

芸術の種類

芸術にはどんなものがあるか、思い出しておこう。

映画を第七の芸術と呼ぶことがある。
(1)建築、(2)彫刻、(3)絵画、(4)音楽)、(5)ポエジー(詩、文学)
これらは、物質的な側面の強いものから精神的な側面が強いものへという順番に従って、ヘーゲルが列挙したものである。
(6)ダンス(舞踏)、(7)映画

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動詞と名詞 概念と具体化

文を作る要素の中心は、動詞と名詞。
多くの場合、動詞は活用され、名詞には冠詞などの限定詞が加えられて、文の中で機能を果たす。
では、活用や冠詞などはどのような役割を果たしているのだろうか。

Danserという動詞の原形(活用しない形)は、踊るという意味の概念を示している。
livreという名詞は、本という概念を示している。
概念は一般的な意味であり、現実の事象を表現しているのではない。

実際の事柄に言及する場合には、動詞を活用し、名詞に冠詞などを付けて概念を具体化する必要が出てくる。

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ハウルの動く城 歩くことと家族の形成

「ハウルの動く城」は、公開時から人気を博し、観客動員数では「千と千尋の神隠し」に続いて2位になった。その一方で、批評はかなり厳しく、「ストーリー、とくに後半のストーリーがわかりにくい」、「盛り上がりに欠ける」、「分からないからつまらない」など、映画の評価としては過去最低だった。

確かに、見ていると楽しいけれど、映画全体を通して何を言いたいのかわからない。ストーリーを思い出すのが難しいほどだし、たくさんの謎がある。
ソフィーがおばあさんになったり、若返ったりする理由。
城の扉にある四色のボードと外の空間の関係。戦いの意味。
ハウルは誰と戦い、何のために戦っているのか。
なぜ城が動くのか。等々。

そうした中で一貫しているのは、「歩く」というテーマだろう。歩くことが、ハウルとソフィーの恋愛を成就させ、全ての混乱を収束させる力になる。

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万引き家族 言葉と現実

「万引き家族」は、親の死亡届を出さず、年金を不正に受給していた家族の実話に基づき、是枝裕和監督が家族のあり方を考えた映画だという。(wikipedia)

現在、実の親による子どもの虐待が度々ニュースで報じられる中、血の繋がらない大人と子どもが集まり、家族のように暮らす人々を描いたの映画。

家族は血が繋がっていると考えるのが普通の考え方。血縁関係にない人々がいかにも家族のように暮らしても、疑似家族にしかならない。家族のまねごと?

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日本語の主観性

日本語はウチの言葉であり、お互いが同じ共同体にいることを前提としている。
https://bohemegalante.com/2019/04/17/japonais-langue-interieure/

そのことから二つの特色が派生してくる。
1)モノローグ的言語
2)臨場感

池上嘉彦の『日本語と日本語論』の助けを借りて、この二つの点について考えてみることにする。

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ジブリ・アニメ(宮崎駿監督作品)の中の自然

ジブリのアニメの中で、自然が大きな役割を果たしていることはよく知られている。そこで、日本における自然の概念と合わせて、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」を通して、宮崎駿監督の描く自然について考えてみよう。

宮崎監督は、「海外の記者が宮崎駿監督に問う、『もののけ姫』への四十四の質問」と題されたインタヴューの中で、アニメの中の自然はについて、次のように答えている。

現実の森を写生したものではなく、日本人の心の中にある、古い国が始まる時からあった森を描こうとした。(『ジブリの教科書10 もののけ姫』)

心の中にある森は、日本人の信仰とも関係している。

日本人の神様ってのは悪い神と善い神がいるというのではなくて、同じひとつの神があるときには荒ぶる神になり、あるときには穏やかな緑をもたらす神になるというふうなんですね。日本人はそういうふうな信仰心をずっと持ってきたんですよ。しかも、現代人になったくせにまだどこかで、いまだに足を踏み入れたことのない山奥に入っていくと、深い森があって、美しい緑が茂り、清らかな水が流れている夢のような場所があるんじゃないかという、そういう感覚をもっているんですね。そして、そういう感覚を持っていることが、人間の心の正常さにつながっているような気がしています。(・・・)それは一種の原始性かもしれませんが、人間が生きるために自然環境を保護しようという以前に、自分たちの心の大事な部分に森の持つ根源的な力みたいなものが生きている民族性でもあるんですよ。(『清流』1997年8月号)

そうした森や自然が、ジブリ・アニメの中ではどのように描かれているのだろうか。

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ノルマンディー上陸作戦

6月6日は、第二次世界大戦の最後、ドイツに占領されていたフランスが、アメリカを中心とした連合軍の助けによって「解放」される第一歩となった、ノルマンディー上陸作戦の日。
2019年は、75周年ということで、いろいろな報道が行われている。

その中で、Quotidienでは、1944年、ドイツと協力関係にあったヴィシー政権下のメディアが、上陸作戦をどのように伝えていたのか、当時の映像を紹介していた。

https://www.tf1.fr/tmc/quotidien-avec-yann-barthes/videos/zoom-disait-presse-collaborationniste-6-juin-1944.html

ドイツ占領下、連合軍の攻撃はテロ行為として報道された。その同じ行為が、戦後になると、解放のための英雄的戦いと捉えられるようになる。

フランスの大きな社会問題  夫の暴力で死亡する女性

Quotidienという番組で、夫の暴力で死亡する女性の数が、フランスでは非常に多いという話題を扱っていました。今年に入って、61人の女性が死亡しているそうです。

https://www.tf1.fr/tmc/quotidien-avec-yann-barthes/videos/mesures-d-eloignement-c-bidon-temoignage-de-laura-victime-de-violences-conjugales.html

フランス映画を見ていると、しばしば普通の人が非常に暴力的な場面に出会います。こうした面も、フランスの現実なのでしょう。