コミュニケーション言語と文学言語 

普段私たちは言葉を使ってコミュニケーションをしている。
その時に大切なことは、相手にこちらの意図が伝わること。その場その場で、最も状況に則した言葉を使い、できるだけクリアーに、誤解のないように話すことが求められる。

同じ言葉を使いながら、文学の言語は、違う役割を果たす。
作家が読者に意図を伝えるという構図は同じように見える。しかし、話し手と聞き手が共有している「状況」は存在しない。

コミュニケーション言語では、発話者と受信者が共有する場を前提にしているのに対して、文学言語では、その場が存在しない。
そのことが、芸術としての言葉のあり方と大きくかかわっている。

昨日の夕方の会話。
妻:「50歳を過ぎて皺も白髪が増えたから、あまり写真に写りたくない。」
私:「・・・。」(苦笑い)

歳を取り、容姿が衰えるのはしかたがないだろうし、愚痴る女性もいるだろう。
妻の言葉は、ある日の夫婦の会話として、ごく普通に交わされるもの。
妻(発話者)と夫(受信者)がリビングルーム(状況)で言葉をやり取りする。そこで重要なことは、意味の伝達であり、一旦意味が伝われば、言葉の表現(どんな言い方をしたのか)は忘れてしまうことが多い。

次に、9世紀の歌人、小野小町の有名な歌を読んでみよう。

花の色は 移りにけりな いたづらに 
わが身世にふる ながめせし間に

作られてから1000年以上経つが、この歌は決して色褪せず、今でも私たちの心を打つ。

世の儚さと、歳を取るに従って自らの姿が衰えていく様子を掛け合わせながら、あきらめとも、諦観とも、もののあわれとも受け取れる感情。こうした微妙な情感を、この歌から読み取ることができる。

また、言葉遊びに気付くと、面白さがさらに強く感じられる。
「よにふる」は、世を渡ることと、雨が降ることを組み合わせた言葉遊び。
「ながめ」は、長雨と眺めをかけている。

もしこの歌が自分の美貌の衰えを愚痴ったコミュニケーション言語だと見なされる場合、相手に気持ちが伝わった時点で、役割は完結する。
コミュニケーション言語では、一つの状況の中で、自分の気持ちを相手に伝えれば、それで終わりになる。

しかし、「花の色は」の歌は、21世紀の現代でも読み継がれ、愛され続けている。
それはなぜか?

その理由は、9世紀に小野小町がこの歌を歌った状況から言葉が切り離され、言葉そのものとして自立するだけの価値をもつ表現として成立しているところにある。

コミュニケーション言語の場合:
話者の伝えたい意味を聞き手は読み取る。二人は同じ状況を共有している。

話者意味・表現←話し相手

文学言語の場合:
作者の込めた意味が弱まり、表現と意味の関係が薄れている。

(作者→意味・・・)/「表現」/←意味←読者

小野小町の和歌を「表現」とすると、読者は和歌から意味を読み取り、その情感や言葉の美を感知することになる。
言い換えると、作者である小町や、同時代の宮廷人たちとは関係なく、後の時代の読者は、「花の色は」の歌の意味を読み取ろうとし、自分たちの思いを込め、素晴らしい歌と感じる。

従って、文学言語の価値は、作者の込めた意味以上に、読者が豊かな意味を読み取る可能性を持つ表現であるかどうかにかかっている。

その意味で、クリアーに意図を伝達することを目的とし、表現自体にさほど価値を置かないコミュニケーション言語とは対照的である。

さらに言えば、表現に意識を向けさせるために、意味の透明性を下げることも、文学言語においてはありうる。
その結果、わかりにくい、難しいと感じられる表現であることも起こり、文学は難しいと感じられる原因となっている。

結局、文学言語を読むときには、表現に強い意識を向け、読者が豊かな意味を生み出すことを心掛けることが大切となる。

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